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第9話「再会」 〜ラファエルと呼ばれた日〜

ようやく再会を果たした祖父母との時間。

けれどその記憶は、まだ少し曖昧で、遠い――。


思い出すことと、忘れていたこと。

そのあわいに、ふと灯る「名」の記憶。


静かに、玲央の物語が深まっていきます。


郊外の森の中、時折通る乗馬の音が静けさを揺らしていた。

冷たい石畳に、馬蹄の音が遠ざかっていった。

灰色の空を仰ぐように、屋根がなだらかに広がっている。

セーヌの支流がそばを流れ、サン=ジェルマン=アン=レーの森は、静かな吐息のように広がっていた。


重い扉が開く音がした。

──ギィィ……。

その響きに、玲央の足がわずかに止まる。


「……入ろうか」


隣でシトロンが、やわらかく囁いた。

その声は、この場所の空気に溶け込むように静かで、玲央の心にしみた。

玲央は、喉の奥がきゅっと苦しくなるのを感じながら、深く息を吸い、足を踏み出す。


サロンへ通されたとき、部屋には誰の気配もなかった。

大理石の暖炉、古いゴブラン織り、重厚なフレームに収められた肖像画──

どれも記憶の中にはない。

けれど不思議と、懐かしさだけが胸に沁みてくる。


(……あの日の、続きを踏むように)


