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第2話 『金色の泡と、白猫の導き』 〜恋と記憶のはざまで、パリらしい贅沢を〜

パリの夏。

光と影が織りなすマレの石畳は、恋人たちにとっての舞台になる。

シトロンと玲央が、まるで映画のワンシーンのように

“特別なふたり”としてパリの街に現れます。


シャンパンの泡、いたずらな誘惑、そしてひそやかな白猫の導き。

それは、ただのバカンスではなく、

少しずつ「神と人」の距離がほどけていく、優しい午後の物語です。


パリの夏。

マレ地区のカフェ通りには、バカンスの熱気と、ほんの少しの静けさが同居していた。


シトロンと玲央がその一角に姿を見せたとき――

店内の空気が、わずかに震えた。

アランのパレ・ロワイヤルでのショーの余韻が、まだ街を柔らかく包んでいる。

その中心にいるふたりは、いまや“パリで最も目を引く存在”。

誰もが知る“時の人”となっていた。

ギャルソンたちは揃って姿勢を正し、ふたりをエスコートする。

案内されたのは、緑に囲まれた中庭のテラス。

まるでガバナのようなソファがゆったりと据えられた、特別な席だった。

若いギャルソンは緊張のあまり、手がかすかに震えている。

それでも丁寧にメニューを差し出すと――


「ありがとう」


玲央の声には、静かなやさしさが滲んでいた。

微笑みながら、その手でそっと品書きをめくる。


「今日のパリの陽射しに一番似合うシャンパンを……

『ルイ・ロデレール・ブリュット・ナチュール』をボトルで」


軽食には、フォアグラのパテに、トリュフが香るビーツとヤギチーズのサラダ。

ミントとレモングラスがほのかに効いた、アジアン・フュージョンの春巻き。

さらに、マレで評判のヴィーガン小皿など――

今のパリらしい、多国籍で洗練されたプレートをそっと追加する。

玲央は控えめに品書きを閉じると、そっとナプキンに手を添える。

その隣で、まだ少し緊張が抜けない様子のギャルソンに気づいたシトロンが、くすっと笑った。


「怖がらないで、子猫ちゃん」


そう囁いて、軽くウインクをひとつ。

ギャルソンは一瞬にして顔を赤らめ、慌てたように厨房へと戻っていく。


テラスには、小さな噴水の音が静かに響いている。

色とりどりの花々と、南国風の植栽がそよぎ、

ここがパリの一角であることさえ忘れてしまいそうになる。

まるで、“現実の中に紛れ込んだ夢”。

平日の昼前。

バカンス中とはいえ、近くの市庁舎から足を運んだビジネスマンたちが、

奥のテラス席に見えるふたりの姿に、自然と視線を奪われていた。

やがて、常連らしいスーツの男性が、通りすがりのギャルソンに声をひそめる。


「ねえ……あの奥の席、まるで夢の中みたいに輝いてるじゃないか?」


ギャルソンは、ふっと微笑むと、耳元でそっと囁いた。


「今は特別なお客様なんです。マレで話題の、あのおふたりですよ」



「ルイ・ロデレール・ブリュット・ナチュールでございます」


ギャルソンは静かな所作で一礼すると、コルクをそっと回す。

その手元から――

ポンッ。

軽やかな音が、テラスの空にやさしく弾けた。

ふと、空気が和らぎ、陽射しが微笑んだような気さえする。

ギャルソンは、きめ細やかな泡をグラスに注ぎ入れていく。

まず玲央へ、そして隣のシトロンへ。

琥珀色の液体が、夏の光を受けて静かにきらめいた。

玲央はそのグラスを手に取り、ほんの少し口元を綻ばせる。


「……こうして昼間から、恋人と気ままに乾杯できる。

そんな自由が、パリらしい贅沢なのかもしれないね」


陽射しの温もりと、隣にいる幸せをそっと味わうように。

何気ないこの時間こそが、いちばんのご褒美――

玲央は、そんなふうに感じていた。

その視線が、ふとシトロンへ向けられる。

シトロンは玲央の横顔を見つめながら、ゆっくりとグラスを傾けた。

金色の泡をひと口、唇に含み――

ふいに身を寄せる。

唇の端に、いたずらっぽい笑みを浮かべたまま、目だけでそっと問いかけてくる。


“ねえ、欲しい?”


