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第4話「風にほどける頁」〜源氏の姫君が遺した、香の記憶〜

ボーン家に遺された、瑠璃の箱。


朝の静けさの中で、玲央とシトロンは少しずつ、彼女の記録を読み解きはじめます。

香、巾着、勾玉……そして玉鬘という名の女性。


時の風にのせて託された想いが、ゆっくりとふたりの心に届いてゆく、そんな一話です。

朝の陽射しが柔らかく庭石をなでていた。

サンルイ島の中庭テラス。真鍮のティーセットが陽を受けて、静かに光を返している。

真鍮のポットからは紅茶の香りが漂い、隣にはマルセルが丁寧に淹れたカフェオレのカップが湯気を立てていた。

白いテーブルクロスの上には、バターの層が繊細な焼きたてのクロワッサンと、カットされたクレモンティーヌが並ぶ。玲央はそれに、ショコラ・ペーストをたっぷり塗っていた。


「……甘いのが、朝には合うんだよ」


玲央がそう呟くと、シトロンは口の端を上げて笑う。


「お子ちゃまは、ミルク多めのカフェオレと、チョコが定番だな」


「うるさいな……」


と笑いながらも、玲央はそのひとときを心から楽しんでいた。

その穏やかな空気の中で、マルセルがゆっくりと語り出した。


「……瑠璃様のことを、少し補足してもよろしいでしょうか」


玲央が顔を上げると、マルセルは静かに続けた。


「瑠璃様がお生まれになったのは、日本――鎌倉の地でした。

お母様のクロエ様は、真澄様と万国博覧会で出会われ、家を飛び出し、異国での生活を始められたのです。ふたりは強く結ばれておりましたが……慣れぬ土地での暮らしと、もともと体の弱かったクロエ様は、出産の後まもなく、お亡くなりに・・・」


マルセルはわずかに視線を伏せて、続けた。


「ちょうどその頃、de la lune家では“直系の後継がいない”として、生まれてまもない彼女を迎えに参ったのです」


シトロンがふと目を伏せた。玲央の指先が、ティーカップの縁をなぞる。


「ですが、その後、クロエ様の弟君――ブリュム城に閉じこもっておられた方がようやく婚姻され――にお子ができまして……」


「……瑠璃は、必要とされなくなった」


玲央の声は小さく、けれど確かにそこにあった。


「ええ。18歳のとき、政略結婚としてボーン家に嫁がれました」


マルセルの声は静かに続く。


「しかしそこでも、東洋と西洋の混血という理由で差別を受けられたのです。唯一、彼女の霊的な力だけが“役に立つ”とみなされ……」


「子どもを産まされた……」


玲央の言葉に、シトロンがそっと手を伸ばし、彼の指先を包む。


「ルイが生まれて、でも……夫である年の離れた侯爵は、すぐに愛人の元へ」


「そうです。瑠璃様は、その後、ボーン家の一室で、長い孤独の中を静かに生きられたのです」


風が吹き抜け、テーブルの隅に置かれた一冊のノートがふわりと頁をめくった。

それは、瑠璃が残した翻訳の断片だった。

玲央はそのノートを手に取り、指でやさしく頁をなぞる。


「……玉鬘の断片」


「ん?」


「源氏物語の登場人物・・・?

確か、彼女は、母を失い、父を知らずに育った。」


シトロンが横から覗き込み、少し真面目な顔で言った。


「ふぅん……源氏物語か・・・じゃあ俺は、光源氏ってことか?」


玲央は呆れたように笑って、それでも、彼の肩に軽く寄りかかった。

玲央がフランス語の玉鬘断片を手にして、首をかしげる。


「……でも、なぜ源氏物語が? 原文まで、ここに」


マルセルが答える。


「ルイ様のご誕生に際し、真澄様がフランスを訪問されました。

およそ半年間滞在され、ボーン家で瑠璃様と共に静かな日々を過ごされたと記録に残っております。

その折、真澄様が日本から持参された書籍の中に、この源氏物語が含まれていたようです。おそらくは、瑠璃様にとって心の支えとなるものとして――私どもには、そう拝されます」


