第3話「記憶の残響」 〜その旋律は、語られなかった約束〜
音楽が語るものは、言葉よりも遠く、深い。
それは、知らなかったはずの風景や、
名も知らぬ誰かの想いすら呼び覚ます。
そして今夜、
ある旋律が、一つの約束の記憶を揺らしはじめる──
アラン・モンレアル。
〈Maison Montreuil〉の創業者にして、今もなお最前線で美を生み出すクリエイティブ・ディレクター。
その彼が、今はただ、息を詰めて音に囚われていた。
視線の先には、Zèeの指先。
鍵盤に触れるたび、身体の奥で何かが軋んだ。
拭いもせぬ汗が頬を伝うのも忘れ、アランはただ、必死に音を追いかけていた。
──ピエール。
心の底から、ある名が浮かび上がる。
若き日の記憶。
祖母エリーゼが口を閉ざしてきた、“消えた恋人”の面影。
Zèeの旋律は、それを無遠慮に呼び起こした。
中庭の白バラ、陽に照らされた石畳、笑顔の青年。
淡く色褪せていたはずの情景が、音とともに容赦なく胸に迫ってくる。
喉が詰まり、息が浅くなる。
湧き上がってくるのは、喜びでも悲しみでもない。
ずっと気づかぬふりをしてきた“欠落”が、暴かれた痛みだった。
「……なぜだ」
漏れた声はかすれ、震えていた。
隣に座る玲央が、そっと彼を見やる。
シトロンの視線も、鋭く揺れていた。
けれど、アランにはもう、誰の存在も届いていなかった。
音に引き込まれるまま、
彼は祖父ピエールの“記憶の底”へと沈んでいった。
──若き日のピエール。
まだ二十代前半の青年。
白シャツの袖を無造作に捲り、明るく笑う横顔。
その瞳には、未来への光と、ただひとりの女性への愛が宿っていた。
腕の中には、金髪を風に揺らす少女──エリーゼ。
パリの裏路地。
石畳の影に身を潜め、ふたりは熱く口づけを交わしていた。
「明日の夜、駅で待っている。必ず来てくれ」
「……ええ、必ず。あなたと一緒なら、どこへでも行ける」
その声は、震えながらも、どこか誇らしかった。
令嬢とユダヤ人青年──決して許されるはずのない恋。
だからこそ、ふたりは駆け落ちを誓ったのだった。
──だが、その約束の朝。
ピエールは、妹のミミと並んでいた。
まだ陽も昇りきらぬ石畳を踏みしめながら、待ち合わせの駅へ向かっていた。
そのとき。
黒い影が路地を塞ぎ、軍靴の音が響く。
怒声、強引に掴まれる腕。
背を押され、視界が乱れた。
「兄さん!」
「ミミ!」
叫びも虚しく、ふたりは連れ去られた。
冷たい鉄の扉が背後で閉じ、次に目を開けたとき、彼らは汽車に詰め込まれていた。
車内には、息が詰まるような空気。
狭い隙間の中、ミミの瞳だけがかすかに揺れていた。
「……お兄さま……きっと……エリーゼは……」
「え……?」
「……赤ちゃんが……いるの……かも……」
言葉は涙に濡れ、かすれて途切れた。
けれどピエールは、はっきりと理解した。
自分が帰らなければならない理由。
命を懸けても、あの人のもとへ──
そう願った。
しかし、願いは届かなかった。
闇の中を、汽車が走る。
誰も声を出さず、ただ車輪の響きが、未来を削るように軋んでいた。
アランは、その列車の中にいた。
ピエールの視線で、息を止め、沈黙を飲み込んでいた。
やがて、汽車は止まり、扉が開く。
冷たい風が流れ込む。
胸の奥が、きゅう、と痛む。
遠くには高くそびえる鉄の門。
霧に溶けたその言葉は読めずとも、
“そこをくぐれば戻れない”ことだけが、すべてを物語っていた。
ピエールはミミの手を強く握った。
彼女の瞳には、恐れと祈りが同居していた。
「お兄さま……忘れないで……エリーゼのこと……
赤ちゃんが……あなたを待ってるの……」
その囁きは風にさらわれながらも、ピエールの心に深く残った。
もう帰れないことを悟りながら、ただ一つの想いだけが残った。
──愛している。
──たとえこの身が消えても、君と子を見守り続ける。
幻影は、ふっと途切れた。
アランは深く息を吸い込み、静かに目を開いた。
Zèeの旋律はまだ続いていた。
だがそれはもう、“音楽”ではなかった。
過去と現在を繋ぎ、忘れられていた真実を容赦なく暴く、残酷な記憶そのものだった。
震える指でグラスを掴み、喉を潤そうとする。
だが、飲み干しても、渇きは消えなかった。
祖父の声が、まだ胸の奥で鳴っていた。
À suivre.
誰かが誰かを愛し、
その想いが語られぬまま、時の向こうに消えていったとしても。
それでもなお、
音に宿った記憶は、
確かに届くことがある。
あの旋律が語ったのは、
失われた愛と、叶わなかった約束だったのかもしれません。




