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第1話 『月の絵本と、揺れる記憶の扉』 〜金色の猫神と、祖母の優しい言葉〜

月の光は、記憶の扉をそっと叩きます。

金色の猫神シトロンと、ひとりの青年玲央がたどる、記憶と祈りの旅。

静かなアトリエに宿る家族のぬくもりと、幼き日のやさしい言葉が、ふたりの心を静かに照らします。

失われた時間と向き合う勇気。

そして、「一緒に行こう」と言える誰かがいること。

それは、小さくても確かな一歩。


月の絵本が、ふたりをやさしく導きます。


アトリエの朝。

アレクシは静かに手袋を外し、ノートパソコンの前できっちり整えたメールの下書きを見直している。


「玲央様、黒川慎一教授へのご連絡文、仮に仕上げてみました。ところで……自己紹介は“de la Lune”でよろしいのですね?“d’Altavilla”の方も併記すべきかと。」


玲央は椅子にもたれながら、軽く頷く。


「今は“de la Lune”で。父の名前はちゃんと説明するけど、僕自身は“玲央”でいいよ。」


アレクシは資料ファイルも開いて念入りに確認する。


「黒川教授は、以前は“d’Altavilla”で呼ばれていたご様子も記録にございますので、念のため……。フランス語で書き出し、要件は簡潔に。“ご多忙のところ恐れ入りますが”、でよろしいでしょうか?」


そのとき、ソファで気だるげに脚を組んでいたシトロンが鼻で笑う。


「フン、俺なら一言で済ませる。“教授、暇なら今すぐ来い。猫恋しくて死にそうだ”ってな。」


玲央は即座にシトロンを睨んで、


「シトロン、それ絶対ダメだから。」


アレクシは目を輝かせてシトロンに近寄り、憧れのまなざしを送る。


「……シトロン様のそういう命令、わたくしも一度言われてみたい……。」


玲央は苦笑してアレクシに向き直る。


「アレクシ、そのテンションで黒川先生に送ったら絶対びっくりされるから……普通でお願い。」


「承知いたしました、玲央様! ですが……いつか一度くらい……」


「……ダメ。」


「はいっ……!」


アレクシは少し頬を赤らめながらも、しっかりと背筋を伸ばし、完璧なフランス語でメール文を整え始めた。

*

アレクシが去り、静けさが戻る。玲央はしばらく動けずにいた。幼い日の断片と、いまの自分の視線が重なり合い、すべてが少し遠く、少し眩しく見えた。


「……行こうか」


シトロンの声に背を押され、玲央はそっと歩き出す。

その一歩が、懐かしさと不安の狭間で――“記憶に触れる”ための最初の一歩になった。

玲央とシトロンは静かにアトリエを歩きながら、父レミーの“気配”を全身で感じていた。


「……ここ、懐かしい。」


玲央がそっと呟く。

シトロンは、部屋の中央に立てかけられた大きなキャンバスに足を止めた。

「……この絵・・・なんだ、これ。南国風の葉っぱと、やけに獰猛そうなシシみたいな生き物が二頭、

どこか馬にも見える、不思議な体つきの獣がひとつ……こいつら、何してるんだ?」


さらに顔を近づけ、金色のラインで描かれた猫の姿に目を留めた瞬間――その表情が一変した。


「……これは……猫神……?」


シトロンの瞳に一瞬だけ強い光が宿り、次の瞬間、ぐらりと体が揺れる。


「……あ――」


玲央は慌ててシトロンを抱きとめ、そのまま近くの寝椅子に座らせる。そっと膝を差し出して、シトロンの頭を支える。


「シトロン、大丈夫か?」


シトロンは目を閉じ、玲央の膝に体重を預けながら、かすかに息を吐いた。


「……ありがとう。変な感じだ……あの猫を見た瞬間、すごい光と音が頭の中を駆け抜けて……記憶の断片が、ばらばらに響くんだ。」


玲央は静かに息を呑み、どうしたらこの不安を和らげられるのか――自分にできることは何だろう、と考えを巡らせる。

ふと、手元のテーブルに視線を落としたとき、そこに置かれた一冊の絵本が、かすかな記憶とともに目にとまる。

そういえば――眠れない夜や、気持ちがざわついたとき、この本のやさしい言葉にどれだけ救われてきたのだろう。

玲央は迷いなく手を伸ばし、絵本をそっと手に取る。

ページを開く指先に、懐かしい温度が戻ってくるのを感じながら。

1ページ目を開き、優しい声で読み上げる。


『Anche nella notte più buia, la luna splende sempre per te.

