初恋
終業時間から約三時間後。
残業で残っている社員もほとんどが帰り始める時間だ。
カイは執務室で自分の仕事を仕上げてしまうと、ソワソワとしながらコーヒーを二杯、いれ始めた。
一つは自分の分であり、もう一つはアメリアの分である。
カイはテーブルの上に湯気の立つマグカップを二つ乗せると、今度はポケットの中をカチャカチャと弄りながらソファに腰かけた。
アメリアを待つこと十数分後、ドアが数回、控えめにノックされる。
期待を胸に扉を開いてみれば外にいたのは案の定アメリアで、彼女はカイの姿を見るなり丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません、カイ様。業務を行っていたら予想以上に時間が遅くなってしまいました」
「いや、大丈夫だよ。俺も少し前まで仕事をしていたから。それより、良かったら入ってよ。帰る前にコーヒーでも飲んで行こう」
「かしこまりました。それでは、ついでに明日の打ち合わせも行いましょうか」
コクリと頷いたアメリアが執務室に入り、ソファに腰を掛ける。
普段通り、アメリアの席はカイのすぐ隣だ。
アメリアはカバンから手帳を取り出すと中身をみせながら手短にスケジュールを告げた。
「連絡と報告は以上になりますが、カイ様の方から質問などはございますか?」
淡々とした様子で問いかけるアメリアにカイは軽く首を横に振る。
「いや、大丈夫だよ」
ニコリと笑うと、アメリアも小さく頷いて返す。
カイは休憩時間前や就業前にアメリアと仕事をしていると、どうしてもソワソワとしてしまう。
『この素早く仕事を終えて、そのまますぐに帰ろうとしちゃう感じ、前は凄く楽だったんだけどな。でも、今は逆に少しやりにくい。引き止めないと帰っちゃいそうな気がして』
それでは失礼しますと立ち上がり、自分を置いて帰ってしまうアメリアの姿が鮮明に想像できる。
それが、どうにも寂しくて不安を掻き立てた。
頭の中身と表情がシンクロしてしまい、カイの表情が微妙に曇る。
チラリとカイの顔を盗み見たアメリアがそのことに気がついたのかは定かではないが、彼女は手帳をしまうついでに鞄を漁ると中から袋詰めされたクッキーを取り出した。
「アメリアさん、これは?」
手のひらの上にポンと乗せられたクッキーを見て、カイが首を傾げる。
「見ての通りクッキーですよ。美味しそうなので購入したのですが、結局、食べずじまいだったのでカイ様に差し上げようかと。それと、カイ様。業務も終わりましたし、呼び名を戻してくださって大丈夫ですよ」
「あ! それもそうか。ありがとう、アメリアちゃん。それと、クッキーは大切に食べるね」
アメリアに声をかけられたカイがハッとした表情になった後、嬉しそうにお礼を言う。
「いえ、どういたしまして。呼び名に関してはカイ様、戻し忘れが多いですからね。以前、興味半分で放っておいたら私が自宅に着くまで『アメリアさん』と呼んでいたこともありますし」
「仕事の雰囲気を引きずっちゃうからさ、たまに切り替えが分からなくなっちゃう時があるんだよ。だってアメリアさん、休憩時間とか今みたいに終業してからも仕事の話をする時があるし」
冗談半分にカイが怒ったふりをすれば、今度はアメリアがハッとした表情になる。
「それは失礼いたしました。つい……今後は、そう言った時間であれば仕事の話をしていても『アメリアちゃん』で構いませんよ」
「そうなの? でも、そうするとカップルで仕事をしているみたいで照れちゃうかも……なんて……ハハ」
最初は初心な様子で照れたりするアメリアの反応を期待して冗談を溢したカイだが、彼女が無表情なままでいるのを確認すると元気を失っていった。
最終的にカイはしょぼんと目をそらして、
「ごめんね、冗談にしても流石に気持ちが悪かったかも」
と、気まずそうに苦笑いを浮かべた。
すると、アメリアが「失礼します」とだけ声をかけ、唐突にケイの手を取った。
そして、そのまま自身の頬にカイの手のひらを当てる。
アメリアの肌はきめ細やかで非常に触り心地が良い。
片思い中の異性に触れられて、カイは体中の血液がポコポコと沸騰するような感覚を覚えた。
「カイ様、私の体温はかなり高くなっているはぜなのですが、感じ取れますか?」
非常に冷静にアメリアが問う。
確かに、アメリアが申告した通り、彼女の体温はかなり上がっているのかもしれない。
だが、アメリアの手のひらと頬で挟まれたカイの手も羞恥と照れで相当に熱くなっており、互いの境界線が分からなくなるほど二人の体温は近づいていた。
「た、多分、アメリアさんも熱くなっているんだろうけど、俺も熱いからよく分かんない」
緊張して少し声が震え、体からじんわりと汗が吹き出し始める。
カイが正直な感想を述べれば、アメリアは「そうですか」と寂しそうに返事を溢した。
「私は表情も態度も分かりにくいので、怒っていないというのと、その、カイ様の言葉に照れてしまったのだということを伝えたかったのですが」
しょぼんとあからさまに落ち込んでいるわけではないのだが、それでも少しアメリアの目線が下に下がっている。
「い、いや、今の言葉で伝わったよ。ありがとうね。あ、あのさ、その、唐突で悪いんだけどさ、アメリアさんって普段からアクセサリーとかって身に着ける?」
