第19話「冠の記憶、闇を受けて光に返す」 〜五つの香と、王の名〜
静かに時を重ねた場所には、言葉では語り尽くせない“何か”が眠っています。
それは記憶かもしれないし、祈りかもしれない。
そして今夜、そこに立つのは、迷いながらも進もうとする者たち。
息を合わせ、ただ一歩ずつ──そんな夜の物語です。
回廊の奥、空白の壁が湖面のように揺れている。
金の指輪、瑠璃の香、そしてシトロンの金の羽。その三つが重なったときだけ開く、薄い境界。
黒川が壁の縁を指でなぞり、低く息を吐く。
「やはり……ここまでの暗号はすべて、この“総章”に収束していた。
フェリノアールは五柱の総帥。……そしてレミーさんは──“王の再来”だ」
壁の下層から、古いモザイクが浮かびあがる。
《戴冠》の構図。ROGERIOS REXの碑文。
冠に触れる手は最後の一寸で止まり、金の線で封じられている。
「父は……渡されなかった“冠”を、もう一度この世界に連れてこようとしていた」
玲央の声に、黒川が頷く。
「そして、その器が君だ、ラファエル……いいや、玲央くん。
血の継承と“名”の継承は別物だ。だが、たしかにここに、彼の筆跡で書かれている。
Rex iterum nascetur(王は再び生まれる)」
シトロンの背で、金の羽がうっすらときらめく。
シューが香座の位置を確かめ、五つの小さな包みを置いた。
「ケルト、シチリア、ギリシャ、アラブ、ユダヤ。……そして、月」
最後の言葉だけ、シューはわざと小さくした。
その刹那だった。
冷たい気配が、回廊の外から流れ込む。石の床に“鉄の匂い”が落ちた。
「……来てる」
シューの尾が低く揺れる。
「ノクチュエルの眷属。封印が揺らぐ“今”を狙って」
壁面の影が、獣のように歪む。
玲央以外の全員が、無言で身構えた。
黒川が素早く壁の一角を指差す。
「ここに“二つの式”がある。
破断──Ritus Disruptionis。五つの香を逆順に焚き、闇の名を切り捨てる術。
統合──Ritus Integrationis。香を重ね、月を“息”で結び、闇に居場所を与え直す術だ」
「つまり、Disruptionisは一気に切る。Integrationisは、ゆっくり縫って、居場所を作るってこと」
シューが肩越しに簡単にまとめる。
「切り捨てれば、速い」
シトロンが短く言う。金の瞳は静かで、厳しい。
「だが、残滓は残り、いつか別の名で戻る。……そうだろう?」
黒川は目を伏せ、「そうだ」と答えた。
「破断は便利だが、呪いの回収にはならない。統合は難しい。失敗すれば、こちらが呑まれる」
影が、壁の縁に指先のような形を作る。玲央の名を、なぞるように。
レオ。レオ。レ——
玲央は一歩、前へ出た。
指輪に触れ、深く息を吸う。
「選ぶよ」
シトロンが、わずかに眉を上げる。
「……どちらを」
「統合」
玲央は振り返らない。
「切らない。受け止めて、光に返す。
父さんがそう望んだからじゃない。僕が──そうしたいからだ。
排除じゃなく、救いたい。闇の奥にも、戻れる場所を作りたい」
影が笑ったような気がした。
回廊の灯がひとつ消え、空気が沈む。
「レオ」
シトロンの声は、低く柔らかい。
「なら、俺がLimesを担う。……お前は香と“息”を」
シューが素早く香座の粉を整える。
「順番はSilva – Insula – Mythos – Arena – Sigillum。最後にLunaを焚かない。
月は、レオのSpiritusで結ぶ」
「焚かない香……?」
黒川が呟くと、シューは頷く。
「息は祈り。焚かない香は、“居場所”。追われ続けた闇に、帰る場所を作るんだ」
玲央は五つの香に手をかざし、静かに順に息を通した。
森の気配が立ち、島の塩が滲み、神話の石に月光が宿る。砂の熱が遠ざかり、封印の乾いた紙が、ゆっくりしめる。
最後に、瑠璃の香──Aroma Lapis Lazuli。
玲央は火を入れず、掌で香炉を包み、胸に引き寄せた。
やわらかな息をひとつ、香へと落とす。
「……帰っておいで」
それは闇に向けた言葉ではなかった。
どこかで泣いている誰かへ、扉を開くように。
金の羽が大きくひるがえり、Limesが生まれる。
影はそこで止まり、形をほどいて、薄い霧に変わる。
「ノクチュエル」
シトロンが、名を呼ばない呼び方で、霧へ告げる。
「お前の時間はここでは終わらない。だが、ここでは眠れ。
Benedictio Lunaris──月が祝うその時まで、王の息の内側で」
壁のモザイクが、ひときわ明るむ。
《戴冠》の手が、ほんの少しだけ前へ進む。
冠にはまだ触れない。けれど、触れようとする意志に、封印の金線が微かにほどけた。
黒川が、堪えきれずに息を漏らす。
「……成功だ。破断ではなく、収束。
闇は排除されず、王の呼吸に編み込まれた」
玲央の腕の中、焚かれなかった瑠璃の香が、わずかに甘くなる。
影の霧は回廊の高みへ昇り、薄月のような輪郭で、静かに横たわった。
シトロンが近づき、玲央の額に指を当てる。
「大丈夫だ。お前が選んだ道が、今、ここに在る」
金の羽がもう一度だけひらめき、内側に折りたたまれて消える。
その残光が、モザイクの冠の上で、ほそい光の糸を結んだ。
その光の下、壁の余白に、遅れて文字が浮かぶ。
——Quod divisum est, iterum unum fiat.
(引き裂かれたものは、再び一つとなれ)
静けさが戻る。
遠くで、小さな鈴がひとつ鳴ったような気がした。
「次は、この“結び”の先にいるものを知らないとね」
シューが肩で丸くなり、琥珀色の目を細める。
「まだ終わりじゃない。……でも、今は進める」
黒川が眼鏡を押し上げ、壁の新たな筆跡を写し取る。
「“王は息で冠を受け、神は境でそれを守る”。……レミーさんの手だ。
やはり、ここで最終式を組み立てていた」
玲央は壁にそっと手を触れた。
冷たさの奥で、確かな温もりが返ってくる。
(排除しない。救う。
それが──僕の選んだ“王”の方法だ)
回廊の先、まだもう一枚、扉がある。
封印の金線がほどけた分だけ、わずかに隙間を見せていた。
シトロンが横に並ぶ。
「行こう、レオ」
「うん」
四人は、まだ名のない光の方へと、歩みを揃えた。
——À suivre
選ぶということは、ときに、切るよりも難しい道を歩くこと。
けれど、その選択の先には、確かに誰かを照らす光があると信じたい。
今回の章も、最後まで読んでくださってありがとうございます。
物語は、まだ静かに続いていきます。