(どんなに夜が深くても、月はかならずあなたを照らしているわ。)』


シトロンはしばらく黙ってその言葉を聞いていたが、やがて微笑んで目を開いた。


「これ、祖母が描いた絵本なんだ。懐かしいな。小さい頃、何度も読んでもらった。」


「……不思議だな。お前の声を聞いてたら、頭のざわつきが消えていく。猫神なのに、守ってもらうのも悪くないかもな。」


玲央も微笑み返し、そっとシトロンの髪を撫でる。

そのまま少し沈黙が流れた後、シトロンがふいに玲央を見上げ、ぽつりと言った。


「なあ、レオ。……記憶が戻ったなら、会いに行かなくていいのか?お前のお祖父さんとお祖母さん――あの二人に。」


玲央は一瞬だけ遠い目をし、それから優しくうなずく。


「……うん。君も一緒に来てくれる?」


シトロンは「ふっ」と微笑み、そして、少し誇らしげに、しかしどこか慈しむように囁く。


「――まったく。お前のその覚悟、しかと見届けてやろう。だが、俺を誰よりも誇れる存在として紹介しろよ?……お前が望むなら、いくらでも傍にいてやる。そのかわり、寂しい思いなど二度とさせないと約束しろ。」


玲央は静かに顔を近づけ、シトロンの額にやさしくキスを落とした。

ガラス張りの窓の外では、風に揺れる木々の影と光が、ベールのようにふたりを包んでいた。



アトリエの片隅で、アレクシは静かに足を止めた。

足元に敷かれたピエトリ・ドゥールの石畳が、窓から差し込む淡い光を穏やかに受け止めている。

かすかな磨耗の跡に、誰かが何度もここを歩いた時間の気配がにじんでいた。

その“誰か”が、いまこの空間にはもういないことを、アレクシはよく知っていた。

それでも、不思議と寂しさはなかった。

ほんの少し息を吸い込み、石畳の匂いを感じる。

古い紙と油彩、乾いた木と、どこか遠い記憶のような香り。

主家の記録係として長く仕えてきたけれど、このアトリエに満ちる気配は、書き残された年表や肖像のそれとはまるで違っていた。

静かで、やわらかく、けれど確かに、生きている。

孤独も、よろこびも、祈りも――

きっとこの家の人々は、そんなものを日々のなかで少しずつ積み重ね、やがて一枚の絵に託してきたのだろう。

視線の先に立つ玲央の姿に、ふとアレクシは目を細めた。

その佇まいは、静けさのなかに凛とした強さを湛え、どこか遠い光を背負っている。


“――シトロン様の隣に並ぶ資格をお持ちの、ただひとりのお方。

わたくし、アレクシ・ヴェルシエは、その尊き道行きを全力でお支えする所存でございます”


心の中で密やかに誓いながら、そっと唇の端に微笑を浮かべる。

誰にも気づかれないくらい、小さな、小さな、決意の笑みだった。


――À suivreつづく



*そしてこれから時折、祖母エレオノーラが遺した絵本、

『Il Piccolo Incanto di Nonna Eleonora(ノンナ・エレオノーラの小さな魔法)』

 のページが、静かにめくられていくことでしょう。


今宵のことばは――


「Anche nella notte più buia, la luna splende sempre per te.

(どんなに夜が深くても、月はかならずあなたを照らしているわ。)」



静かに開かれた“記憶の絵本”は、玲央の心に眠っていた感情をそっと呼び覚ましました。


祖母が残してくれたことば、父の気配、そして、共に歩むと誓ってくれる存在。

そのすべてが重なり合いながら、物語はゆっくりと動き始めます。


「Anche nella notte più buia, la luna splende sempre per te.

(どんなに夜が深くても、月はかならずあなたを照らしているわ。)」


――つづきも、どうか月明かりのもとでお楽しみいただけますように。


F. de la Lune より

感謝と祈りをこめて

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