Not a Fairly Tale
ひとつ上の兄、ごうに好きな人ができた。6歳上の、訳アリ男。
ごうの隣に立つ人間を、今まで少なくはない数見てきたけど、ああもう俺のごうじゃないんだな、なんて思ったのはこれが初めてで。
ちょっと遅すぎるかもしれない兄バナレ、を俺は今実行中。
「来週、久しぶりにデートなんだ」
つらいカタオモイが叶い、いくつか季節が過ぎても相変わらずごうは浮かれていた。別チームで活躍するコイビトが遠征でいない夜。久しぶりに飯でも食わない?と誘われてモデル仲間との約束を華麗にドタキャンした俺は、その女子高生みたいな夢見るまなざしに苦笑する。
「デート、ねぇ。浮かれて撮られないようにね」
「ばっちり。変装上手くなったんだよ、俺」
「へー、ごうが変装」
向かいに座るごうはグラサンも帽子もつけてない。俺の疑うような声を受けて、ごうは得意げな目を細めた。
「――さんと出かけるときだけだけど」
子どもの頃家族でよく来た洋食屋。かかってる音楽も、店の暖色系の明るさも、窓から見える景色も、ほとんど変わらないように見えるのに窓に映る俺達だけがデカくなっていて、なんかお伽噺みたいだな、と思う。洋食屋に閉じ込められて二人きりで成長するキョーダイ、とか?兄だけが最近外に出られるようになって、外の世界のすばらしさを弟に語る。なんて。趣味が悪いなその話。
ぐるぐる回り始めた思考を冷たい水を流し込むことでシャットアウトして、ビーフシチューのじゃがいもを口いっぱい頬張るごうに紙ナフキンを渡しながら、湯気の立っているグラタンを銀のスプーンですくう。
「あんまり進んでないね。おなかすいてない?」
夢見る女子高生から“お兄ちゃん”の目になって、ごうが言う。
「冷めるの待ってんの」
「イオは猫舌だからなぁ」
ごうのビーフシチューは皿の白が見え始めている。「食べる?」とスプーンを向けてくるのをやんわりと断って、湯気に向かって息を吹きかける。
その後もイマイチ食欲がなくて、ごうと別れてから乗ったタクシーの中で走った悪寒に嫌な予感がした。あ、これやっちゃってるかもしんない。スマホを取り出し、明日以降のスケジュールを確認する。雑誌のカバー撮影、写真集の打ち合わせ、取材、撮影、撮影、撮影。
「ジーザス…」
分かっていたけど休みはほとんどない。
けど、三日頑張ればどうにか、午前に打ち合わせだけの日があった。とにかく帰ったら葛根湯飲んでとっとと寝て、この日を目指して乗り切るしかない。帰り際、「さっきから思ってたけど…ちょっと薄着過ぎない?」とごうが巻いてくれたマフラーを鼻辺りまで引き上げる。あったかくて、ごうの香水の匂いが微かに香る。その香りは子どもの頃のごうと全然違うはずなのに、何故か懐かしい。そういえば、俺が目指す午後休みの日は、ごうの久しぶりのデート♡の日だな。ぼんやり思いながら目を閉じると、いつの間にか眠っていた。
根性論なんて大嫌いだし自分にそれがあるなんて到底思わないけど、そこから数日を乗り切れたのは多分、「根性」というやつのおかげだと思う。本意ではないけど。
「お疲れさまでした」
とりあえずここを乗り切れば中休み、という今日。
出版社の会議室を出た瞬間、ガク、と膝が折れて壁に手をついた。
「イオさん?!大丈夫ですか」
「あー大丈夫大丈夫。ごめん、帰りにドラッグストア寄ってスポドリとゼリーと冷えピタ買ってくれる?んでそのまま家で」
「熱、あるんじゃないですかコレ…」
