第3話 『ソルボンヌ図書館、Feles Divinusとの邂逅』〜祈りの器と、神聖なる猫の名〜
静寂のなかに祈りが息づく場所がある。
石造りの書架と、陽光に透ける頁の匂い――
そこは、ただの図書館ではなく、
遥かな記憶と名もなき祈りが、ひっそりと息づく“聖域”。
第3話の舞台は、パリ・ソルボンヌ大学の奥にある、
ごく限られた者だけが足を踏み入れる研究員用の閲覧室。
シトロンと玲央は、ある人物に会うため、
その扉を静かに開きます。
風が止まり、時の流れがひととき滞るようなその場所で、
ふたりを待っていたのは、
思いがけない姿と、古い器に秘められた“家族の記憶”。
音のない対話が始まり、
ふたりの旅に、新たな影と光が差し込みます。
ソルボンヌ大学の荘厳な図書館。
玲央とシトロンは、執事代理のアレクシが用意してくれた特別な許可証を手に、古い扉を静かにくぐる。
案内してくれた秘書は、微笑みながらふたりを導いた。
その先にあるのは、重厚な扉の奥――通常は研究員のみが立ち入れる、静謐なサロンだった。
ドアの前で足を止めた玲央が、そっとノックをする。
カタン――
扉が開いた先、
奥の窓際に、ひときわ静かな気配をまとう男が立っていた。
背丈は170センチほど。細身の体躯に、肩にかかる長い黒髪。
その髪には、銀糸を思わせる微かな光が織り込まれていた。
なにより――その長い前髪が、両目どころか、顔のほとんどを覆い隠している。
白いシャツに黒のカーディガン。細身のパンツには皺ひとつない。
完璧な服装にもかかわらず、彼の存在は現実から半歩だけ浮いているようだった。
まるで、あの世とこの世の境界に、音もなく佇んでいるかのような――そんな静けさをまとっていた。
足元をふと見れば、裸足に下駄。
だがその奇妙な組み合わせさえ、彼にとっては自然な調和の一部のように見える。
そして、部屋の隅――
見慣れない木製の台があった。静かに響く、カタンという小さな音。
それは、本格的な蕎麦打ち台だった。
男は、何語とも知れぬ低い旋律を鼻歌のように口ずさみながら、
手際よく生地をのばしていく。
その動きは、まるで遥かな祈りの残響のようで――
玲央とシトロンは、その予想外すぎる光景に、思わず足を止めた。
(……この人が、黒川先生?)
玲央が小さく息を呑む横で、シトロンもそっと肩をすくめた。
ふたりは顔を見合わせ、言葉を失ったまま数秒、立ち尽くす。
そして、シトロンがそっと囁く。
「……ねえ、なんで図書館で蕎麦なんだろう」
玲央は思わず吹き出しそうになりながらも、表情を引き締めて一歩前へ進んだ。
「初めまして。一條玲央です。ご挨拶が遅くなり、申し訳ありません」
シトロンも、ほんの少しだけ緊張気味に微笑んで頭を下げる。
「こんにちは、シトロンです」
男は顔を上げたが、前髪に隠れて表情は見えない。
「やあ、一條くん……待ってたよ」
控えめな低い声だった。
生地をのばし終えると、彼はゆっくりと刃を手に取り、言う。
「せっかくの再会だから、手作り蕎麦で歓迎したくてね。話はあとで。まずは食事からどうぞ」
その所作は、何かの古い儀式のようにも見えた。
玲央はまだ驚きを隠せないまま、思わず笑ってしまう。
「ありがとうございます……図書館で蕎麦をいただくのは、初めてです」
黒川は気にするふうもなく、淡く微笑む。
「ここソルボンヌの厨房はね、世界一の“隠れた名店”なんだよ」
軽口を交わしながら、見事な手つきで蕎麦を切っていく。
「シトロンくんも、よかったら一緒にどうぞ。パリの夏に合う、冷たい蕎麦にしておいたから」
窓から差し込む光のなか、静かな一室に、日本の香りがふわりと漂う。
ふたりはその静けさに包まれながら、そっと席についた。
前に置かれた器に、玲央は自然と目を奪われる。
土のぬくもりと、飴色に縁取られた緑。古びているのに、どこか生きているような彩り。
「先生……この器、何でしょうか?」
黒川は指先で、器の縁をそっとなぞる。
「これは13世紀のマヨルカ焼き。
イスラムの職人がイタリアに渡って作ったものだ。こういう器は、かつてシチリアでも焼かれていた」
