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第12話「言葉にならない手紙」 〜アトリエの記憶と、導かれる光〜

月が照らすパリの夜。

ふとした記憶が、心をそっと揺らします。


言葉にならなかった想い。

受け取ることで、ようやく始まる旅があります──


夜のパリ。月が、マレの石畳をやさしく照らしていた。

古い街並みに溶け込むように、ひっそりと佇むアトリエの扉が、静かに開かれる。

アトリエの空気は昼とは違い、ほんの少しだけ冷たく澄んでいる。机の上には、祖父から預かった一通の手紙──レミーの書いた、あの“宛名のない手紙”が置かれていた。

玲央は、その封を再び開いた。何度見ても、内容は謎めいている。

言葉とも言えない、記号や模様、途切れた詩。それはまるで、音楽のない楽譜のように、ただそこに「在る」。

(読めない。でも……見覚えがある気がする)


……再び開き、指先で紙の端をそっとなぞる。

そのとき、ふと目に留まった──


「Se un giorno ti perderai, segui il profumo.

──いつか君が迷うなら、香りを辿れ。」


それは、以前にも見覚えのあった一文。けれど今は、なぜだか胸にやさしく沁みる気がした。

玲央は、その言葉を、静かに口の中で繰り返した。


「……香りを、辿れ」


まるで、導きのように添えられたその一文は、不思議なあたたかさを帯びていた。


(“香り”──)


思わず目を閉じる。

頭の奥に浮かんだのは、ボーン家を訪ねたときの記憶。

瑠璃の部屋で感じた、柔らかな香の香り。

あのとき──扉の鍵を開く“きっかけ”となったのも、確か……。


(あれも、偶然じゃなかった……のかもしれない)


誰かが、自分に手を差し伸べてくれていた。

香りという、形のない道しるべで。


「……父さんも、同じように……」


小さく呟いた声は、夜のアトリエに溶けていった。


と、そのとき。

「ねえ、それ、まだ眺めてるの?」

声の主は、ふわりと現れた金の髪──シトロンだった。

白シャツの袖をまくり、ソファに座り込むと、じっと玲央の手元を見つめている。


「読めないなら、読めるやつに聞けば?」


玲央が視線を上げると、シトロンは小さく微笑みながら、指をすっと宙に滑らせた。

その指先から、ひらひらと白い紙が舞い降りた。


「……シュー?」


玲央の掌に、白い折り紙細工のような猫がちょこんと座った。それは黒川先生から預かった式神──玲央の声に反応し、耳をピクリと動かす。


「連絡、取ってみたらどう? あの先生なら……なんか、わかるかもよ」


玲央は小さく息をついた。


「黒川先生に? ……今?」


「うん。今」


シトロンの声は、やけに軽い。けれど、そこに少しだけ祈りのような響きがあった。

玲央は頷き、シューをそっと見つめながら、低く囁いた。


「……黒川先生に、この手紙を見てほしい。パリにいます。できれば、会って話がしたい」


すると、シューの瞳が淡く光り、ぴょんと机から跳ねたかと思うと、光の尾を引いてふわりと宙を舞った。そのまま、窓の隙間から夜空へと消えていく。


「……飛んでった」


「便利だよな、あいつ。俺が契約し直したら、もっとおしゃべりになるかもよ?」


シトロンがからかうように言い、玲央は思わず苦笑した。

ほんの数分後。再び、シューが舞い戻ってくる。今度は小さな巻紙を咥えていた。

玲央がそれを受け取り、開くと──黒川の文字で短くこう綴られていた。


「その手紙、どうやら私の出番のようですね。ちょうどパリにおります。例のカフェで待っています──K.」


「……例のカフェって、どこ?」


「いつもの、あれだよ。俺様も気に入ってる。サンポールの裏のハンドメードタルトの美味しい店。」


「……ああ、あそこ」


シトロンが不敵に微笑む。


「レオ、行こうぜ。あの人が残した謎に、そっと灯りをともしに」


玲央は、小さく頷いた。

手紙を、胸元のポケットにしまいながら。月の光が、月の光が、ふたりの足元に、静かに道を描いていた。


――À suivreつづく


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


玲央が向き合った、父の手紙。

言葉にならない願いの中から、たったひとつだけ、届いたものがありました。


それは、まるで月明かりのように──

静かに、けれど確かに、心を照らしてくれる言葉。

きっと誰かが、見えないところで、香りの道しるべを残してくれている──

そんな小さな希望を、そっと信じたくなる夜に。


「Se un giorno ti perderai, segui il profumo.

──いつか君が迷うなら、香りを辿れ。」


父レミーの残した、小さな祈りです。

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