誰にも見せない顔を見せて
ミニトマト、とうもろこし、うずら卵、アスパラガスにちくわ、たこ。
何から行こうか迷ってる感じに箸を彷徨わせれば、かすかな手の震えは誤魔化せるだろう。そんな計算を知ってか知らずか、ごうは「庵」子どもの頃から慣れ親しんだ愛称、ではない俺の名前をめずらしくちゃんと呼んで、「誤魔化さないで」とかたい声で言った。俺はちいさく息を吐いて、出汁に沈んだ大根よりも少し透明度の高い具材をつまむ。
「コレ何?」
「……冬瓜だけど。イオ、」
「とうがん……」
食べたことない素材は、ごうのうつわに入ったそれよりもちいさめに切られている。ニガテなものの多い俺が、もしダメでも食べやすいサイズ。それを箸で挟んで持ち上げぼんやりと見つめ、「ただのコンビニ友達だよ」と答えてみる。それは半分はホントで、半分は真っ赤なウソだった。俺の下腹部には、まだ昨夜挿れられたアイツ(男は東証一部の上場企業の経営者で、ごうが男の愛人を奪略した元恋敵で、俺の初めての男の相手で、既婚者だ。設定モリモリすぎじゃね)の熱い塊が入ってるような感覚がある。思い出すと同性の――、アイツと寝るまでは意識せずに生きてきた箇所からジクジクと何かが込み上げるような感覚があって、ごうが貸してくれたクッションの上、不自然じゃない程度に尻にかかる体重を移動させ、その感覚を紛らわせた。
冬瓜の向こう、ごうの眉間に皺が寄るのがわかる。俺はそれをどうにかしたくて、なるべくのんびりと、軽い口調で言う。
「家が近いの。ごうも知ってるでしょ?コンビニ行ったらたまに会って、どうでもいいこと喋って別れる。高校生みたいに」
「……何話してるの?」
「世界情勢、株価、次期参院選の行方」
「庵」
ひくい声に抵抗するみたいに、箸で持ち上げた冬瓜をパクッと口の中に入れた。味わったことのないおぼろげな食感で、口の中に汁がぶわっと広がる。…どっちかいうとニガテ寄りかも。大体予想がついてたのか、俺の皿に盛られたそれはごうのよりちいさいばかりか量も少ない。「――さんが、貰ってきてくれて」ごうが言い訳するように恋人の名前を呼んだ。馬鹿正直に言わなくていいのに。俺ばっかりウソをついているような気がして、完全に自業自得ながら収まりが悪い。
俺が何してようがごうには関係ないでしょ、そう言ってしまいたいけど、汁だけじゃない、いろんなものがこぼれそうでやめた。
ほろほろというかなんというか、不思議な食感を咀嚼し飲み込み、まだ俺をじっと見つめるふたつの瞳に少しだけ覚悟を決めて腹を割る。
「俺たちがやってるのは傷の…」
舐め合いじゃないな、と思った。そういうなんか、湿度の高い感じじゃなくて。
「暴き合い?抉り合い?まだ乾いてないかさぶたあえて剥がしてお互いうわ~ってなる、みたいな?そんな感じ」
「……イオに傷なんてあるの?」
ごうが素朴な声で言う。
俺はその言葉にしばらくポカンとしてしまう。それで少し笑う。奪略、という人生史上もっともらしくないことを達成した関係上、さすがにアイツの傷(まぁ既婚者が愛人取り上げられて何文句言ってんだって言われたらそれまでだけど)自覚してんだなぁ、とか、そりゃそのインパクトデカすぎだし俺の傷なんて見えやしないよなぁ、とか。
納得と安堵と少しの脱力で最初は小さかった笑いがどんどん膨れて、弾けて、止まらない。
「ははっ、は…ごめん、ちょい待って、くるし…」
目尻から溢れた涙を拭おうとして、手首が掴まる。いつの間にかごうは、テーブル越しじゃなくて俺の隣に膝を付いていた。
「何がおかしいの」
