プロローグ 未来から来た記憶
この物語には衝撃的な結末がある。最後まで読んでくれると嬉しいです。
風がやけにやさしかった。
誰もいない放課後の屋上で、青松は手すりに寄りかかったまま、空をぼんやりと眺めていた。校庭に響く部活の掛け声が、地面から遥か遠くで鳴っているように聞こえる。オレンジ色の空は少しずつ群青へと染まりつつあり、夕日がコンクリートの床に長い影を落としていた。
こんなふうに、何も考えずに空を見上げることが増えたのは、たぶん──いつからだったか、もうよく思い出せない。
ただ、この時間がくると、決まって心のどこかがざわつく。
静寂の中、突如、青松の胸の奥が締めつけられた。
耳の奥に、誰かの声が響いた。
──絶対、また会えるよ。だから、信じて。
その声は、あの向日葵の中でしゃがみ込んでいた少女のものだった。
青松の中で、風景が少しずつ明瞭になっていく。
炎天下の中、青松と少女は手をつないで立っていた。
小さな指と、誰かを守ろうとした強い眼差し。
年齢は、今より少し幼かったかもしれない。
でも、そこにあった気持ちは確かだった。誤魔化しではなく、飾りでもなく、本物の「信じる」という感情だった。
──嘘じゃない。
──本気だった。
──それなのに、今の僕は、そのすべてを忘れてしまっている。
青松は、ひまりという名を思い出した瞬間から、逆に“喪失”の重さを実感していた。
何を約束した? 何を交わした?
そして、なぜそれを、こんなにも完璧に忘れてしまっている?
「……あのとき、ちゃんと約束したのに……」
誰に向けるでもなくつぶやいたその声は、屋上の空気に吸い込まれていった。
思い出したい。でも思い出すほどに、胸が痛む。
まるで、過去をたどろうとすればするほど、未来が少しずつ崩れていくような感覚。
向日葵。約束。ひまり。
それはたしかに青松の中にあった。
けれど今、それは“名前しか残っていない”。
理由なんてない。悲しいことがあったわけじゃない。誰かに何か言われたわけでもない。けれど、確かに、何かを“失った”ような痛みが込み上げてくる。
――誰かが、泣いている。
音はしないはずなのに、その気配だけがやけに鮮明だった。耳ではなく、心の奥で響いてくるような、湿った声。
泣かないで、と言いたくなるような。けれど、言葉にならなかった。
そのとき、青松の視界の端に“見覚えのない映像”がふっと浮かんだ。
ひまわり。
無数のひまわりの花が、風にそよいでいる。
夏の空、白い雲、まぶしさと土の匂い。
──けれど、それは現実ではない。
そこには、今の青松が知っているはずのない景色があった。
そして、なにより奇妙だったのは──その風景の中に、たしかに“自分自身”が立っていたことだった。
目を閉じた。
それだけで、まるで映画のワンシーンのように、鮮やかな光景が頭に流れ込んできた。
強い日差し。どこまでも続く青い空。蝉の声。むせかえるような土の匂い。そして何よりも、まっすぐに太陽へ向かって咲いている、無数の向日葵。
その中に、ひとりの少女がしゃがみ込んでいた。
白いワンピースが風に揺れ、肩が小さく震えている。うつむいて顔は見えないが、泣いているのは明らかだった。
いや、違う。あれは泣いているというより……崩れている。感情の支えが壊れたような、そんな崩れ方だった。
青松は、その場面に“立っていた”。
まるで夢の中にいるような、不思議な感覚。
手のひらに汗がにじんでいる。心臓が喉の奥で鈍く跳ねる。
これはただの想像ではない。
どこかで、本当にあったことだ。
記憶だ。だが、それを思い出した瞬間、青松の頭に重い痛みが走った。
「……ひまり……」
ぽつりと、口から漏れた名前。
言った瞬間、自分でも驚いた。
“ひまり”? 誰だ、それは。
それなのに、その名前を口にしたとたん、向日葵畑の中の少女が顔を上げたような気がした。
見えない。なのに、知っている。
その目の色、泣き顔、そして──あのとき、交わした約束。
青松はその場に立ち尽くしながら、確信していた。
“彼女は、僕が忘れてはいけない人だ”。
思い出すたびに、頭の奥がじくじくと痛んだ。
単なる回想ではない。
まるで封印された記憶を無理やり開けようとしているかのような、鈍く刺すような痛み。
額に冷や汗がにじむ。
青松は手すりを握りしめ、顔をしかめた。
「おかしいな……」
それは普通の記憶の断片ではなかった。
感情の残り香だけがやたら鮮明で、事実は曖昧。
でも確かに、その記憶の中に自分は存在していた。ひまりという少女と、約束を交わしていた。
では、それは──過去の出来事なのか?
それとも──まだ来ていない、未来の出来事なのか?
そんな非現実的な疑問が浮かぶたびに、自分でもおかしく思える。
だが、内心では確信に近い“違和感”が芽生えていた。
これらの記憶は「昔の出来事」としてはあまりにも現実味がない。
なのに、その少女の泣き顔だけが、青松の胸にやけに深く刺さる。
……未来に起こったことを、今の自分が思い出している?
それが事実だとしたら、この奇妙な痛みも、失った感情も、すべてが説明できる。
でも、どうやって──?
屋上から見下ろす校舎の裏手。
視線の先に、小さな丘があった。
木々の向こう側に、季節外れの向日葵がわずかに咲いているのが見える。
風が吹いた。ひとつだけ、黄色い花がかすかに揺れた。
胸の中に、ぼそりとひとつの言葉が浮かんだ。
「……もうすぐ、会える気がする」
チャイムが鳴った。
校舎全体に鳴り響く、その音に青松は少しだけ肩を揺らした。
夕方を告げる鐘の音。けれどそれは、終わりの合図であると同時に、どこか始まりのようにも聞こえた。
屋上の風が、また吹いた。
どこからともなく、ひまわりの香りがしたような気がして──青松はほんの一瞬だけ目を閉じた。
瞼の裏に、あの少女がいる。
向日葵の中で泣いていた少女。
そして、自分が名を呼んだ“ひまり”という存在。
彼女が誰なのかも、なぜ忘れてしまったのかもわからない。
けれど、たったひとつだけ、確かな感覚があった。
──もう一度、会える。
今度こそ、約束を守れる気がする。
今度こそ、忘れずにいられる気がする。
「……あの子に、もう一度会える気がする」
小さな声でそうつぶやいた瞬間、風の中に微かに、誰かの返事のような声が混じった気がした。
──うん、きっと。
青松はゆっくりと屋上をあとにし、ドアを開けて階段へと足を踏み入れた。
世界は何も変わっていない。
でも、すでに始まっていた。
始まりはいつも、終わりからやってくる。
青松は青松