玲央は、一瞬だけ固まったように瞬きをして、

次の瞬間、ふっと目を細め、息をついた。


「……ほんと、君って自由すぎる」


「それが、俺の贅沢なんだ」


午後のマレに吹く風のなか、

テーブルにはふたりだけの秘密が、そっと、金色の泡の記憶となって残された。



そのとき――

玲央のスマートフォンがかすかに震えた。

画面には、東京の部下・仁科の名前が浮かんでいる。


「仕事の電話かな」


玲央が通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、少し騒がしい声が飛び込んできた。


「一條さん、パリ本社に出向って本当ですか!? 今パリにいらっしゃるんですよね? ずるいです! 東京は今日も猛暑で…!」


玲央は少しだけ笑って、落ち着いた声で応える。


「今は夏休み中なんだ。しばらくパリで働くけど、数ヶ月で戻るよ」


「えー、パリで恋人できたりして? なんか雰囲気変わりましたよ?」


「……まあ、そんなところかもね」


「いいなぁ…! じゃあ、お休み満喫してくださいね!」


通話が終わると、すぐ隣でシトロンが、からかうように小さな声で囁いた。


「パリで恋人、って……俺のこと?」


玲央は少し照れたように視線をそらしながら、

ふたりはそっと、グラスを合わせた。



食後――

足元に白猫が現れる。

玲央が驚いたように目を丸くすると、シトロンがにやりと笑う。


「パリの猫は特別だよ。案内してくれるみたいだ」


白猫は、ためらいもなく路地の奥へとすいすいと歩き出す。

ふたりは自然に席を立ち、そのあとを追う。


石畳の小道。

街路樹の影、古びた扉、母の写真の記憶と重なる静かな風景が、ゆっくりと目の前に広がっていく。

ベンチに腰を下ろし、玲央はふと、思いを巡らせた。


「ねえ、シトロン。神様って、ずっと神様でいなきゃいけないの?」


シトロンは肩をすくめ、微笑む。


「別に。なりたいものになれるよ。ときどきは、ただの猫だったり、人だったり」


玲央は少しだけ間をおいて、続けた。


「僕みたいな人間が、そばにいてもいいの?」


シトロンはくすりと笑って、言う。


「むしろ、そばにいてほしいよ」


玲央は空を見上げて、問いかけるようにもう一度。


「神様でも、ひとりは寂しい?」


今度は、シトロンが少しだけ真面目な顔をした。


「うん。たまには、誰かと並んで歩きたくなる」


「……じゃあ、僕も隣にいていいんだね」


「もちろん」


ベンチの下で、白猫が静かに丸くなる。

ふたりのあいだを、やわらかな風が通り抜けていった。


パリの午後。

母の記憶と、小さな魔法のことば――

玲央の胸の奥に、あたたかな声がそっと響いていた。



そしてこれから時折、祖母エレオノーラが遺した絵本、

『Il Piccolo Incanto di Nonna Eleonora(ノンナ・エレオノーラの小さな魔法)』のページが、静かにめくられていくことでしょう。


今宵のことばは――


「Il mondo diventa più dolce, solo perché tu sei qui.」

(君が隣にいるだけで、世界はやさしくなる。)



――À suivreつづく


シトロンのいたずらと、玲央の微笑み。

パリの陽射しと白猫のしっぽが揺れるたび、

ふたりの関係は、ほんの少しずつ“約束”に近づいていくのかもしれません。


それは恋か、信仰か。

あるいは、長い記憶の果てにようやく芽吹いた“希望”なのか。


そして今日もまた、祖母の絵本

『Il Piccolo Incanto di Nonna Eleonora(ノンナ・エレオノーラの小さな魔法)』から

物語に寄り添う小さな言葉をひとつ——


「Il mondo diventa più dolce, solo perché tu sei qui.」

 (君が隣にいるだけで、世界はやさしくなる。)


次回もまた、やさしい魔法が、ふたりを導きますように。

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