「計ってないから分かんない。解熱剤も買った方がいいかな…まぁ半日寝りゃ下がるでしょ。あ、一応簡易検査はしてるから安心して。ただの風邪だと思う」
「言ってくれたら…」
「ごめーん。ほらもう歩けるし、早く帰ろ」
マンションの前に着いてもまだ「心配」と顔に書いてある事務所のスタッフに大丈夫、と言い切り手を振って送迎車を出る。若い子でよかった。チーフマネだったら絶対怒られてたわ。出張中でよかった…。あとで口留めしとかないと…ぼんやり考えながらエレベーターに向かうも、買ったものの袋が重い。やっぱ上まで持ってってもらえばよかったかな、と思いながらエレベーターに乗ってどうにか鍵を開け玄関まで辿りついたら、安心してまた膝から崩れ落ちた。
「いって…さい、あく……」
とっさに顔は庇ったけど、膝頭をしこたま打って涙が滲む。そのまま這うようにしてベッドに向かい、スポドリで解熱剤を流し込んだら頭まで布団をかぶって何も考えずに眠った。
どれくらい眠っただろう。喉が渇いて、意識が浮上する。
ベッドの脇に置いたスマホが振動していることに気付いて、のろのろと手を伸ばす。「ごう」画面に表示された文字に、少し迷って通話ボタンを押す。
「デート中に電話なんかしていーの?」
「まだ家だよ。今支度中」
いつもよく喋るごうは、それ以上何も言わない。
喉は、引きつるように痛いけどたぶん声はいつも通りだと思う。小さく咳払いして、「用ないなら忙しいから切るよ~デート楽しんで」と言って切ろうとしたとき、ごうが静かな声で言った。
「…寝てた?」
「……忙しいって言ったじゃん」
「何か寝起きの声じゃない?」
くそ。
出かけた汚い言葉を呑み込んで、言葉を探す。ごうは呑気なようでときどき妙に鋭いところを発揮する奴だけど、何も今じゃなくてもいいだろ、と文句の一つでも言いたくなる。
「今日は午後からキチョーなオフで、俺は休養に忙しいの。早くオシャレして行きなよ。カレシ、待ってるんじゃない?」
「……まぁ」
「こないだのライダース、似合ってたけど今日はちょっと寒いと思うよ?じゃねー」
「はぁ……」
どうにか言い切って電話を切って、シーツに沈む。寒い。熱い。何にも食べてないせいか、腹が気持ち悪い。でも食欲ない。床に置いたゼリーも冷えピタも取る気力がない。結局そのままスマホを握り締めて、また意識が落ちた。
*
熱に浮かされた脳内は、過去の記憶とも夢ともつかない映像をながす。
今より幼いごうが、必死な顔をして俺のおでこに触れている。
そういや子どもの頃はよく熱出したな。大人になって妙に丈夫になったけど。
忙しかった母親がすぐに帰ってこれないこともちょくちょくあって、そのたびにごうは泣きそうな顔を必死で隠して俺を看病してくれた。
こわかっただろうな。逆の立場なら絶対ムリだもん。“おれはおにーちゃんだから”ごうはよく言ったけど、アレは自分に言い聞かせてた部分もあったんだろうな。
幼いごうが、スプーンですくった何かを俺の口に運ぶ。
それは白くて、ふわふわしていて、甘い匂いがする。
『これ食べたら、すぐにげんきになるからね』
励ますような、祈るような、言い聞かせるような言葉が、頭の奥で聴こえる。
*
かすかに甘い匂いがする。
顔に触れる空気があたたかい。
夢と現実の境目で、自分を呼ぶ声が聴こえた気がして、俺はそっと目を開ける。
「…起きた?」
それは俺を呼んだ声と同じ声で、夢の中よりずっと低い、今のごうの声だ。
「食欲ある?おかゆ作ったけど、食べられる?」
あ、ちょっと熱下がったかも。と俺の額に手を当てて、暗がりの中でごうは少しホッとしたように笑う。
