第7話「旅立ちの夜、祝福の食卓』〜忘れないで、君と食べたこの夜を〜
山の緑がしっとりと色づく夕暮れ、
台所からふわりと立ちのぼるのは、ハーブと出汁のやさしい香り。
夏のはじまりに、家族がそっと集う時間。
ふたりのために用意された食卓には、言葉にできない想いが静かに並びはじめていました。
夏の夕暮れ、台所からはハーブと出汁の香りがふわりと立ちのぼり、山荘の空気にそっと祝福の気配が混じりはじめていた。
マルセルが鍋の縁に手を添え、低く落とした火加減をじっと見つめる。
「……もう少し落としましょう。あまり煮立たせると、ムールが身離れします。」
「さすがですね。……あとはサフランの香りをもう少し立たせたいところです」
そう言いながら、マルセルは手早くバターとトマトピューレの量を調整し、スープに深みを重ねていく。
横ではリュシアンが頷き、香草を丁寧に束ねて鍋へと落とした。
「この三浦産の白身魚、イサキ──脂がちょうど乗っていて、身も崩れにくい。東京湾に近いから潮のミネラルも濃くて、ブイヤベースに向いてるよ」
「本来は地中海の魚を使う料理ですが……イサキは、香りと旨味の立ち方が繊細で。今夜のこの鍋には、よく合いますね」
マルセルはそう言いながら、ゆっくりと鍋をかき回す。
「なんだかこの鍋、家族の船みたいだな」
リュシアンがぽつりと呟いた。
「ひとつひとつの素材が、ちゃんと個性を持って語りかけてくる」
「……詩人だな、君は」
マルセルが少し笑うと、リュシアンは瓶のラベルを拭いながら、軽やかに返す。
「今夜はこれを開けよう。シャブリ・プルミエ・クリュ、2009年。
ミネラルと樽香がほどよく丸くなってきた頃合いで、魚介の旨味と重ねて飲むと、一瞬──“余韻が逆再生”するんだ」
「……マリアージュですね。魚も、ワインも、年月も。すべてが、出逢うべきときに交差する」
マルセルはグラスを並べながら、静かに頷いた。
その頃、台所の隅では──
「……ちょっと、なんでこんなに崩れるの。三角形のはずなんだけど」
「だから、力入れすぎ。こう、手のひらでふわっと形をつくるんだよ。……ほら」
玲央がそっと手を添えると、シトロンの睫毛が揺れ、わずかに頬を赤らめる。
「ふわっと、ね……レオに言われたら、ふわっとキスしたくなるじゃない?」
「……真面目にやれって」
「真面目だよ、愛については」
玲央が小さくため息をこぼすと、シトロンは満足げに月型のおむすびを盛り皿へそっと置いた。
こうして、料理が仕上がっていくなか、
シトロンはひとつの皿を手に、そっと玲央のもとへ向かった。
皿の中央にのっていたのは、小さな丸い焼きおにぎり。
その形と色合いは、どこか月を思わせる。
焼き目はやわらかに波を描き、表面には紫蘇とレモンの葉が飾られ、淡い金粉が光の加減でかすかに揺れていた。
「これ……旅立ちの前の、“月のまかない飯”ってことで」
そう言って、シトロンはひときわ静かな声で、皿ごと玲央の手元へ差し出した。
「……僕に?」
「うん。宴の料理とは別。これは……レオ専用」
そう言ったシトロンのまなざしは、いつになくまっすぐだった。
玲央は少し驚いたようにおにぎりを見つめ、そっと笑みを浮かべる。
「……こんなにこだわったおにぎり、初めて見たよ」
「だろ? でも中身はちゃんと、日本の味。出汁と柚子の香り、少しだけレモンピールも入ってる」
玲央はそっとおにぎりを受け取った。
指先に伝わる、あたたかな丸み。
「……じゃあ僕も、フランスでちゃんと日本のこと、忘れずにいるよ」
その言葉に、シトロンがわずかに表情をゆるめ──
けれど、少しだけ真顔になって、ぽつりと呟いた。
「……忘れられたら、困る」
玲央はその視線を受けとめ、答えの代わりに一口かじる。
ほのかに柑橘が香るやさしい塩気が、口の中に広がっていった。
それはまるで、遠く離れても繋がる記憶の味だった。
その直後、厨房の奥からマルセルの声が響いた。
「盛りつけに入ります。おふたりもどうぞ」
ふたりは目を見合わせ、わずかに頷き合って、それぞれの手を動かし始めた。
──そして、食卓が整った。
《冬瓜と帆立の冷製すまし椀 〜柚子香るジュレ仕立て〜》
《鎌倉野菜のグリルサラダ 〜梅と白ワインのヴィネグレット〜》
《三浦の魚介たっぷりブイヤベース 〜フヌイユ香るサフランスープ〜》
《月のまかないおむすび(シトロン作)》