目元を赤くし、どこか焦ったままの様子のカイが膨らんだポケットの上に手を当てて問いかける。
すると、アメリアはキョトンとした様子で首を傾げた。
「本当に唐突ですね。アクセサリーはあまり使ったことがないです」
「そっか。それならさ、好きな色とかってある?」
「青や緑が好きですね。寒色系の色が好きです」
「そ、そっか。なるほどね」
少し弾んだような、上ずった声にキョロキョロと落ち着かないケイの視線。
何がどう怪しいのか、明確に言葉にはできないアメリアだったが、それでもカイの様子に不信感を抱くと訝しげな表情になった。
だが、カイはアメリアの視線に気がつくと「何でもないよ」と苦笑いを浮かべた。
『チョイス、間違えちゃったな』
先程からずっと気にしているポケットの内側には、先週、町で購入したアメリア宛てのプレゼントが入っている。
綺麗な包装紙に包み込まれているプレゼントは赤い石がはめ込まれたシンプルで可愛らしいヘアピンであり、上品な輝きを放つ一品だ。
仕事中でも美しく頭髪を飾ることのできるヘアピンは邪魔な横髪や前髪なんかも綺麗に押さえられるよう、機能的なデザインをしているため実用性も高い。
『我ながら素敵なプレゼントだと思うんだけど』
カイが今まで恋愛してきた女の子たちは、よく言えば甘えん坊、悪く言えばタカリ気質があった。
着飾ることが好きで基本的にカイと会う前には、「欲しい物」を頭の中に入れておく。
そして、程よくタイミングが訪れたら服やアクセサリーを指差して、
「アレが欲しくて、最近お金を貯めているんだ」
などと言い、器用にプレゼントを強請っていく。
カイはそれなりに貯金を持っていたし、甘えられたり求められたりすることも好きだったため、彼女には事あるごとにプレゼントを贈っていた。
今までの恋人が全員、物を強請るタイプだったため、カイはプレゼントによるやり取りが恋人や恋人未満の異性に対するアプローチの方法だと思っている節さえある。
そのため、カイはアメリアに彼女の好みそうなものをプレゼントして好意を伝えようと思ったのだが、それにも何だか失敗してしまったような気がしてプレゼントを渡せないままマゴマゴとしていた。
『渡したいけど、渡せない。やっぱり、頼まれても無いのに買っちゃったが良くなかったのかな? ただでさえ、アメリアさんが恋人でもない俺からのプレゼントをどう受け取るのかもよく分からないのに、イマイチ趣味じゃないの選んじゃったな。でも……』
チラリとコーヒーを啜るアメリアの横顔を見つめる。
そして、彼女の真っ黒な髪にルビーのような真っ赤なストーンがキラキラと控えめに輝いているのを妄想し、心臓に湧きあがる甘さに浸った。
『やっぱり、アメリアさんは赤が似合うと思うんだよな。俺、赤が好きだし。それに、アメリアさんにヘアピンをつけてもらえたら、何となくアメリアさんを手に入れた気分になれそう。いや、流石に重いか。気色悪いか。俺がこんな風に考えてるって知ったら、プレゼントなんか願い下げだよな』
カイにしては珍しく深刻にため息を吐き、甘くしたカフェオレをすする。
現状、甘味だけがカイの心の癒しである。
『アメリアさんさ、俺のことどう思ってるんだろう。正直、分かりにくいんだよな』
アメリアとはほとんど毎日のように一緒に昼食をとっているし、帰宅もしている。
稀にアメリアから誘われ、彼女の家で夕食を食べることもあった。
他にも日常的にアメリアは何かとカイを気にかけて細かく面倒を見ている。
アメリアを秘書としている立場上、その気になれば簡単に彼女の社内での人間関係を知ることができるのだが、そうして軽く調べてみた中に彼女がカイ以上に世話を焼く人間というのも見つけられない。
おそらく、アメリアにとって最も親しい人物はカイだろう。
こうして考えていくとアメリアはカイに気がありそうなのだが、肝心の彼は、
「もしかして、俺のこと好き?」
といった旨の言葉を遠回しに投げかけても、彼女に、
「私がカイ様を構うのは貴方が私の上司で、貴方の仕事内容が大きく業績に関わることになるからですよ。だからこそ、貴方の精神面や健康面に気を遣って差し上げているのです。自惚れないでください」
とバッサリ切られてしまうような気がして、積極的なアプローチや声掛けができていなかった。
告白など夢のまた夢である。
今までのカイの恋愛は、まず初めに相手に惚れられていることが前提だった。
相手から明確な好意を向けられ、アプローチされることで初めて相手を視界に入れる。
そうして関わり合う内に少しずつ相手へ好意を持つようになっていき、最終的には、ただ利用されるだけ状態に陥って捨てられる。
そんな恋愛ばかりしていたカイにとって、アメリアとの恋愛は未知だらけだ。
『ケイには偉そうなこと言っておいて、俺はアメリアちゃんにまともにアプローチできてないの、マジで情けねーな』
カイは自嘲気味に笑うとカフェオレを一気に飲み干してアメリアと少し談笑し、やがて彼女を家まで送っていった。
渡したかったプレゼントはアメリアと別れた後もカイのポケットの中にいた。
明日の投稿分はケイたちの話
アメリア都会のお話はもう少し後に本格化します
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