第5話 「夢の筆、眠る力」 〜声を宿す石、記憶を抱く風〜
筆が眠るとき、夢が目を覚ます。
甍の祈りが風を呼び、玲央の記憶が光に触れる。
見えないものと見えるもの──
その境に、静かな声が宿りはじめる。
昼の光が山の木々を透かし、離れの障子にゆらりと映っていた。
甍は、机の上の筆に手を伸ばしながら、ゆっくりと座を正す。
朝の粥のぬくもりが、まだ体の奥に残っている。
静かに息を吸い、吐く。
吸う息は風。吐く息は光。
呼吸が静まるたび、世界が音を忘れていった。
筆を握った右手が微かに震える。
墨をつけたわけでもないのに、指先から黒い光が滲み出し、
薄い紙の上に線を描くように空気が揺れた。
甍の瞼が、祈るように静かに閉じた。
──闇の中に、祠があった。
霧が立ちこめ、遠くで水音が響く。
十五歳のころの自分が、白い装束をまとい、筆を捧げている。
「この筆は、祈りを綴るもの。
そして、祈りは形を呼ぶ。」
そう言っていた師の声が、耳の奥で反響した。
甍の幼い手が筆を走らせると、空気が震え、光が弾けた。
──光の中に、影のようなものが現れた。
獣とも、人ともつかぬ、輪郭の揺らぐ存在。
筆の軌跡に沿って、宙に金の紋が浮かび上がる。
“おまえの声を、名にしよう”
甍はその言葉を呟いた瞬間、掌に熱が走った。
獣が微かに笑ったように見えた。
そのとき、夢の外で、青砥が微かに眉をひそめた。
「……甍様が、視ておられる。」
離れの空気がわずかに震え、
結界の線がひとりでに光を帯びる。
甍は夢の奥で、獣の息を感じた。
それは恐怖ではなく、懐かしい匂い。
筆を握る指が、今もその感触を覚えている。
* * *
一方そのころ、鶴岡八幡宮。
シトロンと玲央は参道を歩いていた。
風が銀杏を舞い上げ、空が淡い金色に染まっていく。
石段の上に差し掛かったとき、玲央の足が止まる。
「……待って。あの狛犬……」
シトロンが顔を上げた。
陽に照らされた狛犬の瞳が、一瞬だけ金に光ったように見えた。
玲央はその前に立ち、じっと見つめた。
「そういえば、子どものころ……
この子たち、よく話しかけてきたんだ。」
「狛犬が?」
「うん。妄想だと思ってたけど、あの頃、両親がいなくなって、何も感じられなくて。
毎日が真っ黒で、息をしてるのかもわからなかった。
でもね、この子たちは昔の話をしてくれた。
鎌倉時代とか、祈りの祭りのこととか。
その話をすると、空気がざわめいて、
まるで祭りみたいに、たくさんの声が集まったんだ。」
玲央の声が少し震えた。
「不思議だけど、怖くはなかった。
むしろ……守られてる感じがした。」
シトロンは彼の横顔を見つめ、静かに微笑んだ。
「……君の中には、昔から“力”があったんだね。」
玲央は頷き、狛犬の頭に指を添えた。
まるで記憶の続きをなぞるように。
その瞬間、風がふわりと吹き抜け、銀杏の葉が二人の肩に舞い落ちた。
狛犬の瞳が、一瞬だけ光を宿す。
甍の筆先に灯った“夢の光”と、どこかで呼応するように。
月が雲間から顔を出し、鎌倉の街をやさしく照らしていた。
──つづきにて。
読んでくださって、ありがとうございます。
甍は「筆の祈り」の中で過去と再会し、
玲央は「光の記憶」の中で力の気配を感じ始めました。
夢と現実、筆と祈り、獣と人。
それぞれの中で眠っていた“魂の声”が、
ようやく同じ月を見上げた夜です。




