ハーピーとかなしい化け物
明日も私用により、大幅に時間遅れますm(_ _"m)
「子持ちのババアには価値がないんだってよ、あの男!!」
帰宅した途端、ヒステリックな金切り声を上げる母親が、父親の綺麗に掃除したリビングを荒らした。
花ごと花瓶を床に叩きつけてフローリングをへこませ、テーブルに置いてあったコップを壁に投げる。
パサついた長髪をガシャガシャとかき乱して椅子を蹴飛ばした。
「だから私は嫌だったんだ! 子供なんて足枷にしかならない。子どもなんか生んだせいで容姿は衰えちまったし体力だって無くなっちまった! 屑に吸い取られちまった! おまけにキメェブス男にまで罵られて……! だから私は生みたくないって言ったんだ。クソガキなんて生みたくないって言ったんだ!」
ギャァギャァと叫んでは家の中を荒らす。
ビキビキと血管の浮き出た狂気的な瞳に大きく開いた口から飛ぶ唾液。
母親が興奮しすぎているのか、あるいはスイの心が彼女の声を聞くべきでないと判断したのか、段々に言葉が聞きとれなくなった。
そうすると、言語不明の言葉が怪鳥の叫びに聞こえてくる。
理屈で動くことを放棄し、感情をむき出しにして暴れる恐ろしい化け物。
それが、スイにとっての母親だった。
スイは自分をかばう父親にギュッと抱きしめられながら、彼の背中越しにハーピーを眺めていた。
「スイ、ごめんな」
暴れ疲れた母親が眠った後、目を潤ませた父親が震え声で呟くように言った。
「スイ、あのな、俺、どうしても子供が欲しかったんだ。俺が、母さんに頼んでお前を産んでもらったんだ。母さんな、さっきは凄く酷いことをお前に言ったけど、でもな、スイがお腹に入っている時、大切にお腹を撫でることだってあったんだぞ。スイは、ここにいていいんだからな。生まれてきてよかったんだからな」
父親がブルブルと揺れる手のひらで何度もスイの背中を撫で、縋りつくようにして抱き着いている。
スイは父親が可哀想になって、
「おとうさん、だいじょうぶ? ないてるの、どこかいたいした? おかあさんのなげたの、あたった?」
と、心配そうに問いかけながら、自らの腹に押し付けられる彼の頭を小さな手で何度も撫でた。
この時、スイは三、四歳くらいの子供だ。
子供というものは大人が思っている以上に彼らの話を聞いているし、理解もしている。
スイは少なくとも自分が母親から望まれていないことと、一歩間違えば殺されるかもしれないほどの激情にさらされていることを知っていた。
だからこそ母親が暴れていた時には酷い不安感を覚えて泣きじゃくったし、父親に抱きしめられた時には安心を覚えた。
父親に認めてもらえることや守ってもらえることが嬉しくて、彼も母親に苛められている被害者なんだと思っていた。
スイはヒーローのように強くはないが自分を守ってくれる父親が大好きで、自分だけでも彼を大切にしてあげようと思った。
その関係性にひずみが生じたのは、母親が死に、父親が精神的におかしくなってしまった時だ。
母親の葬儀直後、塞ぎ込んでいた父親はいつからか浴びるように酒を飲むようになって、気がつけば自暴自棄に暴れるようになっていた。
「父さんのことは俺が見てる。カイとケイは部屋に行ってろ」
この言葉が、スイの口癖になった。
弟たちを子ども部屋という安全地帯に逃がし、父親の愚痴や涙を黙って受け止めるのがスイの日課だった。
スイは出来るだけ弟たちに呪詛を聞かせず、自分一人で父親を抑え込み続けた。
十歳程度の子供には酷く苦しい仕事だったが、優しかった頃の父親の姿を覚えているスイは壊れてしまった彼が可哀想で、逃げる事なく役割を果たし続けた。
優しくなくなっても、スイは父親が大好き大切だった。
しかし、ある日とうとう、父親が幼いケイに手をあげようと握った拳を振りかざした。
殴られそうになるケイを見て、スイの頭にカッと血が上った。
「やめろ!」
