表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

02:この計器は壊れていないか?

 目が覚めるのは意外にも早かった。というのが最初の感想だった。普通の寝起きのような感覚で目を覚ますことができたことに意外性を感じる。とはいえ、視界が健全ではない。ビネットがかかったように、視界が狭い。時計を確認して、どれくらい時間がたったのかを確認する。10分、いや、数日は経っているのだろうか?時計に表示された時刻は、何日のその時刻なのかが分からない。狭い視界の中で、日付表示を探す。数字は見つけられなかった。代わりに三文字、NaNと表示されているのを見て、少し笑った。Not a Number.

「バグ……ふふっ」

 時計という基本的な機能にバグが生じている姿をみて、つい笑みがこぼれる。期待はできないが、年数表示を確認する。やはりこれも、正しく表示されていない。今がいつなのか、あれから何時間経ったのかが把握できないことに不安が残る。

 緊急離脱機能は、機体が自己制御によって帰還目標へ向かえなくなる、かつ、救出が非常に困難な領域に至ってしまった場合の最終手段である。この状態になった場合、超長期にわたり、回収が不可能になることが想定されるためだ。実際にこの機能が使用された唯一の例(機体が実用に入った数か月後に発生した事故。原因は50年経っても不明のままだった)では、機体時間にして30年間の休眠処理が行われたそうだ。

 休眠状態の解除は、本来ならば救出された後、適切な機材を用いて、適切に行われるはずだ。そのため、自分の状況が何かおかしいことが理解できる。そして、休眠状態を無理やりに覚ます程の異常事態が何なのかを知らねばならない。

 まず、機体状態を確かめるためにコンソール画面に手を伸ばす。コンソール画面は省エネルギーモードになっており、画面が消えていた状態だった。指が重い。暗くなった画面までが遠く感じる。目を覚ましてから十分に時間がたっているから、休日の朝のような気怠さはすぐに無くなると思っていた。だが、どうやらそうでもないらしい。休眠処理は適切な方法で解除しないと身体への負担が大きいという、朧げな、記憶とも、自分の想像ともつかない情報が頭に浮かぶ。

 あまりに腕が重いため、コンソール画面に触れた指がそのまま弾かれる。腕が落ちるのではなく弾かれた様子を見て、まだここが重力圏にいないことがわかった。コンソール画面がスクリーンセーバーを終了し、野原に赤い空という、オペレーションシステムの初期設定の背景を表示させた。いや、本来は野原に青い空だ。

「バグ……?」

 機体に搭載されているコンピュータのストレージは完璧ではないことは知っている。経年劣化によってデータ破損が発生し、場合によっては致命的な障害になりうることもある。しかし、これは使い続けていた場合の話である。実際は休止状態にあったシステムは、ストレージの寿命の消費が著しく少なくなるはずだ。それに、初期デスクトップ背景の色調バグとは謎深い。とはいえ、こうして起動している姿を見る限り、そこまでひどい状態ではないような気もする。というのも、この機体のスペック表にある予備ストレージの存在と、稼働ストレージに異常が発生した場合、予備ストレージにシステムデータが移行されることも知っているからだ。コンピュータのシステム周りがどうなっているのか気になりはするが、何か、他の要因で、何等かの障害が発生しているのだと思う。つまり、何一つわからない状態である。

 今の状態を知ろうとも、なかなか身体が言うことを聞かない。瞼が重い。視線を動かして、計器類を見る。この機体のデジタル計器は、何を表示するかをカスタマイズできる。使用していた時の計器配置と大きく変わっているため、一目では何の数値が示されているかが分からなかった。よく見ると、その配置が初期化されているのだと分かった。初期設定は確か、機体加速度、角速度、地球中心直交座標系上での位置と姿勢角、それと宇宙線量が表示される。ぱっと見ただけで、異常値を出している計器の方が多い。生きていそうなセンサは、加速度と角速度のセンサくらいだろうか。その数値から、この機体はゆっくりと姿勢を変えていることが分かる。不安定だが、何かを目指して姿勢を制御している。

