第6話 「獣に名を与える夜 」 〜筆は祈りを綴り、魂は名を得る〜
夜が、名を呼ぶ。
甍の筆が祈りを描くとき、夢の中の獣が目を覚ます。
遠く離れた海辺で、玲央もまた、胸の奥の“声”に触れる。
光と闇の境で、魂たちの祈りが静かに重なっていく──。
離れの灯は消え、甍はただ一人、薄闇の中で座していた。
障子の向こうで、金木犀が微かに鳴る。
その香りを吸い込みながら、甍は筆を取った。
紙はまだ白い。
だがその白の奥で、すでに“何か”が動き出していた。
「……お前は、誰ですか。」
声を出した瞬間、空気が震えた。
墨を含んでいない筆先から、光がひと筋、紙へと流れ落ちる。
黒でもなく、金でもない──“祈りの色”。
夢の境が再び開いた。
甍は祠の中に立っていた。
灯明が揺れ、筆を握る手に熱が伝わる。
闇の奥から、あの獣が姿を現した。
毛並みは風のように揺れ、瞳は星のように淡い光を宿している。
『名を呼べ。呼ぶことで、我は形を持つ。』
声が、甍の内側に響いた。
恐れはなかった。
むしろ、懐かしさが胸を満たした。
「あなたは……“燿麟”。」
その名を告げた瞬間、獣が光を散らした。
炎のようで、涙のようで、祈りのようで。
甍の頬に、一筋の光が落ちた。
それは墨ではなく、“絆の印”だった。
『名を得た。ゆえに、お前は私の声を持つ。
筆を振るえば、我は息づく。
お前が祈る限り、私は燃え続ける。』
甍は深く息を吸い、筆を掲げた。
「……では、共に。」
獣がうなずくと、光が筆に吸い込まれていく。
筆が微かに震え、墨壺の水面が波打った。
夢が、静かに閉じていった。
* * *
そのころ、玲央は鎌倉の海辺を歩いていた。
夜の潮風が頬を撫でる。
波打ち際に立つと、どこか胸の奥がざわついた。
「……なんだろう、この感じ。」
シトロンが隣で目を細める。
「玲央、君の“中”が、動いてる。」
玲央は目を閉じた。
体の奥に、何か熱いものが流れている。
脈打つ音が、海の鼓動と重なる。
そのとき、視界の端に“光”が走った。
浜辺の岩の上に、白い獣の影が一瞬浮かんだ。
まるで、甍の夢にいたあの“燿麟”が、
遠い世界の記憶を越えて呼応しているかのようだった。
玲央の胸の奥で、静かに何かが囁いた。
──まだ名を持たぬ“もう一つの声”。
風が吹き、金色の髪が揺れた。
シトロンが微笑む。
「感じたね。」
玲央は小さく頷いた。
「……ああ。何かが、目を覚ました。」
遠く、鎌倉の山の方で、金の光が一筋、夜空に昇った。
それは甍の筆から放たれた祈りの光。
ふたりの夜が、一本の線で繋がった瞬間だった。
世界が、静かに息を変える音がした。
——つづきにて。
読んでくださって、ありがとうございます。
名を与えることは、心を見つめること。
甍の筆と玲央の祈りが結ばれた夜は、
この物語にとってひとつの“扉”でもあります。
どうぞ、この祈りの光の先を、見届けてください。