8歳の記憶。両親を亡くし、フランスを離れたあの日。

玲央は最後、祖父母に何を言われたのかさえ思い出せない。

ただ、膝の上で眠っていた白い猫のぬくもりと、遠く鐘の音だけが残っていた。


「……Raphaël」


呼ばれたのは、久しぶりだった。

そのとき、ふと胸の奥に、ある夜の記憶がよみがえる。


――あの彫刻に刻まれていた名前、「Raffaele」。


あの瞬間からずっと、心のどこかがざわめいていた。

玲央という名で生きてきたけれど、かつて自分が“Raphaël”と呼ばれていたことは、

いつしか、意識の奥に沈んでいたのだ。


振り向くと、部屋の奥の戸口に、ひとりの老婦人が立っていた。

白銀の髪を丁寧に巻き上げ、藤色のワンピースを身に纏ったその人は──

まぎれもなく、祖母だった。

彼女は、ためらうことなく歩み寄ってくる。

シトロンが静かに一礼し、距離を保って下がった。


「……大きくなったのね」


それは微笑だった。けれど、目元が震えていた。

長い時間、言葉では語られなかった感情が、その声ににじんでいた。

玲央は何か言おうとして──言葉を飲み込んだ。

代わりに、ただ小さく頭を下げる。


「……ご無沙汰しています」


そのとき、老婦人の後ろから現れた老紳士が、静かに歩み出た。

祖父だった。

長身で背筋を伸ばし、無言のまま玲央を見つめている。

その瞳には、かつてレミーとそっくりな鋭さが宿っていた。


「……Raphaël」


低く、重く、確かな声だった。

玲央は、その名を呼ばれるたびに、自分の中で揺れる何かを感じていた。

“玲央”ではない、“Raphaël”という名──

どこか遥かな記憶の底に沈めていた、大切なかけらが、静かに輪郭を取り戻していく。


「……あなたが来てくれて、本当にうれしいわ」


祖母がそっと両手を差し出した。

ためらいながらも、玲央はその手を取る。

少し冷たく、けれど震えるほどに強く握り返された。


「──ようこそ、お帰りなさい。私たちのラファエル」


「さぁ、奥へいらして。冷えてしまうわ」


エレオノーラは、玲央の手を離すと、ひょいと先に立って歩き出した。

貴族の館とは思えぬほど軽やかに。

まるで、久しぶりに帰ってきた孫のために、嬉しさを隠しきれないように。


「あなた、カフェ?それともショコラの方がいいかしら。あの子──あなたの父親は、冬でもアイスを食べていたのよ。変な子だったわねぇ」


明るく笑う声が、廊下に軽やかに響いた。

祖父が咳払いをひとつ。


「……エレオノーラ、客人を急がせすぎる」


「だって、もう客人じゃないわ。うちの可愛いRaphaëlなんだから!」


玲央は思わず、口の端が緩んだ。


応接室には、陽の光がたっぷりと入る。

古いタペストリーと重厚な調度に囲まれても、不思議と息苦しさはなかった。

それはたぶん、祖母の陽気な気配が、空間そのものに色を灯していたからだ。


「お好きな場所に座って。ほら、昔ここでね、あなたが猫の真似をしてソファの背もたれに──あら、ごめんなさいね。覚えてないのよね」


玲央はそっと、革張りの椅子に腰を下ろした。


「……持ってきたものが、あります」


バッグから一冊の小さな絵本を取り出す。

柔らかなクロス地の表紙に、金糸で綴られた文字。


『Il Piccolo Incanto di Nonna Eleonora』

──ノンナ・エレオノーラの小さな魔法。


「それは……!」


エレオノーラは、まるで宝物を見るような目で絵本を見つめた。

玲央は、一度ページを開き、指先でたどるように、そっと口にした。


「La luna veglia sempre in silenzio…

月はいつも、静かに見守ってくれているわ」


その瞬間、空気がやわらかく揺れた。


「覚えていてくれたのね……」


エレオノーラの声は、どこか夢見るように震えていた。


「その言葉、あなたが生まれた夜、ちょうど満月だったのよ。あなたの父が初めてあなたを抱いてね、“この子の上にはいつも月がある”って言ったの」


玲央は、小さく息をのんだ。

祖母は、そっと手を重ねる。


「私の小さな魔法が、ずっとあなたを守っていたのね。あなたが覚えていなくても……大丈夫。わたしたちは、またここから始められるわ」


日が傾き、カーテンの隙間から柔らかな光が差し込む頃、祖父──マウリツィオが画集を手に戻ってきた。


「……レミーが遺したものだ」


そう言って置かれた古びたスケッチブック。

表紙には、白い猫と月が描かれていた。


「……これは」

「君が生まれる前に描かれたものだ。だが、私はずっとこの猫を──」


祖父は言葉を切り、玲央の背後に立つシトロンを見る。

シトロンは軽く一礼を返す。


「玲那に出会って、初めてレミーは“生きよう”とした。あの子に救われたんだよ、私たちは」


静かなその言葉に、玲央の胸が痛んだ。

マウリツィオが小さな封筒を差し出す。

そこにはRémy Alexandreのサイン。


「あの事故の少し前、レミーが書きかけていた手紙だ。宛先はない。だが私は……君へのものだと信じている」


「……ありがとうございます」


玲央はそれを、そっと胸元にしまった。


「ラファエルという名は、母君が選んだのかと思っていた。だが……」


祖父はふと笑みを浮かべた。


「レミーが、君を初めて抱いたときに言ったのだ。“この子は天使の名にふさわしい”と」


祖母が玲央の手をとり、静かに言った。


「だから、私たちは今でも──ラファエルと呼ぶのよ」



祖父母の館の裏手、

小さな石畳の中庭に出ると、ラヴェンダーの香りがふわりと風に乗ってきた。

玲央はひとり、父の手紙を持って歩いていた。

シトロンが現れ、隣に立つ。


「……泣いてない」


「うそつけ。目が赤い」


くすっと笑い、玲央は呟く。


「全部、怖かった。けど、知りたかった」


風が吹き、手にしていた絵本がぱらりと開かれる。


“Raffaele… è il nome di chi porta la luce.”

ラッファエーレ──それは、光を運ぶ者の名。(フランス語ではラファエル)


玲央はその言葉を見つめ、静かに頷いた。


──明日、手紙を開こう。

過去を、迎えに行こう。

忘れられていた祈りと、愛を連れて。


空には、月が昇っていた。



そして今日もまた、祖母の絵本

**『Il Piccolo Incanto di Nonna Eleonora(ノンナ・エレオノーラの小さな魔法)』**より、

物語に寄り添う言葉をひとつ―


『Raffaele… è il nome di chi porta la luce.』

ラッファエーレ──それは、光を運ぶ者の名。(フランス語ではラファエル)



――À suivreつづく

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


第9話では、玲央の名に秘められた“もうひとつの記憶”がそっと顔を出しました。

祖父母との関係も、ゆっくりとほどけていく気配が見え始めています。


そして今日もまた、祖母の絵本

**『Il Piccolo Incanto di Nonna Eleonora(ノンナ・エレオノーラの小さな魔法)』**より、

物語に寄り添う言葉をひとつ―


『Raffaele… è il nome di chi porta la luce.』

ラファエル──それは、光を運ぶ者の名。(フランス語ではラファエル)


かつて与えられた名が、今の自分へと静かに繋がっていく。

そんな夜の物語を、あなたと分かち合えたことに、心からの感謝を。

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