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第10話「扉の向こうに」 〜ここは、あなたの家だから 〜

月の光って、不思議です。

冷たいようで、あたたかくて――

誰かの心を、そっと包んでくれる。


ひとりの夜も、だれかの想いがそばにあると、

胸の奥が、ぽうっと灯る気がします。

静かな時間の中で、小さな記憶が目を覚まし、

忘れていたやさしさが、ふわりと戻ってくる。


今日もまた、そんな“ぬくもり”が、あなたのもとにも届きますように。

夜の静けさが、城の回廊を包み込んでいた。

壁に灯されたランプの光が揺れ、遠くからふいにフクロウの声が届く。


サン=ジェルマン=アン=レーの邸宅は、どこか夢の中のように静まり返っていた。

客間の大きな窓からは、森の上に浮かぶ月がよく見えた。

その月明かりの下、玲央はひとりベッドに腰を下ろしていた。


脇の小卓には、二通の手紙。

ひとつは、黒川から渡された父の最期の手紙。

もうひとつは、祖父がそっと手渡してくれた「未完の手紙」。

玲央はそっと後者を手に取り、封を切った。


手紙の中身には──

言葉ではなく、びっしりと描かれた、文字とも絵ともつかぬ記号。

細やかな筆致で描かれた模様、ねじれた星のような紋、断片的な詩。

あるものはフランス語、あるものは古語、あるものは読めない線の連なりだった。


(……文字じゃない。これは、何?)


ただひとつだけ、玲央が見覚えのある言葉が、行間に小さく綴られていた。


「Se un giorno ti perderai, segui il profumo.

──いつか君が迷うなら、香りを辿れ。」


玲央は、その言葉を口の中でゆっくりと繰り返した。


「香り……?」


ふと、部屋のカーテンが風に揺れた。

そして、いつの間にかそばにいたシトロンが、窓辺から声をかける。


「レミーは、お前に全部を伝えようとはしなかった。

……だが、残した。“鍵”になるものを」


玲央は視線を上げる。


「これは……読める?」


「読めはしない。だが、感じる。……これは“記憶”だ。

祈りのようで、呪文のようで……それでいて、ひどく静かな願い」


玲央は、そっとその紙を胸元に抱えた。

息を吸い、月を見上げる。

“光”はまだ届かない。けれど、その手触りはたしかに、温かかった。

遠くで、誰かがドアをノックする音がした。

そして祖母の声が聞こえた。


「ラファエル?起きているの? 少し、夜風を浴びに行かない?」


玲央はゆっくり立ち上がり、肩に羽織をかけた。

シトロンがさりげなくその後をついていく。

扉を開けると、廊下の先には、あたたかい光が待っていた。


屋敷の裏手にあるテラスは、葡萄棚のアーチに縁どられ、夜の露にしっとりと濡れていた。

小さなテーブルの上には、温かなカモミールティーの湯気。

その隣には、エレオノーラの用意した、蜂蜜をかけた焼き菓子。


「眠れなかったでしょう?」


椅子に座る祖母の言葉に、玲央はかすかに笑みを浮かべて頷く。


「……少しだけ。でも、落ち着いています」


「あなたは、昔からそうだったのよ。小さい頃も、夜になるとよく起きてきてね。

あの月を指さして、"パパとママも見てるかな"って言ってたわ」


玲央は目を伏せた。

記憶はない。けれど、その言葉は胸の奥に、不思議な温かさとともに響いた。


「──ノンナ」


「なあに?」


「僕、あの頃……笑ってましたか?」


エレオノーラは少し驚いたように目を見開き、それからやわらかく微笑んだ。


「笑っていたわ。たくさん、たくさん。

猫を追いかけて転んでも、砂の上に絵を描いても、

“お母さんに見せるんだ”って言って、何でも宝物みたいに抱えてた」


玲央は喉の奥がぎゅっと熱くなるのを感じながら、頷いた。


「ありがとう……教えてくれて」


ふと、祖母が立ち上がり、カップを手に取った。


「そういえば、レミーがよく絵を描いていた場所、まだ残っているのよ。

昔、この館には祈りを捧げるために静かに暮らしていた女性たちがいたの。

今はもう誰もいないけれど、彼女たちの祈りの場──その空間が、

レミーにとって大切なインスピレーションの場所だったのよ」


玲央は少しだけ迷ってから、頷いた。


「はい……もし、よければ」


テラスを抜け、地下への階段を降りていく。

エレオノーラの足取りは軽く、明かりを手に持ち、ひとつひとつの段を踏みしめるように進んでいく。


「レミーはね、この壁に向かって毎晩のように絵を描いていたの。

誰にも見せなかったけど、きっと何か大切な気持ちを閉じ込めてたのね……」


鍵のかかった鉄の扉を開くと、微かな空気の変化が玲央の肌を打った。

地下の空間は、ひんやりとした石のにおいと、月の光を吸い込んだような静寂に満ちていた。

壁一面に、繊細な筆致で描かれた絵──いや、“祈り”と呼ぶべきもの──が刻まれている。


その瞬間、シトロンの背に光が走った。

肩がわずかに震え、彼はぴたりと足を止める。


「……ここには、封がある」


低く、誰にも聞こえないような声で呟く。


「レミーは何かを……封じたんだ。

この場所に、あの時の……“闇”を」


玲央が振り返ると、シトロンはすでにその気配を抑えて、静かに立っていた。

エレオノーラはまったく気づかず、にこにこと笑っている。


「レミーのことを思い出すたび、私はここに来るの。

あの子、無口だったけど、ここだけはいつも優しい空気があってね……」


玲央は、言葉を失ったまま、壁の中央に描かれた一匹の白い猫に目を奪われていた。

その猫は、天を仰ぎ、月を抱くように描かれていた。



そして今日もまた、祖母の絵本

**『Il Piccolo Incanto di Nonna Eleonora(ノンナ・エレオノーラの小さな魔法)』**より、

物語に寄り添う言葉をひとつ――

「Il cuore ricorda sempre ciò che l’anima ha amato.」

(心はいつも、魂が愛したものを忘れないのよ)


――À suivreつづく

お読みいただきありがとうございます。


今話では、玲央が初めて祖父母と“過去”を語り合い、父・レミーが遺した絵と手紙の先にある“記憶の祈り”に触れました。


何気ない会話のなかに、幼き日の笑顔がふと蘇る──

そんな、静かで優しい時間を描けていれば嬉しいです。


 そして、今回の物語に寄り添う一言は:


「Il cuore ricorda sempre ciò che l’anima ha amato.」

(心はいつも、魂が愛したものを忘れないのよ)


祖母エレオノーラが、そっと微笑むように添えてくれる魔法の言葉です。


次回、第11話へと物語は続いていきます。どうぞお楽しみに。

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