第11話「解かれる符号」〜猫の目が読むもの(シトロン視点)
とある祈りが、時をこえて手のひらに落ちてきました。
それは、声にならなかった想いの欠片。
紙の上の文字が、心の奥をそっと揺らすとき、
静かだった部屋にも、小さな波紋が広がっていきます。
今宵は、そんなひとしずくの記憶に、耳を澄ませてみてください。
レオの横顔は、まだ沈んでいた。
さっきまで声に出して読んでいたくせに、今は押し黙り、指先で紙の角をなぞっている。
──こいつはいつもそうだ。心の奥で渦巻くものを、誰にも見せずに黙って抱え込む。
親を失ったときも、涙ひとつ見せずに背筋を伸ばしていた。
貴族の血なんて関係ない、ただ生まれつきの気質なんだろう。
繊細なくせに、痛みを人に見せない。
だから、俺はつい、そばで彼を笑わせたくなる。
床に落ちた紙束を拾い上げる。
奇妙な符号がずらりと並んでいる。
「ふん……暗号か。子どもの遊びみたいなやつだな」
口にしたとたん、レオの眉がわずかに動いた。
あの沈んだ影が、ほんの少し薄れる。
──よし、いい。
「なあレオ、ちょっと解いてみようぜ。どうせ“上官がハゲ”とか“先輩が泥酔”とか、そんなくだらないやつだ」
わざと肩をすくめてみせると、レオが小さく吹き出した。
ああ……やっと笑ったな。
その笑みがどれほど貴重か、本人はきっとわかっていない。
膝に紙を広げ、爪で軽く叩く。
猫の目は細かい符号に強い。
記号を追いながら声に出して読む。
「……“上官の帽子の下は禿げている”。ぷっ、くだらないな」
レオが肩を揺らす。
「本当に子どもっぽい……」
その声音に、温度が戻った。
次の行を解く。
「“先輩は村で酒を飲んでいた”。……はは、こいつら、戦争中に何書いてんだか」
二人で笑う。束の間の安らぎ。
けれど紙の文字は、急に牙を剥いた。
符号を辿るうち、文の調子が変わっていく。
「神よ、私はいけない心を抱いています」
「彼を思うたびに、胸が裂けそうになる」
俺の口が自然と止まった。レオも顔色を変え、唇を固く結んでいる。
さらに文字を追う。
「彼を愛してはいけない。神よ、許してください」
「私はあなたよりも──ルイを祈ってしまう」
紙を持つ俺の指先が震えた。
「……レオ」
視線を向けると、彼の瞳は驚きと痛みに揺れていた。
その胸に、また新しい棘が刺さったのが、俺にもはっきりわかる。
———
その一瞬、どこか遠くで、なにかが軋むような音がした。
千年もの時を渡る魂の奥底で、凍てついていた扉が、わずかに揺れた気がした。
……そうだ。
この光景を、何度見てきただろう。
人は、壊れる。
怒りに呑まれ、欲に目を曇らせ、誰かを傷つけ、
あるいは──愛しすぎて、自分自身を見失う。
歯止めの効かない残酷さと、赦しがたいほどの優しさ。
それが人間というものならば──
……おまえは.....レオ。
おまえは、どう立ち上がる?
その胸に、何を願って生きる?
願え。何でもいい。
たとえそれが過ちでも、愚かでも、誰かを救いたいという願いなら、
俺は、おまえの神として──いや、それ以上の存在として、すべてを受け止めてやる。
おまえがどこに向かおうと、俺はそこにいる。
その願いが、世界のどこかにまだ光を残すのなら。
———
レオ、おまえは本当に、脆いやつだ。だからこそ、抱きしめて守りたくなる。
もしこの先、彼が崩れ落ちることがあれば、俺は迷わずその全てを受け止める。
それが、フェリ・ノアールとしての誓いであり……俺自身の願いでもある。
暗号はまだ終わっていない。だがもう、これはただの冗談じゃない。
この先に待つものを思うと、胸の奥に冷たい重みが沈んでいった。
À suivre.
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
誰かの言葉が時を超えて届くとき、
それを受け取る人の心にも、小さな波が生まれます。
その波が、やがて未来を変えていくこともあるのかもしれません。
シトロンと玲央、それぞれのまなざしに宿るものを、
どうか、やさしく見守っていただけたら嬉しいです。
また次回、お会いしましょう。