第6話『静けさのなかで、君を知る』 〜Je t’aime、それは逃げないという選択〜
初夏の光が、やさしく差し込むサロン。
言葉は少なくても、ふたりの間に流れる空気は、少しずつ変わっていく。
昨夜、胸に残った記憶とことば──
静かな朝の気配のなかで、それはそっと息を吹き返し、
“誰かを知ろうとする気持ち”だけが、ゆるやかに満ちてゆきます。
窓から差し込む朝の光は、初夏らしいやわらかな金色を帯びていた。
鎌倉の本館のサロンにて、玲央とシトロンは、マルセルと向かい合って朝食をとっていた。
テーブルの上には、野菜のキッシュとフレッシュな果物、リュシアンが早朝に焼いたという全粒粉のパン、レモン入りのハーブティーが湯気を立てている。
静かな食卓だった。
いや、正確には・・・玲央が少し、静かだった。
昨夜、地下の書斎で触れた、クロエのハンカチ。
刺繍されたフランス語の詩と、そこに込められた想い。
彼女の命が、今もなおこの館に香るような、祈るような愛の痕跡だった。
何も言わず、玲央はゆっくりとティーカップを置く。
その様子を、マルセルがそっと見守っていた。
やがて、マルセルがゆるやかに姿勢を正し、口を開いた。
「……ご報告がございます。現在の段階では、この本館の“月の間”をはじめとするいくつかの部屋には、まだ封印が残されております。昨晩、手にしていただいたアイテム──ハンカチ、銀の鍵、そして巾着──は、いずれも重要なものでございますが……」
「まだ足りない、ということ?」
玲央の問いに、マルセルはうなずいた。
「はい。今はまだ“開かない部屋”がございます。
しかし、de la Lune本家から、おふたりに向けた正式な招待状が届いております」
「招待状?」
シトロンが小首をかしげると、マルセルの表情がすこしやわらいだ。
「ご安心ください。歓迎の意と、いくつかのご相談を兼ねたものでございます。
本家では、玲那様がかつて使用されていた部屋が残されており、多くの資料と遺品が保管されております。今後の調査を進めるうえでも、ぜひ一度、現地をご訪問いただきたいとの意向です。」
玲央はゆっくりと視線を落とし、ティーカップの中に揺れる金色の水面を見つめた。
母が、かつて過ごした部屋。 そこに、自分の知らない時間が眠っているのだ。
「……わかりました。行きましょう、パリに」
玲央の言葉に、マルセルがうやうやしく頷く。
「ありがとうございます。午後には山荘へと移動し、日を改めてパリへ向かう段取りを整えましょう。」
「ちょうど、祖母の誕生日でもあるんだ。」
玲央がふと思い出すように言うと、マルセルが目を細めた。
「ええ、紗英様のお誕生日には、ささやかな宴を。準備はすでに、リュシアン様と整えております」
その言葉に、シトロンがぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、料理は俺が仕上げを担当するよ。玲央ももちろん一緒に、ね?」
「え、僕も?」
「当然だろう? 愛する人の家族の祝い事なんだから」
その一言に、玲央の頬がほんのり染まった。
***
食事のあと、ふたりは“月の寝室”へと足を運んだ。
カーテンの隙間から差し込む光は白く淡く、どこか幻想的だった。
静かな室内に足を踏み入れると、昨夜の残り香がふっと鼻をくすぐる。
玲央は、書斎から持ち帰った銀のオルゴールを、そっと旅行鞄にしまおうとしていた。
その手元を、いつの間にか背後から覗き込んでいたシトロンが、ぽつりと呟く。
「……ねえ、昨夜のこと、忘れてないよね」
「昨夜?」
「“ずっとそばにいてくれ”って、君のほうから……ああ言ってくれたの、初めてだったから」
玲央は、一瞬動きを止めた。
思い出したように、銀のオルゴールをそっと置き、シトロンのほうへ向き直る。
「……うん、覚えてる。だから……」
玲央は、ためらうように、けれど引き寄せられるように顔を近づけた。
ふたりの呼吸が溶け合う瞬間──唇の端、頬へとかすめるように触れたキスは、言葉よりも先に、心を伝えていた。そしてそのまま、かすかな震えを帯びた声で、そっと囁いた。
「Je t’aime……」
一瞬、シトロンの金のまつ毛がふるえた。けれどすぐに、その瞳がゆっくりと細められ──微笑んだ。
「……いまの、キスって呼んでいい?」
まるで信じられない、と呟く声は、限りなく優しい。
だがその直後、シトロンはそっと玲央の顎に指を添え、ためらいなく、玲央の唇に静かに口づけた。
軽く触れるだけの、柔らかなキス。だが、触れたまま、すぐには離れない。
玲央は、はっと息を呑んだ。
逃げない。──いや、もう逃げたくなかった。
「……僕からも、ちゃんと」
玲央はそのまま、唇をそっと重ね返した。
はじめて、自分から。
その熱と形を、深く確かめるように。
探るように、少しずつ、唇を動かして──気づけば、シトロンの首に両腕を回していた。
「……ねえ、シトロン」
「……ん?」
続きは言葉にならなかった。
けれど、言葉よりも真っすぐに。玲央のすべてが、そのキスに宿っていた。
月の寝室に、初夏の光が静かに降り注ぐ。ふたりの影が、まるでひとつに溶けてゆくようだった。
やがて、控えめなノックの音が扉越しに響く。
「お支度が整いました。山荘への出発準備を、どうぞ」
マルセルの声に、玲央とシトロンはゆるやかに身体を離した。
「……行こうか」 「うん」
ふたりはゆっくりと頷き合い、午後の光の中へと歩き出した。
,,,,,to be continued...
はじめて、自分の言葉で伝えた「Je t’aime」。
それは、気まぐれな告白ではなく、
もう背を向けないという、玲央の決意だったのだと思います。
逃げずに触れた心と心。
ふたりの関係は、ここから新しいかたちへとほどけてゆきます。
次回は、鎌倉の山荘で迎える、祖母・紗英の誕生日。
月と香りに包まれた、夏の小さな宴にて、また新たな気づきがふたりを待っています。