「帰れる……のか?」

 外の様子を映す全面モニタは真っ暗で、それが宇宙を映しているのか、単に機能していないだけなのかわからない。そのため、この機体の動作の目的が全く想像つかない。そのことに不安が募る。

 力を込めて、体を引き起こす。コンソール画面下に設置された、機内の環境計器が目に入る。酸素濃度、二酸化炭素濃度それぞれが低くなっている。内気圧計も低い数値を出している。温度、湿度も低い。登ったことは無いが、知識としては知っている、高山での環境に近いとわかる。

 休眠から覚めて間もなく、かつ良好とは言えない環境。だが、動けないわけではない。多少とはいえ、体を動かしたことで血の巡りが良くなった気がする。視界のビネットも心なしか薄くなった。不気味な空の背景のコンソール画面の下部に整列したアイコンがある。その中から機内環境コントローラを呼び出す。その中から空気の調節をする項目を開く。現モードはオート。そこからマニュアルに切り替え、調整可能になったバーを移動させ、数値を調整する。規定量よりも1割ほど高く設定した。機内のエアコントローラの出力が増して、音が大きくなる。

 次に、コマンド履歴を開く。羅列する過去の機体制御コマンド文の中から、再起動のメッセージを探す。最初に書かれているのは、

『複数の味方機の信号を受信』

『機体システム再起動』

 どうやら、かなり時間はかかったようだが、味方機の信号を受け取れる領域に来ていたようだった。メッセージの左に並ぶ日時を見る。こちらは年月日を表示させていた。

「……そんな」

 518年間。自分が意識を失う前の暦から、すでに5世紀が経過していた。機体がその間崩壊しなかったこと、休眠状態が無理やり覚まされて、それでもこうして息ができる状態で目が覚めたことが奇跡である。何より、その長時間を飛来して、味方機の信号を受け取れる所まで来られたことが奇跡だ。

 長期間経過したことによって失っただろうものへの悲しみはない。唯一心残りなのは、ある女性のことだけだ。5世紀なんて時間が経ってしまっては、もう覚えている人もいないだろう。

