第19話『月の静寂に、耳を澄ませば』〜甘い耳に、風が触れて〜
猫耳のままのシトロン、眠たげな瞳と、柔らかな光の中で交わすふたりのやりとりは、これまでになく優しくて、少しだけ甘い。
アランは旅立ち、玲央とシトロンはふたりきりで過ごす静かな朝。
ドビュッシーの音色が風に乗って聞こえる頃、運命の記憶が再び玲央の心に揺らぎはじめる。
これは、静けさの中に訪れる目覚めの章。
そして、契約の扉が開かれる前の、最後の穏やかな一幕です。
九時を過ぎた朝。
深い森を包んでいた霧はすっかり晴れ、ヴィラ・リュミエールの空には、澄み渡るような青が広がっていた。
木々の緑は朝日にきらめき、昨夜の華やかな宴とは打って変わって、自然の息吹が心地よく吹き抜けていく。
静けさのなかに、どこか旅立ちを告げるような気配が漂っていた。
玲央が目を開けると、朝の光がカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
いつもより深く眠っていたらしい。けれど、すぐ隣に感じる気配に、自然と心がほどけていく。
シトロンが寝転んだまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
その頭の上にぴょこんと覗く金色の猫耳が、朝の光を受けてかすかに揺れていた。
「……まだ、耳が戻らないな」
玲央がぽつりと呟くと、シトロンはちらりと目線を寄越す。
その視線に応えるように、玲央はそっと身を寄せ、目の前の猫耳をまじまじと見つめた。
「……ふわふわ、だな」
思わず指先でそっと撫でる。シトロンの耳がぴくりと震えた。
「ん……くすぐったいぞ」
「ごめん、でも……」
玲央はほんの少し身を屈め、鼻先で猫耳にふわりと触れた。
陽の匂いと、どこか懐かしい毛並みの温もり。
玲央は、小さく笑いながら、そのまま耳の中をのぞき込むように顔を寄せ――ふ、と優しく息を吹きかけた。
「……っ」
シトロンの肩がぴくりと揺れた。
「……なにしてんだよ、レオ……」
抗議するような声とともに、片耳がくいっと後ろへ倒れる。
玲央は悪戯っぽく微笑みながら、もう片方の耳にそっと唇を寄せる。
ふわりと、やさしく。ほんの一瞬、耳の先を、そっと甘噛みした。
「っ……おい」
シトロンが思わず身をよじる。
「ごめん。……でも、なんか、可愛くて」
玲央の声は少し熱を帯びていた。
「可愛いって……俺は猫じゃなくて....」
「知ってるよ。だから余計、見惚れるんだ」
静かな朝の光のなか、金の耳がそよ風に揺れ、二人の間に、ふとした沈黙が落ちた。
けれどそれは、言葉では言い表せないほどに、満ち足りた沈黙だった。
*
ブランチの支度が始まるよりも早く、敷地の奥にひときわ静かなエンジン音が響いた。
朝の光の中に、漆黒の車が滑るように現れる。アランの迎えだ。
「本日よりロサンゼルスでの撮影とのことです」
そう告げた秘書は、静かにアランのコートを差し出した。
出発の間際、アランは誰にも気づかれぬようにそっと花を置いていった。
それは白い薔薇の花束。リボンには、手書きのカードが一枚。
“次に目覚めるときは、あなたの胸の中で。”
*
ブランチまでのあいだ、玲央とシトロンは敷地の庭園を歩いていた。
朝露が石畳を濡らし、静けさが一面に広がっている。
そのとき、ふと、ガラス越しに音が聴こえた。
ピアノの音だった。ドビュッシー。『月の光』。
「……誰が?」
玲央が振り向くと、ガラス張りの音楽室の奥に、マチルドの後ろ姿が見えた。
銀灰色の髪を束ね、微笑みすら静けさの中に溶けてゆくような、落ち着いた佇まい。
その横に、古びたギターが立てかけられていた。
「これは、玲那さんがよく弾いていたものよ。あなたも、小さいころ……落書き、したのじゃなかった?」
マチルドはそう言って、目を細めた。
玲央の指が、ギターの表面をそっとなぞる。
その一角に、小さな擦り傷があった。丸く削れた木目——見覚えがある。
幼い頃、手を伸ばして落としてしまったのだ。ギターの音が止まったあの瞬間。
すぐに誰かが抱きとめてくれた。
けれど、その腕のぬくもりしか思い出せない。
——あれは、誰だったのだろうか?
玲央は目を伏せ、ギターを静かに抱きしめた。
胸の奥で、なにかがかすかに、音を立てた。
そしてさらに、玲央の指先が、ギターの裏面にふと触れた。
微かな彫り込み。傷のような線が、そこにあった。
“Io e il mio gattino, un eterno splendore.”
(僕と子猫は永遠に輝き続ける)
「……イタリア語……?」
何気なく読み上げたその言葉に、胸の奥が静かにざわついた。
「持っていきなさい。それはもう、あなたのものよ」
マチルドの言葉に、
玲央はそのままギターをそっと抱えて、部屋を後にした。
*
その日のブランチは、テラスでゆったりと進んだ。
シトロンの耳ももどり、金の髪が陽の光にゆれていた。
「ここは、いつまでもあなたたちの家だと思っていいのよ」
マチルドが微笑みながら言った。
玲央はその言葉に、ゆっくりと頷いた。
心のどこかで、もう“帰る場所”を探してはいなかった。
シトロンがそばにいれば、それがどこであっても、居場所になった。
そこにマルセルとアレクシが揃って現れた。
「月の間の準備が整いました」
アレクシが静かに言う。
マルセルもわずかに頷いて、黒手袋の指先で印章の刻まれた巻物を持っていた。
「私どもは、控えの間までお供いたします」
彼らの言葉には、どこか決意のような、惜別のような気配があった。
玲央は、シトロンと並んで立ち上がった。
その目はもう、迷っていなかった。
次に向かう場所に――
月の記憶が待っていることを、知っていたから。
.....to be continued...
シトロンの猫耳タイム、いかがでしたか?
また、玲央の心に眠っていた・・・記憶が、この先の物語を動かす大きなきっかけに──。
ヴィラでの滞在はもうすぐ終わり。
次回はいよいよ“月の間”へと向かいます。
ふたりの歩みの先に、過去と未来が交差する場所が待っています。
お楽しみに・・・