「どうして先生が……?」
「不思議な縁さ。君のお父さん――レミーと初めて会ったのは、もう四十年以上前になる」
その目が、ふっと遠くを見つめるように細められた。
「僕は当時、イタリアの土着信仰や古い祭りを研究していてね。
祇園祭と、シチリアのサンタ・ロザリア祭の類似性に着目していたんだ」
シトロンが身を乗り出す。
「祇園祭とサンタ・ロザリア……?」
「疫病退散、神と人をつなぐ祭り。どちらも、本質はよく似ている。
その頃、レミーと偶然同じ図書館で同じ棚に手を伸ばした――
彼はこう言った。“毎晩、夢を見るんです”と。
それは、古い村、白い猫、祭りの夜、そして――この器だった」
玲央の目が見開かれる。
「夢で……この器を?」
「そう。何度も見るうちに、彼はその風景を探すようになった。
やがて僕とともに南イタリアを旅し、土の中から、本当にこの器を掘り出したんだ」
黒川のまなざしは、今もその記憶の中にあるかのように、器を見つめていた。
「祭りの夜、神と人が交わるとき、“失われたもの”がもう一度、誰かの手に返る。
レミーはそれを信じていた。
彼にとってこの器は、夢と現実、そして祈りをつなぐ鍵だったのかもしれないね」
玲央は、静かに蕎麦を口に運びながら、器の文様に指先でそっと触れる。
「……父が大切にしていた理由、少しだけわかる気がします」
黒川は、ゆっくりと頷いた。
「やはり、君はレミーの息子だ」
*
蕎麦を食べ終えた頃、部屋の空気がふっと変わる。
黒川が何気なく額に手をやり、前髪をかき上げた。
その瞬間、驚くほど整った顔立ちがあらわになり――
玲央は思わず息を呑んだ。
けれど、黒川のまなざしはまっすぐに、シトロンをとらえている。
深い黒曜石のような瞳が、長い時間、ただ静かに彼を見つめていた。
シトロンは気まずさをごまかすように肩をすくめ、
「……そんなに見つめて……俺に惚れた?」
と、おどけてみせる。
だが、黒川は微笑むと同時に、ぽろりと涙をこぼした。
手をそっと合わせ、深く頭を垂れる。
「――Feles Divinus……神聖なる猫……
レミーの祈りが、こうして、無事に届いたのですね……」
その声には、敬意と安堵、そして“奇跡”に触れた者だけが知る震えが宿っていた。
玲央もまた、その空気に静かに息を呑み、
シトロンは冗談を飲み込み、目を伏せる。
パリの夏。
ソルボンヌの片隅で――
人と神と祈りが静かに交わる、ひとつの記憶が生まれた。
*
そして今日もまた、祖母の絵本
**『Il Piccolo Incanto di Nonna Eleonora(ノンナ・エレオノーラの小さな魔法)』**より、
物語に寄り添う言葉をひとつ――
「Ciò che è davvero prezioso, torna sempre a te, oltre il tempo.」
(大切なものは、時を越えて必ず還ってくる。)
――À suivre
祇園とロザリア、夢と器、猫と祈り。
異なる文化が交差するように、
神話と現実の縁は、静かに編み直されていく。
黒川慎一という男は、まるで「古い神話の案内人」のように、
玲央たちの“見えない記憶”を照らしてくれました。
そして彼の口から語られた「Feles Divinus」――
それは、かつてレミーが見た夢の答えであり、
今ここにいるシトロンの、もうひとつの名でもありました。
時を超えて運ばれてきた一枚の器が、
再び“持ち主の手”に渡るように。
愛も祈りも、きっと必ず還ってくる。
そして今日もまた、祖母の絵本
**『Il Piccolo Incanto di Nonna Eleonora(ノンナ・エレオノーラの小さな魔法)』**より、
物語に寄り添う言葉を一つ――
「Ciò che è davvero prezioso, torna sempre a te, oltre il tempo.」
(大切なものは、時を越えて必ず還ってくる。)
次回もまた、やさしい奇跡の続きに、
そっと耳を澄ませていただけますように。
F. de la Lune より
静かな祈りとともに




