第2話『君のとなりで、記憶に触れる夜』
鎌倉の山奥にひっそりと佇む、記憶の洋館。
クロエと真澄の面影を残すその場所で、玲央とシトロンは新たな一歩を踏み出します。
残された香が、ふたりを過去へと導き、夜は静かに優しく満ちていき・・・
今回は少し長めの回となります。
“月の寝室”で過ごす、ふたりだけの時間をどうぞ。
鎌倉の山荘のさらに上・・・苔むした石段を登った先に、ぽつりと現れたのは、洋館と呼ぶにはあまりにも神秘的で、静謐な建物だった。
大きなガラス窓と、白く光る外壁。西洋建築のようでいて、どこか和の気配も残すその館は、まるで“時”というものが入り込むのを拒むように、ひっそりと建っていた。
「俺、夢見てたのかな。子猫だった頃……こんな建物、どこかで見た気がするんだ」
シトロンが眼を細めて呟く。
「……ここが始まりの場所……」
玲央がそう呟いたとき、マルセルが扉を開ける。
「ようこそ。“記憶の扉”へ」
その瞬間、ふたりの鼻先をすり抜けるようにして、ひとつの香りが吹き抜けた。
懐かしい、けれど思い出せない香・・・玲央とシトロンは、どこかで確かにそれを知っていた。
「改めまして、お帰りなさいませ。……おふたりでのお越しをお待ちしておりました。」
マルセルは、そっと扉を開けた。
中に広がっていたのは・・・まるで異世界だった。
淡い色合いの絨毯と、光を受けて輝くガラスの天窓。真澄とクロエが愛したという、フランスの館を模して作られたこの洋館は、そのまま祈りと記憶の“箱”だった。
「ここは、真澄様が建てられた“記憶の家”・・・クロエ様の故郷を思い、ひとつずつ設計された場所です」
マルセルの声が響くたび、玲央は静かに目を細める。
ここには、何かが眠っている。誰かの願い、祈り、命の音のようなものが……
「シトロン……」
「ん?」
「しばらく、ここで暮らしてみようか。……君とふたりで」
その言葉に、シトロンの目が見開かれ、次の瞬間、声にならない笑みが広がる。
「それって……同棲ってこと?」
「……だから、そういう言い方するな」
「だって、俺と一緒に住むって……夜、どうする?」
「……は?」
「俺、猫のときもそうだったけど…… 夜になると、隣にくっついて寝ないと落ち着かないタイプなんだよね」
玲央は耳まで真っ赤になった。
「……好きにすればいい」
「えっ、ほんとに? じゃあさ、レオのベッドで・・・」
「黙れって言ってるだろ!」
シトロンは声を転がすように笑いながら、玲央の腕にすっともたれかかる。
「レオのそういうとこ、ほんと好き。……おまえの顔、いちばん綺麗なとき、たぶん、俺のせいで赤くなってる時なんだよな」
「……知らん」
そう呟いた玲央の耳元で、シトロンがそっと囁く。
「じゃあ、もっと赤くしてあげる。……夜になったらね」
玲央が小さくため息をつくと、ふたりの間に流れた空気が、ふっとやさしく緩んだ。
執事マルセルに導かれ、シトロンと玲央は館の奥へと進む。
そこは・・・記憶の残響と祈りの香りに満ち・・・
まるで時間に取り残されたかのように、静謐な空気に包まれていた。
「母も、この場所には……入れなかったと、聞いています」
玲央がぽつりと呟く。
「ええ。お母様、玲那様は、契約の刻印を持たぬまま、霊的な力だけを継いでおられた。ここは、“契約者”のための場所……つまり、玲央様と、彼、シトロン様のために用意されていた空間なのです」
マルセルの声は、淡々としながらも、どこか慈しみに満ちていた。
館の中は驚くほど整っていた。長い廊下に並ぶ調度品は、時を止めたまま保存されており、まるで誰かが今も暮らしているかのようだった。
「この部屋です」
マルセルが扉を開くと、ほのかに香が漂う空間が現れた。
・・・香の間。
西館の奥、ひときわ重厚な扉の前で、マルセルが足を止めた。扉には、古い真鍮のプレートが嵌め込まれている。淡く曇った表面には、de la Lune家の家紋とともに、フランス語で《Encens》の文字。
「こちらが、“香の間”でございます」
扉を開けると、かすかに甘く、湿ったような香りが鼻腔をくすぐった。
広がっていたのは、円形の静かな空間。床は白い大理石のような材で、中央には低い丸卓がひとつだけ据えられていた。その上には、複雑なカットが施された大ぶりのガラス皿。
そして、皿の中央には、小さな香炉・・・まるで宝石のような装飾が施された銀の器が、じっと静かに佇んでいた。
天井近くの細い窓から月光が差し込み、香炉を中心に淡く光が広がっている。壁はどこか透き通るような薄青の石材で覆われており、光が乱反射しながら、空間全体を淡く包んでいた。
「……ここ、すごいな」
シトロンが呟きながら、そっと卓に近づく。皿の中を覗き込んだその瞬間・・・
ふわり、と香りが立ちのぼった。
煙はほとんど見えなかった。ただ、空気が、わずかに揺れた気がした。
「……っ」
玲央も、思わず視線を落とす。皿の表面に、月光が乱反射するそのわずかな揺らぎの中、誰かの・・・髪の長い人物の後ろ姿のような影が、ほんの一瞬、浮かんだ。
「……今、誰か……」
「いた、よな?」
シトロンが低く呟く。
香りは、言葉にできないほど繊細で、懐かしくて、どこか切ない。胸の奥がゆっくりと締めつけられ、玲央は思わず息を呑んだ。香に酔ったわけではないのに、視界がかすみ、足元がふわりと浮くような感覚。
