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第7話「月香る記録帳」 〜香は、言葉より遠くへ届くもの〜

春の声に、耳をすませて。

遠い記憶のなか、言葉は香りのように息づいている。

それは、ひとりの少女が、父から受け取った小さな優しさ。

今宵、瑠璃が綴るのは──春霞のむこうに聴こえた、心の声。

de la Lune家の書斎にて――

夜の帳が降りたあと、ふたりは再び遺品の箱を前に並んでいた。


「……これ、日記?」


「うん。でも、ただの“日記帳”じゃないんだ」


玲央の指先が、一冊の厚みのある記録帳を撫でる。

革装の表紙に名はなく、挟み込まれた無数の紙片が、まるで記憶の花束のように顔を覗かせている。

封の切られた手紙、ルイ宛の葉書、しおり、切れ端のメモ、香木の粉が残る和紙。

どれも、瑠璃という人間の時間を形にしたものだった。


「ひとつずつ、見ていこう。……今日は最初のページだけ」


玲央がそっとページを開くと、そこには仏語で綴られた詩文の写しと、日本語の訳文が丁寧に並んでいた。

香の記憶とともに立ち上がる、静かな時間。

そして、瑠璃というひとりの女性の息づかいが、ゆっくりと語られはじめる――


古い城館の書斎には、石の床に朝の光がゆっくりと広がっていた。

静まり返った館のなか、わずかな風がレースのカーテンを揺らし、金縁の窓辺に置かれた花瓶のラベンダーがそっと香りを立てる。


Rurie de Bone(瑠璃)は、羽根ペンを手に、仏語で綴られた詩文の写しに向かっていた。

机にはいくつもの辞書、香の調合書、そして和紙のメモ帳。

壁には蔦模様のタペストリー。

炉には使われていない火の残り香。

だが空気は凛として、まるで言葉そのものが、この部屋に宿っているようだった。

一語一語をすくい上げるように、瑠璃は日本語のかなを仏語へと書き写す。

その手つきは、まるで祈りを奉納するように、静かで丁寧だった。

父が贈ってくれた和歌の手本帳を脇に置いて。

これは源氏物語の玉鬘の巻で、父が「お前が好きそうだ」と言ってくれた一首。


春霞 たちまふ山の初音に 心そふるは うぐひすの声

「Harugasumi... tachimau yama no hatsune ni...」


声に出しながら。

真澄パパが教えてくれた方法。最初は音で捉えるのが大事なのだと。


「C’est le rossignol qui chante au printemps...」


「……でも、うぐひすとロシニョール、鳴き声が違うのよね……」


つぶやきながら、私はまた筆をとった。

パパは、「日本の春は、霞も音のように漂っている」と言っていた。

そうね、この歌は景色というより、音と気配の歌。


「Là où le brouillard du printemps danse sur les montagnes,

le premier chant de l’oiseau touche le cœur…」


「touch... toucher... le cœur…」


「ソフルは、触れる…心に、ってことよね」

ちいさく笑いながら、ページの端に小さな梅の花を描いた。

その枝に止まる、小さな鳥の姿も。


そっとページをめくると、一枚の薄い和紙が挟まれていた。

墨の香が、微かに残っている。

そこには、縦書きでこう記されていた。

 

『月は、過去と未来のあわいに在り、  

澄みし夜ほど、声なき兆しが透けて見える。  

水面に映る月影に、うつし世の片鱗は宿る──。  

見ようとせずとも、感じよ。  

香と風と、音なき色の気配を。  

それは、やがて生まれる子の眼に、継がれるだろう。』


玲央は、しばらくその筆跡を見つめていた。


「……この書き方、たぶん……真澄のものかもしれない」


声に出すと、胸の奥がほんの少し熱くなった。

隣で見ていたシトロンが、静かに頷いた。


「月が未来を見せるなら、おまえの目もまた──」


その先の言葉は、香るように、風に溶けていった。



L’éclat de Ruri ― 瑠璃のひかり

『Brume printanière,

dans les montagnes où elle s'élève,

ce qui fait vibrer mon cœur —

c’est le premier chant du rossignol.』


春霞 たちまふ山の初音に 心そふるは うぐひすの声

Harugasumi tachimau yama no hatsune ni kokoro sofuruwa uguisu no koe


Papa a écrit ça en romaji pour moi.

Je me souviens encore de la façon douce dont il traçait les lettres,

comme s’il dessinait les sons du Japon pour que je ne les oublie pas.

パパがこれをローマ字で書いてくれたの。

日本の音を忘れないように、まるで音を描くみたいに、

やさしく文字をなぞっていたあの手つきを、いまでも覚えてる。


À suivre.


「春霞たちまふ山の初音に心そふるはうぐひすの声」──

源氏物語・玉鬘の巻に詠まれるこの和歌は、新春の情景に心の機微を重ねた一首。

父・真澄がローマ字で記してくれたその言葉を、少女は何度もなぞりながら、

異国での孤独と、ぬくもりの記憶をつないでいく。

言葉は風に乗り、香りのように届く──そんな時間の旅を、瑠璃の日記とともに。

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