 身に起きた奇跡に興奮する。

「帰れる。ある意味、いや、確実にこれは伝説だろう?」

 画面に触れた指先を動かし、履歴をスクロールする。

『信号の発信源に対する相対位置を取得、目標を味方機の内ランダムに設定』

『アクティブ姿勢制御を開始 ――エラー』

『自己診断 ――姿勢制御アクチュエータの応答なし。アクチュエータのパラメータを変更 ――ERR』

『メイン推進エンジンの応答なし。パラメータを変更 ――ERR』

『予備推進エンジンの確認 ――OK』

 やはり姿勢制御系は破壊されているようだった。しかし、意外にも予備の推進エンジンが生きているようだった。

『信号源をロスト』

『"太陽"を発見』

『"地球"を発見』

『救難信号を発信 ――応答待ち』

『タイムアウト――ステータス:応答なし、発信エラーなし』

『"地球"をロスト』

『"太陽"をロスト』

『現在位置、姿勢を再計算 ――現在位置:不明位置』

「どういうことだ?」

 帰り道を見つけたのではないのか。一度発見した恒星と衛星を、何かトラブルが起きた形跡がないのに、見失ったという。状況の把握が追い付かない。

 機内の空気の濃度は、十分量になっている。視界が正常に戻り、身体も多少軽くなった。再度履歴を追いかける。

『エネルギー充填量 ――30%』

『ストレージの容量が危険域に到達 ――予備ストレージにシステムをコピー』

『――終了 所要時間:51895sec』

『再起動』

『スタートアップ WILOC』

「WILOC……なんだっけ?」

 少し頭の中を探す。そして思い出す。機体に導入された状況判断AIだ。パイロットが意識障害に陥ったり、寝ていたりする時に、周りの状況を判断し、状況に応じて機体コントロールを肩代わりすることを目的としたソフトウェアである。このAIはポンコツである。というのも、開発者の想定外の状況になったとき、AIはパイロットを叩き起こそうとするのである。気絶したり寝ているならば叩き起こされるだけでいいが、そうでない場合は、良くてAIの動作停止、最悪の場合、AIが誤動作してパイロットを殺す。そんな役に立たないAIは、安眠妨害になるため、民生のカスタムAIを用いるか、いっそのこと肩代わりをさせないというのが常識だった。この機体には、カスタムAIを導入していたが、どうやらそっちはシステム起動時に同時起動しなかったようだ。

 しかし、アンインストールしたはずのアプリケーションが再起動しているのは不思議だ。

『WILOC:搭乗者の休眠処理を解除』

 それ以降の履歴は、自分が操作した部分が残されている。

 WILOCは何を判断したのか?起動中のアプリケーション一覧からWILOCを選ぶ。開いた画面は見慣れていないものだが、その中から状況判断の履歴を探す。

『# WILOC起動』

『# 状況判断 ――遭難中』

『# カメラ画像から"太陽"に酷似した恒星を確認。"地球"に酷似した未確認惑星を確認。現在位置は宇宙地図外の未確認領域であると推測』

『# 味方機の過去位置が"地球β"の表面上に存在すると予測』

『# "地球β"へ降下するかの判断 ――搭乗者の生命維持にはできるだけ早く味方との合流が必要。 ――不明瞭域内で味方機の信号をロストしたため、敵地である可能性が濃厚。 ――信号の内容は解析不可。このことからも、敵が味方の符号を用いた可能性が高い。 ――与えられた権限を超過すると判断 ――搭乗者の意向を確認するため、休眠状態を強制解除する』

 結局、やはり重要な判断を下すことができなかったようだ。

 しかし、5世紀という長期間を経て目覚め、今、味方機がいるかもしれないという可能性を目の前にしている。確かに、WILOCの言うように、敵機がおびき寄せようとしている可能性もある。だが、5世紀だ。敵にしても、5世紀前の人間に何の用がある?

 コンソール画面から、準自動操作機能を起動させる。未確認惑星である"地球β"上の、味方機の信号が発せられた位置の内一つに目標を設定し、着陸するところまでを自動で行ってくれる。

 推進エンジンが励起され、機体速度が上昇する。同時に姿勢角計の表示が復活する。姿勢角は地球を向いたときに前となるようにした場合の各方向への角度を示している。それが表示されたということは、システムは、とりあえずの座標中心を目標位置に設定したようだった。ロール角が変動を始める。確か、機体の安定性を得るために回転運動をするからだ。

 機体の動きはこれでいい。あとは待つだけだが、その間にしておきたいことがある。外の映像を確認したい。

 コンソールを操作してホログラムキーボードを出現させる。手元に映し出されたキー配列に指をあてがう。しかし、反応がない。どうやら不調のようだった。仕方がないので、座席裏に周り、収納ケースから物理キーボードを引っ張り出す。有線接続の小型キーボードで、従来の入力端末が不調をきたしたときや、入力端末を別で用意しなければならない独立システムに繋ぐために常備している。

 膝前の切り欠き部分の蓋を開け、そこにあるユニバーサルコネクタにキーボードの雄コネクタを差し込む。カーソルキーを叩いて動作を確認する。手動コマンド入力画面を立ち上げ、そこに文字を打ち込んでいく。

「まずは状況把握……」

 壁面モニタが認識されているかを確認する。認識はされている。試しにテスト画像としてコンソール画面を表示させる。成功。メインコンピュータとの接続は正常である。となると、問題は別のところにある。ハード的な問題であると、打つ手はない。唯一何とかなるのは、コネクタが外れている場合のみだろう。とりあえず、ソフト側に異常がないかを調べることにする。