そのとき・・・
玲央の胸に浮かぶ契約の印が、かすかに光を放った。
金色の粒子が、煙のように香炉の上を舞う。それに反応するように、シトロンの瞳の奥にも、微かに金の光が揺らめいた。
「……玲央、大丈夫か」
「……ああ、少し……眠気が……」
玲央は、額に手を当てながら、ゆっくりと目を閉じた。
まぶたの裏に、なぜか・・・見たこともない誰かの、泣いているような笑顔が焼きついている。
そして小さな声が、玲央の耳元で囁いた気がした。
『──Reviens sous la lune, mon aimé.』
(月のもとへ還って、愛しきひと)
玲央は思わず目を閉じる。
そして、その静かな感覚の中、シトロンの手が玲央の背にそっと添えられた。
マルセルが、静かに口を開いた。
「“香の間”は、記憶と祈りを繋ぐ場所でございます。過去の契約者たちが、ここで“誰か”の気配を感じたと、そう記録に残されております」
「……誰かって」
「満月の夜・・・香と共鳴したときのみ、姿を見せる者があると、言い伝えられております」
玲央は深く息を吐いた。香の残り香が胸に残っている。
・・・眠い。
それはただの疲れではなく、どこか意識を引き込まれるような、強く甘い誘い。
すると、シトロンがそっと玲央の手を取り、微笑んだ。
「今夜は、もう休もう。……」
その声に頷いたときには、マルセルが扉の先へと案内を始めていた。
「こちらに、“月の寝室”をご用意しております」
香の間を出たあとも、玲央の指先には、どこか温かい香りが残っていた。
天窓から月光が差し込む、白いベッドルーム。
明治期の職人が造ったという、ガラス張りの天井。
その意匠は月の運行に合わせて設計されていたという。
シャンデリアの灯がやわらかく落とされ、寝室の空間には、ほのかに白檀を基調とした香が漂っていた。
ガラス張りのドーム天井には、美しく磨かれた円形の天窓。
そこからは雲ひとつない夜空が見え、ちょうど満ちた月が、銀の静寂を部屋に注いでいた。
壁一面に施されたすり硝子の細工が、月の光をやわらかく屈折させ、部屋のあちこちに淡い光の揺らめきを描いている。
「……旦那様方、今宵は、どうぞこちらの寝室でおやすみくださいませ」
マルセルは深々と頭を下げ、どこか慈愛のこもった笑みを浮かべた。
「この部屋は、真澄様とクロエ様のために設計された空間・・・月が最も美しく見えるように、当時の最高技術をもって建てられました。
……今、ふたりでここにいらっしゃることが、きっと、願いだったのだと私は思います」
その言葉を最後に、マルセルは静かに部屋を後にする。
ドアが音もなく閉じられると、玲央はしばらく立ち尽くして天井を見上げた。
「……夢みたいだ」
ぽつりと漏れた声は、月にすくわれるように、やわらかく空へと溶けていく。
「月の光の中のお前、綺麗だ。」
シトロンが後ろからそっと肩を抱きしめた。白いシャツの袖越しに、玲央の背に触れる手が、あたたかい。
「……香のせいかな、ちょっと眠い」
玲央はベッドに腰を下ろし、しなやかな寝具に沈む身体の感触に目を細めた。
その横にシトロンも腰をおろし、柔らかな金の髪が光を受けてきらめく。
彼の瞳には、月の光がそのまま宿っているようだった。
「この部屋に、君の匂いが染み込めばいい」
「……っ、またそういうことを……」
玲央は目を伏せたまま、そっと額を寄せる。シトロンの胸に顔を埋めると、聞こえてきたのは穏やかな鼓動の音。
「シトロン……君がそばにいる夜は、それだけで心が満たされる。
今夜はただ、それを感じていたいんだ……穏やかに、優しく……」
その言葉に、シトロンはわずかに眉を下げ、玲央の手をとった。指をからめ、そっと唇に寄せる。
「じゃあ、俺が見守っている。おまえの夢が穏やかで、やさしくて、愛に満ちるように」
玲央はそっと目を閉じた。
金の髪が彼の額に触れ、静かにくちづけが落とされる。やわらかく、熱を持った唇。
寝台のカーテンが、風もないのにわずかに揺れた。
ふたりを包む白いリネンの香りに、漂うのは“月の夜の香”──母の記憶、先祖の祈り、そして契約の残響。月の寝室には、静かな香と、満ちるような光があった。
その夜、ふたりはそっと寄り添いながら、時を超えた記憶の扉が開くのを待つように、眠りについた。
...to be continued.
読んでいただきありがとうございました。
今回は、玲央とシトロンがついに“香の間”へ足を踏み入れる回となりました。
円形の部屋に差し込む月光、ガラスの皿に映った誰かの面影・・・
香りと記憶が交錯する空間で、ほんの少しだけ過去の気配に触れたふたり。
けれど、まだその正体は明かされず、静かに幕は降ります。
“記憶と祈りを繋ぐ場所”としての香の間は、今後、物語の中で繰り返し登場します。
次第に浮かび上がる誰かの姿、過去の契約の記憶、すべてが、ゆっくりと香るように。
そして、ふたりは“月の寝室”へ。
少しずつ、心と距離が近づいていく様子もお楽しみいただければ嬉しいです。
次回、第3話は・・・
月光の夜を越えて迎える、朝の“ちょっとだけ甘い時間”から始まります。
お楽しみに。




