第18話「ただいまの記憶」 〜祖父母の家へ還る夜〜
秋の夕暮れ。
都会の喧騒を離れた先にあるのは、静かな山荘と、待っていてくれる温もり。
言葉よりも、抱きしめる腕や、ひとつの食卓が語ってくれることがあります。
今回は物語とともに、手軽に作れる真鯛のカルパッチョのレシピも添えました。
よろしければ、猫恋の食卓を少しだけ味わってみてください。
夕陽が山の端へ沈みかけていた。
アルファロメオの滑らかなエンジン音が止まり、静寂が広がる鎌倉の山荘。
車を降りた玲央の前に、ふたつの人影が立っていた。
「玲央……!」
そう叫んだのは、リュシアンだった。
フランス仕込みの温かさと激しさをそのままに、彼は一気に歩み寄り、玲央をしっかりと抱きしめる。
「Mon petit… mon garçon…!(愛しい子よ…私の坊や…!)」
そのまま両頬にビズを交わし、額を寄せた。
「よく……本当によく帰ってきたな。どれほど待ちわびたか」
玲央はその腕の中でわずかに震えながら、目を閉じた。
「……ただいま、Grand-père」
そのすぐあと、ゆっくりと近づいてきたのは紗英だった。
静かなまなざしで玲央の全身を見つめる──
まるで霊的な気配を読むかのように、過去も未来も通して。
「……ああ、よくまあ……立派になって……」
そう言って、紗英はそっと玲央の頬に手を添え、涙をこぼした。
「……玲那にそっくり」
そのまま彼女もまた、玲央を抱きしめる。
祖父と祖母──ふたりの温もりに挟まれるようにして、玲央は再びこの場所へ戻ってきたのだった。
そして──シトロンに、紗英がふっと微笑みかけた。
「シトロン。玲央を、守ってくれてありがとう」
「……いえ、俺は」
言葉を探すようにして俯いたシトロンの手を、紗英はふわりと包み込むように取る。
「あなたも、私たちの大切な家族よ。
遠慮なんてしないで。……いい?今夜は“シトロンと玲央”が帰ってきた日なの」
「……はい」
少しだけ肩の力を抜いて、シトロンはうなずいた。
空には白い月が昇り始めていた。山荘の灯りがともり、家族の夜が、ゆっくりと幕を開けていく。
*
山荘のダイニングには、驚くほど豪華な食卓が並べられようとしていた。
けれど、それはまだ「完成」ではなかったらしい。
「あとひと品、仕上げがあるの。リュシアン、縁側で軽く乾杯しててくださる?」
紗英がやわらかく笑いながら言って、お盆をそっと差し出した。
そこには、バカラのグラスに注がれたパスティス──ほんのひと房のフェンネルが浮かび、どこか南仏の風を思わせる香り。
その隣には、ガトー・アペリティフ──一口サイズのチーズパイ、トマトとアンチョビのタルト、燻製ナッツが彩りよく盛り付けられている。
リュシアンが受け取ると、片眉を上げてにっこりと笑った。
「では、少しだけ“前奏曲”といこう」
山荘の縁側は、明治時代の設えをそのままに残しながらも、どこか西洋の趣が漂っていた。
ゆるやかにカーブを描く白木の床板、籐の椅子、間に置かれた大理石の丸テーブル。
外には、秋の虫の声がさざ波のように重なっている。
玲央とシトロンは椅子に腰を下ろし、グラスを受け取った。
「……こういう前菜、なんだか懐かしい」
玲央がつぶやくと、リュシアンが微笑みながらグラスを掲げる。
「à la famille──(家族に)」
「そして、“おかえり”に」
「……ただいま」
三つのグラスが、やわらかな音を立てて重なった。
かちり、と鳴ったその音は、空気の奥深くに溶けていくようにやさしかった。
*
やがて食卓が整い、広間に移った頃には、香ばしい香りとともに、紗英とリュシアンの合作による美しい皿が並べられていた。
まずは、逗子漁港で水揚げされた朝獲れの真鯛の冷製マリネ。
「……まるで花の皿だ」
玲央が呟く。
紗英が微笑む。
薄くそぎ切られた白身には、柚子とシャンパンビネガーの香りがふわりと重なり、南蛮漬けを思わせるような甘酸っぱい余韻を残していた。
細切りのミョウガと紫玉ねぎ、エディブルフラワーが色を添え、ガラス皿の上で、まるで夕映えの月のように静かに輝いている。
続いて、九月の鎌倉野菜と地場きのこのロースト。
三浦半島の秋茄子やマコモダケ、能登の原木舞茸に香茸を組み合わせ、トリュフ塩で仕上げた香り高い逸品。
そして、メインは足柄牛のシャトーブリアン、ミディアムレアで。
リュシアンが低温でじっくり火を入れ、焦げ目をつけて仕上げた赤身肉は、まるで静かな情熱のような温度を宿していた。
赤ワインは、ヴォーヌ=ロマネ 2012年。
熟成した果実の丸みが、料理のすべてを包み込むように優しく流れていた。
「……贅沢すぎて、なんて言えばいいのかわからない」
玲央がそう呟くと、紗英はくすっと笑った。
「言葉より、表情のほうが素直ね。その顔を見られたら、それで十分」
リュシアンもまた、グラスを傾けながら言った。
「話さなくても、伝わる夜ってある。今夜は、そういう夜だろう?」
玲央はふとシトロンと目を合わせ、静かに頷いた。
「うん……ただ、こうして一緒にいられるだけで、もう……」
言葉の続きを探す必要はなかった。
シトロンが、そっと玲央の手に手を添えた。
外では風が梢を揺らし、遠くで波のような虫の声が重なる。
この夜は、記憶よりも深く、ただ「今ここにある幸福」を包み込んでいた。
*
〜 猫恋レシピ帳より〜
真鯛の冷製マリネ ― 柚子とシャンパンビネガーの香り
(4人分)
材料
* 真鯛(刺身用)……200g
* 紫玉ねぎ……1/4個(極薄スライス)
* ミョウガ……1本(細切り)
* 柚子皮……少々(千切り)
* エディブルフラワー……適量
* ミントまたはフェンネルの葉……少々
マリネ液
* シャンパンビネガー……大さじ2
* 白だし……小さじ1/2
* 柚子果汁……大さじ1
* グレープシードオイル(またはオリーブオイル)……大さじ2
* 薄口醤油……小さじ1/2
* 鷹の爪……1/2本(種を除き輪切り)
作り方
1. 真鯛を薄造りにし、冷蔵庫で冷やしておく。
2. ボウルにマリネ液を合わせ、軽く混ぜる。
3. 真鯛を皿に花びらのように並べ、マリネ液を薄く回しかける。
4. 紫玉ねぎ・ミョウガを中央にふんわりと盛り、柚子皮と花を散らす。
5. 最後にミントやフェンネルの葉を添えて完成。
* ペアリングワイン辛口リースリング(アルザス)
──柚子と白だしの和の余韻を、爽やかに引き立ててくれる一杯。
À suivre.
家族の声や、灯りに照らされた食卓。
それは何よりも安心を与えてくれる「帰る場所」そのものなのかもしれません。
シトロンと玲央が迎える夜が、読んでくださった方にとっても、静かに心を温めてくれるひとときになりますように。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。