 とはいえ、外に付けられているカメラの映像を、壁面モニタに映し出せるように処理し、映すという処理があるのみだ。最後の1つについては、先ほどの確認で可能性をつぶした。次に、画像処理ソフトを調べる。きちんと起動している。ここに問題は無いように思えるが、一応、動作確認用のテスト画像を表示させる。壁面モニタが、機体の本来戻るべき場所である、機体整備場の映像を映し出す。リアルタイム描画のテストも兼ねているため、やはりここに問題は無いように思えた。だとすると、ドライバソフトウェアに何かあるのか、はたまたハード的問題で、どうしようもないのか。

 ドライバソフトウェアのバージョンを確認する。最新版、というか、前まで使っていたものである。5世紀前のものだから、骨董品である。保証も切れている。とはいえ、機体のシステムのアップデート履歴もないため、ドライバが非対応になったとは考えられない。

 すると、やはりハード的な課題しか思い浮かばない。仕方がないので、最後の希望を抱き、座席を後ろに下げる。足元に十分な空間を作ったら、そこに潜り込み、裏側の蓋をはがす。中には配線のジャングルがある。暗くてよく見えないため、ハンドライトを取りに一度身体を元に戻す。

 身体を起こす瞬間に、機体が衝撃に揺れた。

「っうわ」

 座席に叩きつけられ、一瞬息が詰まる。

「いってぇ……」

 自然と文句が口をついた。とにかく外がどうなっているのかが知りたいため、ハンドライトに手を伸ばす。しかし、二度目の衝撃で膝をつく。ハンドライトは固定具から外れ、座席下に衝突した。跳ね上がってくるライトをつかみ、そのまま座席下にもぐる。

 ライトのスイッチを入れ、ケーブルジャングルを照らす。グラフィックボードに繋がるケーブルを辿れば、カメラの信号線を見つけることができる。白いコネクタが浮いているのを見つけた。どうやら、何等かの原因でケーブルが引っ張られ、短くなっているようだ。軽く引っ張ってみるが、動く気配はない。無理に引き抜こうとすれば、ケーブルが断線する可能性が高い。コネクタが壊れずに外れていたのは、不幸中の幸いと言えよう。ただ、今更ながら整備の甘さを実感することになった。普段から締め直しをしておく必要があったのだが、それを怠っていたことが頭によぎる。エンジニアとしては反省すべき点だ。しかし、もしも手の届ないところで断線していた場合、再接続はほぼ不可能に近い。整備場が必要になる作業になるからだ。とりあえず今は、断線が無いことを祈り、ケーブルを延長する必要があるだろう。

 また機体が揺れる。その周期が早まっている気がした。それに焦りを感じる。

 座席裏の収納には、工具や予備のケーブルセットがある。その中からコネクタとケーブル、それと圧着ペンチ、絶縁テープを探す。部品はまとめて手持ちの吸着ラックに貼り付け、宙に浮かせておく。適当な長さに切ったケーブルの被覆を剥き、端子をケーブルに圧着する。全てのケーブルに端子を着けたら、次はコネクタに端子を埋め込む。雑な作りになったため、画像が劣化するだろうことは予想できる。しかし、通電は問題ないはずだ。目視で軽く確認する。悠長に通電テストを行っている余裕はない。すぐさま配線群の下へ戻り、コネクタを接続する。ネジを締める作業が鬱屈に感じる。ピッチの小さいネジのコネクタだから、十分に固定するだけで結構な回数を回す必要がある。この間にも機体は何度か揺れた。やはり周期は早くなっている。

 コネクタを接続し終え、体勢を戻し、コンソール画面を叩く。カメラのドライバは自動起動するはずなので、今回は確認を省く。それよりも先に、外部カメラの映像を壁面モニタに映し出すように、表示設定を切り替えた。切り替えの1秒が長い。待機状態の画面を爪で叩く。画面は一度青い閃光を放ち――


