第1話 『記憶の扉を、きみとひらく』
・・・第1話は、少しだけ時間を巻き戻すお話。
パリへ向かうふたりの旅の前に・・・
鎌倉で起きた、ある“始まり”の出来事から。
都会の喧騒を離れ、玲央が向かったのは、海と山に抱かれた静かな場所。
そこは、祖父母の暮らす懐かしい家であり、そして今では、
元猫の青年・シトロンと共に“記憶”と“契約”の謎をひもとく、大切な場所でもある。
ふたりにとっての過去と未来が、ゆっくりと重なりはじめる物語。
どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。
・・・鎌倉の朝。霧が少し残る山の空気は、都会の空気とはまるで違っていた。
都内での仕事にひと区切りをつけ、少し長めの休暇をとった僕は、鎌倉の山荘へと向かった。
祖父母が静かに暮らす、山と海に抱かれたその場所は、幼い頃からの帰る場所。
そして今は、かつて猫だった青年・シトロンと共に、過去の記憶と家に眠る謎をひもとく・・・
特別な日々の始まりの地でもある。
玲央は、庭の縁側であたたかいお茶をすすりながら、ふと隣に目をやる。
「なに、そんなに見てるんだ」
「ううん……」
シトロンはぽつりと答える。
「きみの朝の髪、けっこう好き。猫のときは、手でしか触れなかったけど・・・
今はこう、こうやって・・・」
するりと玲央の後ろ髪をすくい上げ、口づける。
「……やめろって言ってるだろ」
玲央は顔を逸らすが、耳が真っ赤だった。
「ふふ……でも、嫌じゃないよね?」
「……っ!」
そこへ、ふすまの向こうから、咳払いとともに現れたのは祖父・リュシアン。
彼の後ろには、穏やかな笑みを浮かべる祖母・紗英の姿があった。
「そろそろ……話しておかねばならないことがあるんだよ」
リュシアンの言葉に、空気がすっと引き締まる。
「この山荘には、もうひとつ、建物がある」
「……え?」
「君たちがいるこの家は、祠を守るために建てた“山荘”。
だが……そのさらに上に、古い“本館”があるのだ。玲央、君の祖先・・・真澄とクロエが暮らした家が」
玲央は思わず、目を見張った。
「そんなの、聞いてない……」
「わざとだよ。今までは“鍵を開ける者”が現れていなかったから」
「鍵……?」
そのときだった。
「ふたりとも、準備は整いましたよ」
柔らかなバリトンが背後から響く。玄関の方を振り返ると、そこに立っていたのは・・・
「あなたは……!」
玲央の声が震える。
白手袋に燕尾服、金のフレームの眼鏡。かつて、東京のマンションでバスケットに猫を入れ、玲央のもとを訪れた“不思議な男”。
「そう……私の名は、マルセル。de la Lune家に仕える者。玲央様、ようこそ。再びお会いできて、光栄です」
玲央は言葉を失った。
・・・あのときも、この人は何者なのかわからなかった。けれど今、ようやく繋がった。すべてが始まった“その先”へ・・・。
ふたりが山を登る道すがら、シトロンが小さく口を開いた。
「……玲央。あのマルセルってさ、ずっとこの家にいたんだよね?」
「ああ、リュシアンが言ってた。曾祖父の代からずっと。……クロエの時代からかもしれないな」
「人間じゃないんじゃない?」
「きみが言うな」
玲央が笑ってつぶやくと、シトロンが不満そうに唇を尖らせる。
「俺は、“ちょっとだけ特別”な猫だもん」
「ちょっと、どころじゃない。僕の人生をぶち壊したんだからな……」
「ぶち壊した、じゃなくて、救ったでしょ?」
玲央が答えられずにいると、シトロンが急に立ち止まった。そして、不意打ちのように腕を引き寄せ、玲央の背にぴたりと体を寄せる。
「さっき、髪にキスしたから……今度は、首に」
「や、やめろ!」
「……かわいい」
シトロンが耳元で囁いた瞬間、玲央の足がもつれて道端の小枝に躓く。
だが倒れそうになったところで、しっかりと腕に支えられた。
「危ないな、全く」
「……きみのせいだろ!」
「でも、支えたのも俺だから、チャラでしょ?」
「……っ」
玲央は何も言わずに歩き出すが、耳はやっぱり、赤いままだった。
そして、たどり着いたその洋館は・・・
石造りのアーチに、蔦が絡まり、ひときわ大きな天窓が空を仰いでいる。
ガラスの多い造りは、どこか西洋の香りを漂わせながらも、鎌倉の風土に不思議と溶け込んでいた。
「……ここが、はじまりの場所」
玲央がそう呟いたとき、マルセルが扉を開ける。
「ようこそ。“記憶の扉”へ」
その瞬間、ふたりの鼻先をすり抜けるようにして、ひとつの香りが吹き抜けた。
懐かしい、けれど思い出せない香・・・玲央とシトロンは、どこかで確かにそれを知っていた。
「この家には、過去と未来が重なる部屋があります。どうか、おふたりで。少しずつ開いていきましょう」
To Be Continued…
ふたりがたどり着いた洋館は、
まるで時の向こうから静かに呼びかけてくるような、不思議な空間でした。
髪に触れ、首筋に触れ・・・
少しずつ距離が近づいていくシトロンと玲央の関係。
そして、リュシアンやマルセルが口にした「過去の扉」という言葉。
これから、ふたりは少しずつ、家に眠る想いと記憶を辿っていきます。
それはきっと、未来へと続く道の始まり。
次回もまた、静かでやさしい一歩を。
どうぞお楽しみに。