玲央は黙って頁を見つめた。


「……玉鬘は、母を亡くし、父と離れて……翻弄される中に生きた女性。

確かに、瑠璃と重なる・・・でも、そこに強さを感じる。生き抜こうとする力が、確かにある」


シトロンが低く笑う。


「……お前も、そういうところがあるな。孤独を力に変えてきた」


玲央は一瞬、照れたように笑みを浮かべた。


「……瑠璃も、そうだったのかもしれない」


玲央が小箱の中から、小さな巾着袋を取り出した。

淡い糸で和歌が刺繍されていて、ところどころに擦れた跡がある。

指先で触れた瞬間、ほのかな香りが漂った。甘やかでいて、奥に深い余韻を秘めた匂い──記憶の底をやさしくくすぐるような香り。


「……この匂い……どこかで……」


玲央は眉を寄せ、遠い記憶を辿る。


「そうだ……ボーン家のアトリエで、最初に潜り込んだとき。あの銀の鍵から、同じ香りがしていた」


シトロンは横から覗き込み、鼻先をわずかに動かす。


「確かに……これは香木を合わせたものだな。伽羅の深みと、異国の甘さが重なっている。姿はなくとも、魂を縛る香りだ」


玲央は巾着を胸元に抱き寄せ、かすかに息をのんだ。


「……祈りみたいだ。瑠璃の心が、この香に宿っている気がする」


シトロンは目を細め、囁くように笑んだ。


「香は形を持たない。けれど、人の想いを千年だって繋ぎとめる……。まるでお前と俺の契りみたいだな」


玲央は頬を染めながらも、静かに頷いた。

そのとき、袋の口からひんやりとした勾玉のかけらが転がり出た。

白く、月の光を宿したような輝き。玲央は目を見開いた。


「……鎌倉で見たものと同じだ。クロエが持っていた巾着と、勾玉のかけらに」


マルセルが静かにうなずいた。


「はい。瑠璃様の箱に残されていたこの勾玉も、真澄様が……パリにお戻りになる瑠璃様に、“お守りとして”と持たせられたものです」

玲央はそっと胸元から、小さな巾着を取り出した。鎌倉から持ってきた、クロエの遺したもの。二つを並べると、割れた断面が、まるで導かれるようにふわりと重なった気がした。


「……やっぱり、対になっていたんだ」


シトロンが横から覗き込み、金の瞳を細める。


「つまり、クロエに贈った勾玉を真澄が割って、もう半分を瑠璃に渡したってことか」


玲央は勾玉を握りしめ、小さく息を吐いた。


「世代を越えて……同じ守りが繋がっていたんだ」


巾着の端には、かすかな文字が縫い込まれている。

『満月の夜、この勾玉を胸に、月を読むことができた』玲央の胸が静かに震えた。


「……やっぱり、瑠璃も未来を見ていたんだ」


シトロンは肩を抱き寄せ、口元に甘い笑みを浮かべた。


「お前も俺も、その延長線上にいるってことだ。運命は……案外、しぶとくて粘っこい」


玲央が苦笑しながら頷く。


「……これ、僕らだけじゃ読み切れない。黒川先生に見てもらおう」


「ご指名か。あいつ、喜ぶぞ」


そう言うと、シトロンは迷いなく玲央の唇にやさしく口づけた。

それは、朝の静けさに似た、穏やかであたたかい一瞬だった。

玲央は目を閉じたまま、微かに息をのむ。二人の間に、勾玉の淡い光がそっと揺れていた。


……その夜、玲央はまだ気づかなかった。

遥かな時の彼方で、瑠璃の手記の一行が、花の香のように風に託され、そっと頁を開いていたことを。


『L’éclat de Ruri ― 瑠璃のひかり』

Comme un parfum, l’amour voyage dans le vent du temps.

──香のように、愛は時の風に乗って旅をする。


À suivre.




読んでくださりありがとうございます。

今回は、瑠璃という女性の静かな人生と、源氏物語の「玉鬘」を重ねる一話になりました。


香りや和歌が、血や言葉以上に魂を結ぶ鍵となる――

そんな猫恋らしい継承の形を、静かに描けたらと思っています。


次回は、ふたりがこの“香の記憶”を誰かとともに解き明かしていく場面へ。

またお付き合いいただけたら嬉しいです。

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