 そして、瞬きの後、画面いっぱいに映つる赤い星が網膜に焼き付く。


 今まで青い星をイメージしていたために、思考が停止した。システムは、カメラで取得した星のカラースペクトルから惑星の同定を図る。そのシステムは、目の前の星を、"地球"と酷似していると言った。知らないうちに閾値が変わったのか、とにかく、思っていた光景と違う。

 ひと際大きい衝撃が機体を揺らす。そこで気が付く。この機体は正規の帰還シーケンスに入っていない。そもそも知らない星へのアプローチをしている時点で正規も何もないのだが、それでも、まずはアプローチ先の星の軌道上で姿勢を整えることが定石だ。しかし、この機体はアクティブな姿勢制御系が失われており、あるのは予備の推進系と、パッシブ姿勢制御アクチュエータのみである。軌道に突入するというよりも、そのまま落下コースに入ってしまっている。このままでは、着陸という形ではなく、墜落という形で新しい地面と出会うことになる。

 そして今、すでに大気圏に突入し、先ほどの衝撃を境に、機体温度が急上昇する。空気はあるらしい。しかし、その空気との摩擦により、機体の外部温度がどんどん上昇する。耐熱性能については問題は無いはずだが、不安はその先にある。この機体であれば、ところどころ破損しているとはいえ燃え尽きることは無いだろう。しかし、このまま地面に落下した場合、中にある肉体は衝撃で確実に肉片になるだろう。

 ブレーキになる外部パラシュートは装備されていない。予備推進エンジンを落下方向に逆噴射したらどうだろうか?いや、そもそも機体の向きを変えることができない。落下は必至。地面との正面衝突に備えなければならない。

「……どうしろと!」

 叫びと同時、不思議なものを見た。

 機体カメラは、高速で接近する石のようなものをとらえた。そして、近くを通り抜けていった。

「は?」

 画面に映し出される光景に言葉を失う。

「地面が、浮いてる……?」

 岩場のような小さいものから、屋敷でも建てられそうな広い地面があらぬ位置に存在していた。過去に見たフィクションの作品にはあった。だがそれはフィクションだ。元居た国では、居住区を空中に作る計画がたてられていたが、それとは違う。人工物というより、地面をそのまま抉り取って、重力のない空間に放り投げたような状態だ。フィクションでは"浮島"と呼ばれていたその光景は、幻想的ではある。

 "島"の縁を通り過ぎる。全身に嫌な汗が流れる。機体が落下しているこの状態で、空気抵抗による機体温度の上昇があるということは、この機体速度は音速近くまで減速されている。少なくとも、第何宇宙速度と定義される速度ではなくなっているはずだ。とはいえ、すでに空気抵抗との釣り合いはとれているだろうから、自由落下の最大速度を維持している状態にあることが予測できる。

 急いで座席のベルトを肩にくぐらせる。腹部、胸部のベルトを締める。普段は横着して適当に緩めておく胸部ベルトも、今はしっかりと締め付けた。窮屈だからと座席の裏にしまい込んでいるネックガードも引っ張り出し、装着している。何か重量物に衝突すれば、例えば、今しがた側面に設置された外部カメラのうち一つを吹き飛ばした大岩に正面から突っ込めば、コンソール画面と融着する勢いで叩きつけられることが予想される。対応した画面が生気を失った姿に、指先が震える。

 軌道上での作業時の身体固定の重要性についての安全管理講習を思い出す。事故の再現ムービーでは、軌道上での作業中に、高速で飛んできたデブリを機体に受けたシーンが流されていた。パイロットは、身体の固定を怠っていたため、衝撃で機体内部の壁に打ち付けられ、複雑骨折、死亡したという案件だ。重要なのは、身体の固定と、工具等の小物の飛散防止である。