「………は?」
「おはよ。寒い?冷えピタ替えようか」
「何でいるの?」
ちょっと電気つけるよ、言いながらごうがベッドサイドの照明をつける。少し明るくなった世界で、こまごまと動くのは確かにお兄ちゃんモードのごうだ。着の身着のまま眠っていたはずの俺はいつの間にかパジャマに着替えさせられ、膝には湿布まで貼られていて眩暈がする。
「デートは?」
「デートしてる場合じゃないでしょ。体調悪いならちゃんと言ってよね」
「ドタキャンしたの?別に大丈夫だって」
「ちょっと冷たいよ~…………38℃。あのねぇ、俺が来た時もっとあったからね?40℃近い熱出して大丈夫なワケないでしょ」
ごうは体温計片手に俺を睨む。
「先週ごはん食べたときイヤな予感したんだけど…俺もあの後ドタバタしてて…あーでもほんと電話してよかった…」
独り言みたいに喋るごうの声に、苛立ちはまったく含まれてなくて。額に触れる大きな手は、すこし冷たくて気持ちいい。
別に来なくてもよかったのに。
もう俺も大人なんだから。
今からでもデート行ってきたら。
そのどれも、確かに俺の本音なのに、どうしても喉から上に上がってきてくれなくて。
熱のせいか妙に視界もぼやけるし、そんな俺を、めちゃくちゃ優しい目でごうが見てるのだけは分かってしまうし、イヤんなる。
「……おかゆ、たべる」
いつも通りだ、と自信のあった声は、発してみるとずいぶん掠れていた。
「うん、持ってくるね」
立ち上がったごうのセーターの裾を掴む。ん?見下ろすごうの視線はやわらかい。俺は出しかけた言葉を呑み込んで、「あんま熱くしないでね…」と呟いた。「ふ…りょーかい」
ごうの作ったミルクがゆには、ちぎった食パンが入っている。
子どもの頃、ドロドロのごはんが食べれなかった俺に、ごうが思い付きで作ってくれた。あたたかいミルクとはちみつの甘さが妙に沁みて、俺は無言でそれを食べた。
「おいし?」
「……鼻詰まって味覚ない」
可愛くない返事にも、早く良くなってね、と笑うごうはカンペキな“お兄ちゃん”だ。6歳上の男に恋焦がれ、女子高生みたいに浮かれていた顔は、今はどこにも見当たらない。
ああもう俺のごうじゃないんだな、ってちゃんと毎回実感していたいのに。そうじゃないと、そうじゃないとさ。俺、はーー。
「もう大丈夫だから帰りなよ」
なるべく何でもないように言えた言葉に、ごうはベッドに腰掛けて「うーん」と気のない返事を返す。その目の中に映る俺は、たぶんあの頃からほとんど変わっていない。丈夫になって、一人で暮らして、仕事して、そこそこ有名になっても。ごうの中で俺は、いつまでも“守るべき弟”だ。そのことに途方もない安堵と、じれったさを感じていることなんて、多分ごうは知らない。知ってほしいとも、思わないけど。
兄バナレ、いつになったらできるかな。
俺はそのやさしい笑顔を少しうらめしく思いながら、最後のひとくちをゆっくりと飲み込んだ。[newpage]
「あの人と、どういう関係なの」
透き通った出汁の、見るからに味のよく染みた冷やしおでんを前に、俺は出汁と負けず劣らず透き通った、ふたつの瞳から真意をさぐる。
空調はちょうどよく効いていて、部屋にはふたりだけだった。コイビトの留守にお邪魔して兄の手料理を食べる弟。何の違和感もない。大丈夫大丈夫とあえてゆっくりグラスのルイボスティーをストローで啜って、「なに、藪から棒に」と言ってみる。「藪から棒って初めて言ったわ」溢れた笑みに不自然さはなかった筈なのに、ごうは少しも笑わない。