ごうの顔に影が刺す。対照的なカーテンの向こうの明るさに、ここに来るまでの日差しを思い出して、今追い出されたらこの暑い中帰るの憂鬱だな、と思った。おでんまだ全然食べてないし、もったいないな、とも。
「変だよ、イオ」
笑顔の要素が全くないごうの顔は、精巧すぎる彫刻みたいで弟の俺でもちょっとこわい。手首がジンと痛んで、「…痛いよ」小声で言うとすぐに「ごめん」と離された。すこし赤くなった手首を、撫でるように握る。ごうの熱がまだ微かに残っているのを、確かめるように。赤い痕が、ずっと消えないことを祈るみたいに。そして思う。
自分が変だなんて、自分がいちばんわかってる。
「あのさー、ごう」
ごうの瞳の中の俺は、ずっと軽薄に笑っている。臆病なピエロみたい、なんて卑下しすぎて逆に寒いな、却下。ずっとグルグル無駄に回転してる頭で、あんまり切実に響かないよう気をつけながら、言う。
「俺のこと、嫌いになってよ」
「……何言って、るの」
「そしたら今より色んなことが、もうちょいマシになると思うよ」
大切にしないで。想わないで、守ろうとしないで。ごうのまっすぐでどこまでも底の見えない優しさの中で、溺れそうな俺なんて放っておいて。幸せになってよ、勝手に、どこまでも、いつまでも、わらって。
もし神サマ的なものに願いは何かと聞かれたら、多分俺はこう答える。現状俺の神サマに最も近い存在はごうなので、婉曲的にごうにお願いすることにはなるけど。
「無理」
俺の一世一代の願いは、コンマ数秒でBB弾みたいなサイズに丸めてどっかに投げられた。返す言葉を考える前に、肩にごうの重みと熱を感じる。
「……何でそんなこと言うの」
駄々っ子みたいに、グリグリと額を押し付けてくぐもった声でごうが言う。「そんなこと…、死んでも無理だよ」死ぬとかカンタンに言っちゃダメだよ、どうにか返そうとした軽口は、言葉にならずに喉奥に冷たく沈んだ。
「……知ってるくせに」
きっと他の人が見たらかわいい、と思うだろう、甘えるような動作と言葉に込められた感情に、俺は震えた。
あのごうが、めちゃくちゃ怒ってる。
さっき俺が笑って手首を掴まれた、その時の非じゃないくらいに、腹の底からごうは怒っていた。すぐそばにある、痛いくらいの怒りがビリビリと伝わってきて、俺は皮膚が粟立つのを感じながら自分の失言を実感する。
「ごめ……ごう」
「無理。ゆるさない」
ごうが俺を抱き締める。長い腕が強い力で巻き付いて、胸が圧迫されて苦しい。その熱に泣きたいような気持ちになる。でも一方で、本当に最低でイヤになるけど、俺は悦んでいた。
感じたことのない、身震いするような怒りの波動。今は見えないその目はきっと冷たく、熱く、抑えきれない衝動を湛えて俺を射抜くだろう。
考えただけで口の中がカラカラに乾く。
ああ俺って、やっぱり。
『いい性格してるな』
男に言われた嫌味が頭をよぎる。大きな会社を動かす男は流石に人を見る目があるな、と思う。だって誰よりも大切な、心の優しい太陽みたいな兄をこんなふうに追い詰めて、思うことが――。
(こんなごう、きっと俺しか見たことない)
(俺にしかしないし、俺しか知らない。多分、一生)
(ごめん、今だけ)
震える手で、熱を持った広い背中を撫でる。どこにもぶつけられなくてごうを苦しめるその怒りを治めてあげたいのか、どこにもやらないでほしいのか、わからないまま、何度も、ゆっくり、撫でる。
凍らせた出汁が溶けたのか、テーブルの上のうつわから、カラン、と涼しげな音がする。
それが合図みたいに腕の力を緩め茫然とした様子で顔を上げるごうに「ごめん、おれ冬瓜ニガテかも」囁くように言ってみる。