 今回、工具類は座席裏に投げるようにして移動した。元あった位置に収納している余裕はない。

 この浮遊している島の下にあるのは、何だろうか。おそらく二択。地面か、海か。しかしその前に、目の前にはやわらかそうな雲海が広がった。そこに突っ込めば、カメラでは何も見ることができない。それに、雲があるということは、海面高度が近いということだ。おそらく、雲を抜けた時、自分が海に叩きつけられるのか、地面に叩きつけられるのかが決まる。そこで命を保っていられるかは、座席の固定金具が衝撃に耐えられるかに掛かっている。正直、嫌な予感しかしない。もしかしたら息はしているかもしれない。だが、五体満足であるかは不明だ。機体は回転しながら落下している。意外にも姿勢の安定性は高い。問題は、落下の結果、正面から地面にぶつかることになるだろうことだ。正面装甲が持つか?装甲が持ったとして、構造が持つか?破断すれば、この機体はその瞬間にプレス機へと姿を変える。破断しなかったとして、目の前にあるコンソール画面等の内装機材が剥離する可能性がある。剥離した機材は搭乗者に浴びせられる弾丸になるだろう。身体固定ベルトは機能するか?後ろに投げた工具が急所に刺さったりは?

 不安がかき消せない。どころか、全てが不安になってくる。そういえば、ここで生き残っても、本当に助けは来るのか?こちらの救難信号に対して、応答は一切なかった。そもそも、事の発端の信号は味方符号ではあったが、味方か?分析では敵機の可能性が高いとあった。いや、敵だとしても、人間であるならば助けてくれるかもしれない。だが、軌道を外れてアプローチルートがおかしくなったこの機体を救助するのに、一体どれだけの時間がかかる?食料は?生命維持に必要なものはない。

 絶望が近づいてくる。

 雲に突っ込んだ。

「終わ――」

 った。

 目の前が青白く輝いた。雲の色ではない。海が見えたのではない。チェレンコフ光?

 加速度計が9.8kg/s付近から一気に数値が変わる。落下方向とは真逆の加速度を受け、身体がつんのめる。ベルトが身体に食い込み、痛みが迸った。

 何が起こったのかはわからないが、とにかく、落下が止まった。とはいえ、それは一瞬で、また自由落下を再開し始める。痛みに閉じた目を見開き、画面を見て状況を確認する。

「水、滝……!?」

 いや、滝は上から下へ流れ落ちるものだ。それは、鉛直下方向から吹き出し、空へ向かっていた。

 機体は落下の途中、この水流に直撃したようだ。水流だけではない。強烈な上昇気流が先にあり、水流に当たる前にある程度の減速が為されていたはずだ。初めて見るこの現象は、機体の速度を和らげた。ハッとする。カメラから映し出される視界の先、雲を抜けたその先、水流で抉られた雲の切れ間から差し込む光帯に、大きな鳥のようなものが見えた。一瞬、航空機にも見間違えるような、巨大な生物が、いや、鳥がそこにはいた。そして、背に人間が乗っているのが見えた。幻覚を疑うが、その人は、久しぶりに目にする生きた人間は、こちらに向かって手を振っている。

 急いでコントローラを操作して、カメラをズームさせる。久しぶりのコントローラ操作だったが、滑らかに手が動いた。拡大された画像の中で、その人の姿を捉える。大きな鳥は、鷲のような見た目だが、そのサイズが異常に大きい。その背に乗る人間は、ゲームの登場人物のような、いわゆる冒険者風の出で立ちだ。しかし、その背を見て驚く。

「人、いや……え、いや、人?」

 羽を生やした人がこの世にいてたまるだろうか?人の形をして、羽が生えているのだとしたら、それは天使だ。そして、自分の生きた時代からして、それは死んだ人間の下に現れる幻想上の存在だ。

