第22話「月の間に灯るもの」〜継がれる想い、満月の誓い〜
香りが導くのは、言葉にならなかった祈りの記憶。
月の光に照らされた空間で、玲央とシトロンはふたりの“魂の儀式”を迎えます。
そこに灯った想いは、時を超えて、今、ひとつの答えをくれました。
記憶の間を出た瞬間、廊下の先──サロンの中央に立つひとつの人影があった。
「マルセル……」
玲央がそうつぶやくと、マルセルは何も言わず、ただ一礼し、静かに左手の階段へと身を引いた。
サロンからは、左右対称に伸びる二本の階段。
右は記憶の間へ。そして左は──月の間へと続いている。
その階段の上にある丸屋根の構造も、記憶の間とまるで鏡写しのように設計されていた。
玲央は、一瞬だけマルセルと目を合わせる。
言葉はなかったが、そこには確かに──“続きはそちらです”という、静かな合図があった。
玲央はうなずいた。
シトロンも、それに合わせるように、彼の横に並ぶ。
階段をのぼり、銀の装飾が施された扉の前に立つ。
そこにも、月を模した銀のプレートが嵌め込まれていた。
まるで、先ほどの記憶の間の“対”のように──。
ふたりは自然に、同時に手をかざした。
次の瞬間、ほんの微かな風が吹く。
月の香りに似た、温かな香煙がふたりの指先から立ち上るように漂い──
──カチリ
音もなく、扉が開いた。
「香炉を──」
マルセルがふたりの後ろから歩み寄り、両手で銀の香炉を差し出した。
部屋の中央には、数段の台座と、香を収めるための**香帳**が何冊も整然と置かれている。
その名には見覚えがあった。
──クロエ──真澄──瑠璃
シトロンは、迷いなく瑠璃の帳面を開く。
「……これだ」
選んだのは、白檀に月桃を合わせた香。
やさしく、少し寂しげで──けれど確かに、瑠璃らしい香りだった。
玲央がそれを香炉に添え、マルセルが小さな火を灯す。
火種が静かに香に触れた瞬間、部屋中に、時間が滲みはじめた。
月光が、天窓からまっすぐに降りてくる。
ふたりはそっと腰を下ろし、その中心で香を浴びる。
煙はやがて、輪郭を曖昧にしながら──映像にも、記憶にも、なににも分類できない“祈りの光”となって広がりはじめる。
──真澄とクロエが笑い合う。
──妊娠したクロエの肩をそっと抱き、空を見上げる真澄。
──まだ幼い瑠璃を抱いて、亡き妻を悼む真澄。
──香をたき、ひとりで月に祈る成長した瑠璃。
──フランスで月を見ながら、孤独と向き合う瑠璃。
──ルイを抱いて訪ねてくる真澄と、涙で迎える瑠璃。
──庭でルイと手をつなぎ、嬉しそうに散歩する真澄。
──ルイの出征と、瑠璃の祈り。
──ジャンを看取る、ルイの壮絶な記憶。
──横浜港で、抱き合う真澄とルイ。
──本館の庭で、ふたり並んで月を見る光景。
──そして──ルイの笑顔。静かに、幸せに笑う、ルイ・シャルルの姿。
それらはすべて、玲央の中にまっすぐに降りてきた。
まるで、自分の胸の中に「誰かの人生」が静かに灯るように──。
香が終わる。
煙が静かに消え、部屋には、ただ月光だけが残されていた。
玲央は、長い沈黙ののち、そっと目を開ける。
「……こんなにも、多くの想いに、僕は包まれていたんだ」
香の奥に重なっていたのは、誰かの涙、誰かの願い、誰かが命がけで手渡した、希望のかけら。
そのひとつひとつが今、静かに玲央の心に灯っていく。
「僕はずっと、自分だけの力で歩いてきたと思ってた。でも、違ったんだ……。
祈りは、時を越えて、ちゃんと届いてた──この胸に」
ふっと、月明かりがひとすじ、天窓から差し込む。
玲央はその光に手を伸ばし、まるで未来に触れるようにそっと掌をかざした。
「……僕は“受け取るため”に生まれてきたのかもしれない。
光を、愛を、そして祈りを──未来へつなぐために、ここにいる」
その言葉を、静かに聞いていたシトロンが、ゆるやかに目を伏せる。
(そうだな……もう、大丈夫だ)
これまで何度、神として彼を守ってきたか。
でも今は、もうその役目すら、そっと終わっていいのかもしれない。
(だったら、俺は──
ただの男として、あいつの隣にいよう。
運命じゃなく、意志で。
守るためじゃなく、共に在るために──)
玲央がゆっくりと振り返る。
その眼差しに、迷いはなかった。
ふたりの間に、祈りの香りがまだ漂っている。
けれど、もうそれは過去のものではない。
──未来へと続く灯火だ。
誰かが残してくれた光。
誰かがつないでくれた祈り。
それを今、自分が「知った」だけでは終われない。
玲央は、静かに立ち上がる。
「……僕も、次へつなぐよ。
ここで受け取ったものを──きっと、未来に」
シトロンは何も言わず、ただ彼の背中を見ていた。
その言葉が、風のように真っ直ぐで、とても美しく聞こえたから。
À suivre.
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
人は、誰かの祈りに包まれて生きているのかもしれません。
香り、月光、手紙、記憶──
そのすべてが、玲央の中で“生きていい”という確信に変わりました。
いよいよ明日は最終話。
受け取った灯を胸に、シトロンと玲央が“家族”のもとへ戻ります。
どうぞ最後まで、シトロンと玲央の物語に寄り添っていただけたら嬉しいです。