《甘夏と白ワインのジュレ》
リュシアンが白ワインを注ぐと、グラスの中に淡く黄金色の光が揺れた。
「ふたりの門出に、この一本を。……熟成したシャブリは、青春のあとの静かな強さに似てる。
酸味が穏やかになっても、芯は──ちゃんと残っているから」
「……リュシアン様。やはりあなたのコメントには、情感がございますね」
マルセルが少しだけ照れたように笑った。
その夜、祖母・紗英も、薄紅の花柄の羽織に銀の髪を結い上げて、食卓に現れた。
「ありがとう。お誕生日の祝いなのに、今夜はなんだか──家族がもう一度ひとつになる日みたい」
「誕生日、おめでとうございます」
玲央が立ち上がって、そっとグラスを掲げた。
「この家で、母の想いを感じながら過ごした時間は──きっとこれからの旅の礎になります。母も……この食卓のどこかに、いてくれた気がします」
「ええ、きっとね」
グラスが重なり合い、静かに音を立てた。
ワインの香りが、やわらかく空間に溶けてゆく。
そのとき、シトロンが玲央をじっと見つめた。
「……レオが笑ってると、世界が静かになる。ずっとそのままでいてくれる?」
玲央は答えの代わりに、そっと手を差し出した。
「……うん。行こう、これからも一緒に」
指先が触れ合い、やがて絡まる。
それは、祈りのような、未来への小さな誓いだった。
──夏の夜、祝福の灯りが、静かにふたりを照らしていた。
.....to be continued...
【本日のレシピ】
《三浦産イサキのブイヤベース ~フヌイユ香るサフランスープ~》
▶︎材料(4人分)
・イサキ(三枚おろし or アラつき):1尾分
・アサリ:200g(砂抜き済)
・ムール貝:8個
・エビ(殻付き):4尾
・セロリ:1本
・玉ねぎ:1個
・フヌイユ(フェンネル):1/2本(なければセロリ葉+ディル少々)
・ニンニク:1片
・トマトピューレ:100ml
・白ワイン:100ml
・オリーブオイル:適量
・サフラン:ひとつまみ(湯大さじ2で抽出)
・塩:適量
・胡椒:少々
・バター:10g
・ローリエ、タイムなど香草:適宜
▶︎作り方
1. 魚は下処理をし、塩を振って10分おいてから軽く水洗い。骨ごと使用可。
2. 鍋にオリーブオイルを熱し、潰したニンニクと薄切り玉ねぎ・セロリ・フヌイユを炒める。
3. 香りが立ったら魚のアラ・エビ・白ワインを加え、アルコールを飛ばす。
4. トマトピューレと水400ml、香草、ローリエを加え中火で煮込む(20分)。
5. サフラン液、バターを加えて香りを立て、貝類を投入。煮立たせすぎず火を通す。
6. 最後に塩・胡椒で味を調え、盛りつけ時にフヌイユの葉を飾る。
パンやルイユ(ニンニク入りマヨ)を添えても◎。
〜マルセルの一言:
「de la Lune家の祝いの席では、素材の声を聞くようにして仕上げるのが習わしです。
静かな火と、香りの交わり──鍋の中にも、対話がございますから」〜
《月のまかないおむすび(シトロン作)》
▶︎材料(4個分)
・白ごはん:茶碗2杯分(熱すぎず、ふんわりと)
・鰹出汁:大さじ2(炊飯時に加える or 混ぜ込み)
・紫蘇(千切り):2枚分
・レモンピール(みじん切り):少々
・白ごま:少々
・塩:少々
・焼き目用:薄口醤油+バター少々
・飾り用:紫蘇・レモンの葉・金粉など(お好みで)
▶︎作り方
1. 炊きたてごはんに出汁、紫蘇、レモンピール、白ごま、塩を混ぜて少し冷ます。
2. 丸型にふんわりと握る(※“ふわっと”がポイント)。
3. 表面に薄口醤油+バターを塗り、フライパンまたは魚焼きグリルで軽く焼き目をつける。
4. 上に紫蘇とレモンの葉を飾り、淡く金粉をひとふり。
→ “月のかたち”を意識した、上品な一皿に。
〜シトロンの一言〜
『形も香りも完璧。──お前が忘れないように、俺を詰めといた』
玲央のためだけに作られた、月のかたちのおむすび。
それを手渡すシトロンの横顔には、どこか照れくさそうな、でもまっすぐな気持ちが宿っていました。
海の香りがにじむブイヤベース、祖母のやさしい笑顔、
そして「忘れないよ」という玲央の小さな約束。
この夜が、ふたりの旅の、そっと背中を押してくれる灯りになりますように──
そして次回から、いよいよパリ編がはじまります。
母の記憶と“月の記録室”が待つ場所へ、ふたりは静かに旅立ちます。