 だが、その天使のような何かは、幻想的な力でここまで来ることは無い。それどころか、この機体の落下進路へ向けて移動を始めた。それを追ってカメラを動かす。そして、眼下に広がる広大な海と、そして、海のうねりと、天使のような者の焦った顔の理由を見た。

「――ここは、なんて言うゲームの世界だ?」

 巨大な鳥なんてわけない。海のうねりの中で、何かが蠢いている。巨大な何かが。海面すぐ近くまで上がってきて、その体の一部が海水を持ち上げる。先ほどの水流は、これの仕業なのかもしれない。

 さっきから翼をもつ何者かは何かを叫んでいるようだが、その意味をなんとなく察する。この機体の大きさはそれなりにあるため、このままでは助けられない。つまり、脱出を促しているのだと思う。

 このまま落ちても、海中の怪物と相まみえることになるだろう。そうならなくても、海底に沈んで、空腹で死ぬ。

 意は決した。

 5世紀前に操作した、アクリル板で保護されたスイッチ群を再度操作する。コマンドの1つ、パイロットの脱出を選択した。感覚的には一回の睡眠を隔てたくらいなので、昨日と同じ動作を繰り返しているような気分になる。一瞬、誤操作しかけた。

 機体接合部に仕込まれた高性能爆薬が、構造を効果的に破断させる。機体はパイロットモジュールを前後に分断され、爆破の勢いで互いの干渉を避ける。

 あとはマニュアル操作だ。放り出されたパイロットモジュールの中で、座席のベルトを外し、扉のロックを解除する。本来であれば、着地した後にする操作だ。固定ハンドルを『CLOSE』の文字の上から『OPEN』へ回すと、回した手が勢いよく引かれる。握りこまなかったことは幸いだった。指を擦過し、扉が外へと吹き飛んでいった。

「――っ」

 なだれ込む風につい顔を覆った。内外の気圧の差は破裂音となって鼓膜を揺さぶる。幸い、爆発的なまでの振幅に至らなかったのだろう、痛みはない。

 顔を覆った腕をどけ、薄目を開けたその先に、#天使__それ__#はいた。冒険者風の、フード付きの短いマントがたなびき、その下の薄褐色の翼が見え隠れする。フードから覗く顔立ちを見る限り、その人?は少女に見えた。翼をもつ少女は何かを叫び、手を伸ばす。激しい風切音で聞こえはしないが、それを見て、パイロットモジュールの縁を踏みつけ、伸ばされた手に向かって飛び出した。

 自由落下の感覚。差し伸べられた手を掴もうと必死になって腕を伸ばす。皮手袋を着けたその手は、久しぶりに見た他人の手だから、それとも、実際にそうなのか、とても小さく見えた。

「捕まえた!」

 意外と握力は強く、しっかりと握られた二つの腕が張り、重力に逆らう。捕まえた腕を少女は引っ張り上げた。そのまま鳥の背に投げられるようにして乗った。思っていたよりも硬い羽根で包まれた怪鳥の背は、しかし安定した座席のようでもある。乗馬とは違う感じだが、大型二輪の座席とも言えない。

 しかし、少女と対面する形になってしまった。

 青空を背景に、少女は笑っていた。確かに顔つきなどは、自分の知っている人間という種族の、少女の姿だ。不思議と混乱はしない。ただ、懐かしいような気がした。彼女はニッと口角を上げてみせると、襟首に手を回した。

「上がるよ、つかまって!」

 襟を引き寄せられ、少女の胸に顔をうずめてしまう。久しぶりの温もりだが……。

 腰を預けている鳥が翼を大きく広げ、落下速度を空気抵抗で急激に相殺する。当然、押し付けられるような加速度を全身に受ける。羽ばたきと共に、高度を上昇させ始める。

「んっぐぐぐg」

 羽ばたき1度でどれほどの上昇速度を発生させているのか、少女の胸に口元が押し付けられているのもあって、激しい上昇加速度に息が詰まる。呼吸が苦しいが、訴えることもできない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