スイは初めて出したのに等しい震えた怒鳴り声をあげると、父親の頬を殴った。
右の拳で一度、父親を殴った。
その瞬間、スイの内側で長年溜まっていたストレスが少しだけ霧になって飛び散ったような錯覚を覚えて、快楽を覚えた。
まだ、起き上がってケイを殴ろうとするようだったら何発でも殴ってやろうと思って、蠢く父親を睨みつけた。
だが、父親はスイの予想に反して丸くうずくまったまま固まると、やがて小さく震え出した。
父親は泣いていた。
「カイ、ケイを連れて部屋に行ってろ」
「分かった。でも、兄ちゃん、もう、父さんのこと……」
「分かってる。大丈夫だから、部屋に行ってろ」
泣きじゃくるケイをカイに預けて、スイは父親の元へ向かった。
跪いて、耳を父親の顔に近づける。
父親は子どものような瞳を潤ませて、うわごとのように「ごめんなさい」と繰り返していた。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。
生まれてきて、ごめんなさい。
もう、殴らないでください。
幼い声で、必死に懇願していた。
酒の飲み過ぎと殴られたパニックで、父親の脳は一時的に子供の頃のものに戻っていた。
スイが右手を上げると、反射的に父親が体をすくめる。
頭をかばい、体に受ける衝撃を少しでも和らげようと必死になった。
スイは、かける言葉が見つからなくて唇を横に結ぶと、静かに父親の頭を撫でた。
撫でられた父親の目が丸く、大きくなる。
柔らかく細められる瞳から涙がこぼれ落ちる。
「———」
嗚咽を漏らす父親の唇が、今は亡き彼の妻の名を呼んだ。
『そうか、俺と母さんは、似てるから』
いつか父親が、
「スイは母さん似だな。母さんは昔、すごく優しかったんだ。スイは、その頃の母さんに似てる」
と、自分に微笑みかけてきたのを思い出す。
下品で汚らしい怪鳥のような母親に似ていると言われるのは内心複雑だったが、父親が嬉しそうだったから否定できずにいた言葉。
スイは、父親が自分と母親を混同しているのだとすぐに理解できた。
そして、だからこそ、あえて訂正はせずに黙って父親を抱き締めた。
泣きじゃくる父親が言葉にならない音を漏らして喚き、抱き着く力を強める。
背中を撫でてやると酷く泣きじゃくり、やがて疲れて眠りに落ちた。
スヤスヤと寝息を立てる父親は相変わらず小さな子供のようだった。
『痛い』
父親を殴った右手の拳がピリピリとヒリつく。
薄い頬肉や皮膚越しに骨と骨がぶつかった感覚が、まだ残っている。
快楽を覚えたはずの心臓には失われたストレス分の穴がポカリと空いて、そこに汚らしいよどみが溜まった。
赤くなる頬に流れた血液がこびりついて小汚くなっている唇、涙の痕が残る頬に申し訳なさが募った。
父親のことを大切にしてやろうと思い直して、スイは二度と彼を殴らないと心に誓った。
だが、数日後、カイやケイに手を挙げようとする父親を見て、結局スイは彼を殴った。
父親が死ぬその日までの数年間、スイは合計で何回、彼に手を上げたのだろうか。
スイは殴るのと慰めるのを繰り返す自分を見て、まるでDV彼氏みたいだと思った。
確かに自分には母親の血が通っていると思った。
自分のような人間では、きっと恋人を大切にも幸せにもしてやれないと思ったから、スイはほんの少しだけ憧れていた温かい家庭の存在を完全に諦めた。
そして代わりに、いつか父親と心中することを決めた。
父親を殴り続けた黒っぽい血液の染みつく汚い右手を抱えたまま静かで慎ましい人生を送って、そしていつか、寂しいままに死んでやろうと思った。
方法は老衰でも、病死でも、事故死でも、何でも構わない。
幸せになるのは弟たちに託して、自分だけは父親の理解者であるまま冷たく死を迎えようと決めていた。
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