あのひと
「さよなら」
当たり前に返事はなかった。
二度と会うことのないその顔に背を向けて、ぱたり、と戸を閉める。
長い間、一緒に過ごしてきたと思う。
誰よりもあなたのそばにいたと思う。
だからこそ、わかっていた。
「もう、諦めてるから」
乾いた笑顔で何度そう言ってきただろう。
いろいろ言ってくる周りに対して、だけど何よりも、自分に言い聞かせるために。
今日の今日まで、本当に最後の最後まで、あなたの心にはあのひとがいた。
私を大切にしてくれた、あなた。
だけど私ではどうにも、どうしても届かない場所に、あのひとがいる。
広くはない、だけど心の中のいちばんいちばん、あったかくて大切な場所に。
「……っ、」
ぐしゃりと前髪ごと涙を潰して俯いた。
悔しい、悲しい、寂しい、辛い、どうして?、だけどどうしようもなく大好きで離れられなくて、ずっとずっとそばにいた。いさせてもらった。
それほどに私は、あなたが大好きだったんだ。
だからわかるよ。
いやでもわかるんだ。
溢れてくる涙もそのままに、空を仰ぐ。
大好きな人がいるという幸せ。
どうしようもなく心の中をその人が占めてしまう嬉しさと切なさ。
あなたもそれを、知っていたんだ。
大好きなあなたにそんな人がいることが、あなたも同じ気持ちを知っているんだという共感が、この期に及んで私を喜ばせる。
「ばかみたい、」
震える喉も、到底美しくない嗚咽も全部思い切り吐き出しながら前を向く。
そんな綱渡りのような感情の中、私は今日までここにいたのだ。
歪みながら、なぜだか少し、口角が上がっていく。
別れの後なのに、泣き笑ってぐちゃぐちゃな私の顔は、一体どんなふうに見えるのか。
わからないけど、いっそ気持ちが良かった。こんなにもぐちゃぐちゃで、こんなにも渦巻いて、こんなにも醜い感情をそのまま貼り付けたような顔、きっと頭のおかしな奴に見えるに違いない。
ざまぁみろ、
何に対してなのか、誰に対してなのかもわからない。
口元だけでその言葉を空気に乗せて、その場でただ、蹲った。




