35.専属執事は悪役令嬢を観察する
アマリリス王国筆頭公爵家であるサブジーナス公爵家の長女ソフィア・サブジーナスの専属執事、ギル・ジョーンズ。彼の起床は早い。
「……」
いつもと同じ、ぴったり五時に目が覚めた。窓から見える景色は昨日と変わらない。
東の地平線は、熟した果実のような濃いオレンジ色から、淡い藤色、そして透き通るような薄縹へと鮮やかな階調を描いている。つい先ほどまで夜の残滓を留めていた紺青の天頂は、昇り始めた太陽に押し上げられるようにして、急速にその青を深めていった。
俺はいつもの執事服に着替えてから、一人部屋を出る。使用人に、広い一人部屋が与えられている家は珍しい。流石第二の王家と呼ばれるサブジーナス公爵家だ。だが、俺がソフィアの専属執事であることもあるだろう。
宿舎の外に出て、俺はいつもの場所へ行く。そして、10m先の木の枝に林檎を引っ掛ける。胸元からナイフを取り出してから目を閉じ、投げた。
目をつぶりながら林檎に向かって歩き、林檎を手に取った。正確に、林檎の芯を射抜いていた。それを何回も練習する。
次に、新しい構造の鍵を取り出す。旧型のものはもう開けられる。
スケルトンキーを差し込んでみる。その瞬間、内部で、カチリと異質な金属音が響いた。鍵が回らない。それどころか、内部の突起が複雑に噛み合い、無理に回せばピックが折れる手応えが指先に伝わってきた。俺はスケルトンキーを真っ直ぐ抜き出し、しまう。
開かなかった。職人が知恵を絞ったんだろうな。
次に、特製のL字型テンションツールを取り出した。まず、左手のテンションを鍵穴の奥へと差し込み、ごくわずかに回転の圧力をかける。右手には、先端を細く、かつ鋭利に研ぎ澄ませた鋼のピックを持つ。ピックの先が、内部に隠された一枚目の金属板に触れる。
さっきやてみた感じ、この錠前は単に障害物を避けるのではなく、三枚の板を、正確に一定の高さまで持ち上げなければ、ボルトは微動だにしないのだろう。
「……重いな」
指先に神経を集中させる。一枚目を押し上げ、二枚目へ。カチッと小さな振動が伝わる。だが、三枚目が動かない。テンションをかける力が強すぎると、板が摩擦で固定されてしまう。俺は吐息を吐き出し、わずかに左手の力を緩めた。
その瞬間だった。三枚目のレバーが、吸い込まれるように所定の溝へと滑り込んだ。
「――コトッ」
静寂を破る、俺にしかしにしか聞こえないような微かな快音だ。この瞬間は、やはり快感を覚える。
内部の金属板がすべて一直線に並び、ボルトを遮る障壁が消えた合図を聞き、俺はゆっくりと、慎重に左手のテンションを回した。
キィ……と、油の差されていない真鍮の機構が、観念したように回転を始める。
開いた。
俺はピックを抜き取り、音もなく立ち上がった。手の中の鋼は体温で温まっている。
「やっと終わった」
今回は時間がかかったが、一回攻略したから次にこの構造の鍵の鍵開けをする時はもう少し早くなるだろう。
短剣でも研ごうかと思った時、カサという微音が耳に入った。
勢いよく、音の元に走り出す。
侵入者が異変に気づいて腰の短剣に手をかけるよりも速く、鞘の中で臨界点まで高められた鯉口を切り、短剣で一閃する。
「――ッ!」
声にならない悲鳴を侵入者は上げた。侵入者の右腕、その正中神経が走る手首の裏を、カミソリのような刃が正確に撫で上げた。指先の力が失われ、男の持っていた短剣が芝生の上に音もなく転がちる。
斬撃の勢いを殺さず、俺は密着するほどの至近距離まで踏み込む。返り血を浴びぬよう、わずかに半身をずらしながら、空いた左手の二指を突き出した。
狙いは鎖骨の付け根。
そして、間髪入れず、脇下の急所を深々と突く。
東方の武術から取り入れたこの「点穴」は、神経の集束点を一時的に麻痺させる。侵入者の体は、糸の切れた人形のように硬直した。
崩れ落ちる標的の背後に、音もなく回り込む。
もはや剣は必要ない。
俺は短剣を鞘に納めると同時に、前腕を侵入者の喉元へ深々と食い込ませた。
頸動脈を左右から圧迫され、脳への血流が遮断される。侵入者は抵抗しようともがく指先も、先ほどの点穴によって力が入らない。
わずか三秒。
男を抱え、血の流れる傷口をナプキンで塞ぐ。それから、最低限の持ち物は持たせたまま所持品を取る。その中には、依頼者からの手紙が入っていることがある。しかし、流石に今回は違うだろ…
「あった」
嘘だろ。
俺は大きな溜息をつく。
第二の王家とも称えられる筆頭公爵家に関連した要件を、こんな素人のような暗殺者に依頼するだと??プロの中のプロしか無理だぞ。
依頼者の名を見た。
「旦那様に伝えないと」
また貴族だ。
手紙をしまってから、地面に付着した血を拭き取り、地面に酢を軽く撒く。周囲に人が居ないことを確認し、パパっと洗濯場のシーツを取ってくる。
シーツで遺体を包み込み、ロープで固定する。これにより、運搬中に血や体液が滴るのを防ぎ、外見上は洗濯物の束に見せかける。
組織で習ったことだ。
男と男の所持品を片手ずつで持ちながら走る。
辿り着いたのは、森だった。城の中に森があるとか未だに慣れない。
少しソワソワしながら、いつも通りの場所に行き、草木を何重にもどかした。そこには、蓋付きの井戸がある。
男の足首に、地面に落ちていた重い石を縄で縛り付ける。男をその中に落とす。いつも通りだ。
◇ ◇ ◇
『あの…ここは?』
城の中にある壮大な森に連れられ、俺は戸惑った。
目の前には蓋付きの井戸がある。どういう意味でこれを俺に見せたのか、と動揺していたが、旦那様は俺に言った。
『初代公爵作らせたものだ。ギル、君は使う時があるかもしれないだろう?ここの掃除は一ヶ月に一回くらいだ。深いから、中に入ったものはそう簡単に取れない。気をつけてね』
滑らかな笑みを浮かべ、それから一緒に居たルドルフと共に去った。
君は使う時があるかもしれないだろう……か。俺の前職、知っていたのか。いや、当たり前か?
「そのことを知っていて、置いておいてくれたのか……」
胸が温かくなった。
◇ ◇ ◇
井戸に蓋と草木を被せてから、血の付着したシーツと男の所持品を持って厨房の竈に向かう。その時。
「止まって、ギル」
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