【第11話】 『月を纏う美しき獣』 〜Le fauve en robe de lune〜
パリ本社からの突然の招待。
呼び出し主は、名だたるブランドを率いる気鋭のクリエイティブ・ディレクター、アラン・モンレアル。
シトロンにとっては興味のない名前でも、玲央にとってはただならぬ予感がしていた。
「お願いだから、静かに、いい子にしててね」
玲央のそんな言葉に、笑って頷いたシトロン。
けれど数時間後、彼は世界を変えてしまう——
月の光を纏いし“獣”として。
パリ・午前10時。
サン=ルイ島の邸宅の一室にて・・・
「……わかりました。すぐに向かいます」
通話を終え、玲央が視線を上げると、シトロンがすぐ横で首を傾げていた。
「誰?」
「本社からだ。アラン・モンレアルが、どうしても君に会いたいらしい」
「んー……誰?」
あくび混じりに訊ねる。まるで他人事のように。
「僕の……いや、“うち”のブランドの現クリエイティブ・ディレクター。パリコレの常連。かなり気難しい人だけど……」
玲央が説明し終える前に、シトロンはふっと笑った。
「ふ〜〜ん。レオ以外、あんまり興味ないんだよね。特に“気難しい”とか、なおさら。」
「……そういうこと、平然と言うの、やめなよ」
玲央は軽くため息をつきながらも、耳がほんのり赤くなる。
「お願いだから。会社では、“静かに”“品よく”“いい子”にしてて」
「え、オレっていつもいい子だよ?」
シトロンがわざとらしく目をぱちくりさせる。
「……猫が棚から花瓶ひっくり返しておいて“ぼくじゃないもん”って顔してるのに似てる」
「ばれた?」
シトロンは舌を出して笑い、すぐに玲央のそばにすり寄った。
「でも、レオのためなら、ちゃんと“役”やるよ。おとなしくて礼儀正しくて、目を逸らせないくらい完璧な“いい子”のフリ、ね?」
「……いや、逆に怖いから。やりすぎないでね?」
玲央は思わず苦笑するしかなかった。
だがこの時、彼はまだ知らなかった。
数時間後、“役”に徹したシトロンの美貌が、アラン・モンレアルの理性を吹き飛ばすとは──。
*
玲央とシトロンを乗せた黒塗りのリムジンは、セーヌ河沿いを滑るように進んでいた。
リムジンが止まったのは歴史ある建物の前。
石造りのファサードがそびえ、レトロと未来を融合させたようなその佇まいに、シトロンが「おお……」と感嘆の声をもらす。
MAISON DE LA LUNE パリ本社──。
静謐なエントランスを抜けると、内部は一変して幻想的だった。
白を基調とした吹き抜けのロビーに、螺旋階段。天窓から落ちる自然光が、どこか月の光のような柔らかさを帯びている。
「この場所、なんか……落ち着く」
シトロンが天井を見上げてつぶやく。
その金色の瞳に反射した光が、建物全体と溶け合うようだった。
「こちらへどうぞ。アラン・モンレアル様は、奥のサロンにてお待ちです」
扉が開かれると同時に、まるで風が抜けるような気配が走った。
「ようこそ。ようやくお会いできましたね」
その声は、舞台の幕開けのように、緩やかで、だが圧倒的だった。
アラン・モンレアル。
フランスのモード界を牽引する鬼才にして、異常なまでの審美眼を持つ男。
その端正な顔立ちには、一分の隙もなく。
けれど、玲央は知っていた。彼の微笑みの裏には、いつもどこか狂気が滲んでいることを。
「あなたが……」
アランの視線は、ただ一点──シトロンだけを見つめていた。
その瞬間、彼は小さく吐息をもらした。
「……Mon Dieu……っ」
低く、ひきつけられるような呻き。
次の刹那、彼はまるで打たれたようにその場に崩れ落ち、胸元に手をあてる。
舞台を見つめる批評家でもなければ、モデルを迎える審美家でもない。
まるで、神の顕現を目撃してしまった信徒のように——。
「……ああ……やっと……やっと、会えた……」
その目は潤み、指先は震えていた。
静まり返った空間に、彼の呟きがこだまする。
「月の記憶を身に纏いし、美の化身……君が“NOIR LUNE”の夜を照らす者だ。」
アランの讃美を受けた瞬間――
シトロンは静かに、微笑んだ。
細くしなやかな指先が、ひと房の金の髪を耳にかける。
その仕草すら、まるで舞踏会の幕開けを告げるような気品をまとっていた。
彼は一歩、柔らかく前へ。
長い脚が床に音もなく着地し、身を傾けるようにして、胸元にそっと右手を添えた。
その姿はまさに、古の貴族が示した最高の礼。
「あなたの言葉のほうが、ずっと美しい──」
囁くような声に、ほのかな艶が宿る。
銀のしずくが耳元で揺れるように、言葉が空気に溶けた。
「……シトロンと申します。出会いに、感謝を。」
軽く目を伏せた瞬間、長い睫毛が金のカーテンのように光を遮り、
そして次の瞬間、上げた瞳がアランをまっすぐに射抜く。
まるで月の光に導かれた祈りのように。
その瞬間、アランの世界が、音を失った。
床に差し込む午後の陽光さえも、彼を引き立てる装置に過ぎなかった。
……息が、止まった。
なんだ、この存在は。
「美しい」などという言葉では足りない。
いや、もはや言葉という枠に収めようとすること自体が、
この現象に対する――罪だ。
魂が、跪いた。
脳の奥に、雷が落ちる。
それは啓示にも似て、圧倒的な熱を孕んでいた。
"Citron."
名前を名乗っただけなのに。
その音の一つひとつが、音楽のように響く。
いや、聖句か。
祝詞か。
あるいは、神の名か。
──この男は、誰だ。
なぜ、ここに現れた。
そしてどうして、俺の何もかもを、こんなにも暴いていく……。
「NOIR LUNE」……
月の影のコレクション。
その第一章にして、永遠の原型が、ここにいる。
彼が纏う“夜の光”は、たった一歩で世界を変える。
この男が歩けば、パリの石畳すら永遠を刻むだろう。
――美とは、破壊だ。
そして再生だ。
ようやく、全てが揃った。
“運命の月”は、この男の瞳に宿っていた。
*
マルセルがそっとため息をついた。
「これは……長い一日になりそうですな」
その隣で、なぜか肩を抱いていたアレクシが、ぐるぐるに思考を回しながら静かに呟いた。
(あの金色の君を、広告塔だの芸術の具にするだなんて……なにそれ、許さない……。
ぼくの中で今、嫉妬って言葉がものすごく火を噴いてる……いや、落ち着け僕。冷静……冷静……。完璧な執事……!)
一方、シトロンは、アランの熱視線の中でまったく悪びれず、にっこりと笑いかけていた。
「ねえ、レオ。俺って……そんなにすごい?」
玲央は苦笑しながら答えた。
「……君は、たぶん、世界にとって一番厄介な美しさだよ」
.....to be continued.
読んでいただきありがとうございました。
いよいよパリでの出会いが始まりました。玲央にとっては仕事上の緊張、シトロンにとっては……すべてが遊び?
けれど、彼の中に眠る“月の契約”の力と、天性の美しさが、思いがけず人の心を揺るがせていきます。
次回、アランの「暴走」、そして執事アレクシの「限界寸前」もお楽しみに──
では、また月明かりの中で。