第9話 『月の香、金の髪』〜月の光をすくうように、そっと髪に触れた夜 〜
サン=ルイ島にあるde la Lune家の邸宅を初めて訪れる玲央とシトロン。
香に包まれた古い館、天蓋付きのベッド、そして月明かり。
それは、時を越えてつながる愛と記憶の始まり。
―今宵、ふたりが見上げた空の先に、何が待っているのか。
石橋を越えて、リムジンが静かにセーヌを渡った。
茜色の空が川面に映り、古いパリの街並みが金と藍に染まっていく。
遠くには、ノートルダムの尖塔。刻一刻と夜へと変わりゆくその空に、ひとつ、またひとつと星が灯り始めていた。
「見えてきました。……あれが、本邸です」
アレクシの静かな声に促されて、玲央は車窓を見やった。
三階建ての石造建築。華美ではないが、威厳に満ちた佇まい。
鉄扉の上には、月と星を象ったアイアンのレリーフがあり、まるで空と交信するように微かに光を返している。
車が止まると、石畳の階段を上った先で、グレーの制服に身を包んだ老執事が待っていた。
「ようこそお帰りなさいませ、玲央様。de la Lune本邸へ」
深く頭を下げた老執事に続き、玲央とシトロンは扉の前に立った。
厚い扉が重々しく開く。
その瞬間、内側から漂ってきたのは、甘く清らかな香りだった。
「……この香り……」
玲央は立ち止まり、思わず吸い込む。
記憶のどこかに触れるような、懐かしくも知らない匂いだった。
「“月香”でございます」
アレクシが答える。
「クロエ様の代より、日暮れの刻には必ず焚いております。今宵は少し、特別な調香を」
玄関ホールは高い天井を持ち、白と黒のタイルが静謐に続いている。
銀の香炉から立ちのぼる煙が、月明かりを含んだように柔らかく揺れていた。
「こちらへどうぞ。玲央様のお部屋は、北の角部屋にございます」
深紅の絨毯を踏みながら階段を上がると、広い廊下の先に、重厚な両開きの扉がひとつ。
鍵が外れ、扉が静かに開かれる。
その部屋は、まるで時が止まっているかのようだった。
天蓋付きのキングサイズのベッド。繊細なレースのカーテンが、月光を受けて淡く透けている。
窓の向こうには、ノートルダムを臨む小さなバルコニー。壁には一枚の肖像・・・
若い女性が、淡く微笑んでいる。クロエ。
玲央はしばらくその絵から目を離せなかった。
「……ねえ、ここ、ひとりで寝るには広すぎない?」
玲央がクロエの肖像画を見つめていると、背後からふいに声がした。
振り返ると、シトロンがいた。
いたずらっぽく笑いながら、ベッドの足元まで来て、天蓋のレースを指先でふわりと持ち上げている。
「このベット、ロマンチック……。それに中もふかふかしてそう」
興味津々といった様子で天蓋の中を覗き込むと、そのまま勢いよくベッドに倒れ込む。
「ほら、あの窓。天蓋越しに月が見えるよ。……なんか、夢みたいだな」
彼の視線の先には、天井近くまで伸びる大きなフレンチウィンドウがあった。
レースのカーテン越しに差し込む月の光が、天蓋の内側をやわらかく照らし、
シトロンの髪に銀色の輝きを落としている。
シトロンは寝返りを打ち、横になったまま玲央を見上げた。
「隣、空いてるよ?」
玲央は一瞬まばたきをした。
けれど、戸惑いのあとに残ったのは、なぜだろう、
「そうか」とすっと腑に落ちるような、静かな安心だった。
気づけば、足が動いていた。
玲央は天蓋をそっとかき分け、静かにベッドの片側に腰を下ろす。
シトロンの隣に身を預けて、ふたりで並んで、レース越しの月を見上げた。
しばらく、言葉もなく。
やがて、玲央がそっと身体を傾ける。
そして、隣に横たわるシトロンの金の髪に、指先を添えた。
月光がふわりとその髪に宿っている。
「……きれいだな」
玲央はぽつりとそう呟くと、すくい上げたその髪に、ためらいもなく唇を落とした。
まるで月の光に口づけするように。
・・・その一瞬、シトロンの呼吸が止まった。
玲央の視線は、何も知らないまままっすぐに、髪の揺れを追っている。
「……レオ、それがどういう意味を持つか、わかってやってるのか」
かすれたような声で、シトロンが呟いた。
玲央が小さく首を傾げて振り返る。
「……え?」
「なんでもない」
シトロンは視線を逸らした。
けれどその頬に、月の光ではない赤みがほんのわずかに浮かんでいた。
窓の向こう、ノートルダムの尖塔のそばに、金星がひとつ、瞬いていた。
ベッドの上でしばらく月を見ていたふたりだったが、
やがて玲央はそっと身体を起こし、静かに足を床に下ろした。
窓辺に置いたスーツケースを開けると、
荷物の奥に、小さな包みがあるのに気づく。
薄藤色の縮緬の帛紗。
見覚えのある、それは祖母・紗英が使っていたものだった。
そっと開くと、中から銀色の鍵がひとつ。
その表面に、淡く月光が反射する。
まるで、扉がもうすぐ開かれるのを待っているように。
「……祖母が入れてくれたんだ」
玲央の声に、シトロンが後ろから覗き込む。
「それ……玲那の部屋の鍵だな」
そのとき、部屋の空気がわずかに変わった。
月の香が、どこからともなくふたりを包み込む。
世界が眠るそのすこし前、ふたりだけに許された甘い静けさがあった。
.....to be continued...
誰かと並んで夜空を見上げること。
香り、光、記憶・・・そして、愛しいひとの髪に、触れてしまう瞬間。
次回は、玲那の部屋の扉が開かれ、
それぞれの“記憶”が、再び息を吹き返すとき・・・どうぞご期待ください。