獣浪記
森の小道を歩いていると、木の枝に半裸の少女が引っかかっていた。
暫し眺める。
年の頃は十五、六といったところだろうか。髪の色は栗色。目の色は、翠。
「……何見てんだ、おっさん」
「なに、洗濯物の真似事をしている娘っ子は珍しいのでな」
「誰が洗濯――おわっ!?」
叫んだ少女が木の枝から落ちた。頭から落ちてとても痛そうな音がした。
同時に、ぼとぼとと木から何かが落ちてくる。
「いってー……、ん? なんだこれ?」
「三つ牙だ。三つ又の嘴で肉を切り裂き血を啜る獰猛な獣」
人の腕程の細長い体がくねりながら持ち上がり、少女の目の前で先端が裂けた。掠れるような叫び声と共に少女の顔に唾液が飛んだ。
少女は悲鳴を上げて三つ牙を投げ捨てる。しかし、三つ牙は地面に叩きつけられてもものともせず、間髪入れずに飛びあがり少女に襲い掛かった。
おっと、危ない。
「投げ捨てるよりはこうして首元を掴んでた方がよいぞ」
宙を飛ぶ三つ牙の頸をきゅっと掴むと、三つ牙はその体を腕に巻き付けてくる。が、非力さゆえに大して痛くはない。威嚇するように尾の先端にある目玉が睨み付けてくるが痒くもない。
少女は一瞬目を丸くしたが、すぐに目を細めて俺を睨み付けてくる。
「余計な事すんな、おっさん」
「幼子が傷付けられるのは忍びない。が、確かに余計な事だったかもしれん。ほれ、もう一度やってみるか」
もう片方の手で巻き付いた体を引きはがし、三つ牙を投げ捨てる。すると、三つ牙は俺に向かって一度威嚇した後、再び少女に襲い掛かった。
弱い方を狙う。実に賢い獣だ。
が、惜しむらくは、少女もそこまで弱いわけではないということを見抜けなかったことか。不意打ちが失敗した時点で三つ牙はさっさと逃げるべきだったのだ。
迎え撃つ少女の右手が指先までぴんと伸び、まるで一本の剣のように構えられる。
そして、交錯。
三つ牙は少女の手刀によって真っ二つに斬り裂かれ、血を撒き散らしながら地面に転がった。
「演・滑り刃か。よく鍛錬してある」
「ふん!」
少女は手を鋭く振り、血を払い飛ばした。
そのまま立ち去ろうとする少女だが、数歩進んだところでずるずると地面に座り込んでしまう。
「どうした?」
返事の代わりに盛大な腹の音が響き渡った。
思わず笑ってしまう。ご機嫌斜めな理由はそれか?
「三つ牙を食えばよかろう。意外と美味いぞ」
「やだ。気持ち悪い」
「勿体ない娘だ」
そこらに落ちている枝をいくつか集め、適当にくみ上げ、そのうえで両手を叩く。ぼう、と燃え上がった炎の周りに、三つ牙の死骸を突き刺した木の枝を添える。
「……なんだそれ」
「焼肉だ」
「そうじゃねーよ。今の、火をつけたやつ」
「演・撃ち火だ。別に珍しくもなかろう」
そういうと少女は黙りこくった。どうやら見たことがなかったらしい。
意外だった。あれだけ見事な滑り刃を見せたのだから、他の演にもある程度知識はあるのだと思っていた。
どうやら一歩も動けないらしい少女の横で、俺は暫し肉の焼き加減を見る。程なくして油が弾ける良い匂いが漂い出す。
芯まで火が通ったのを見計らい、少女の鼻先に肉を突き付けた。
「食うか?」
少女は返事もせずに食いついた。
「毛は吐き出した方がよい。僅かに毒がある」
むせながら少女は俺を睨み付けてきた。
「……礼は言わないからな。これは俺が殺したんだ。だからもともと俺のもんだ」
「はは、気にするな。その通りだ。食え食え」
一本食いきるともう元気が湧いてきたのか、少女はもう一本の肉も奪い取り食いつく。とてもよい食べっぷりだ。塩もなにも振ってないというのに、実に美味そうに食う。
少女は盛大に噯気を吐くと、やたらと上品な手振りで背中で一本に括っている髪をまとめ直す。乞食もかくやという格好であるというのに、そこだけ拘るのはかえって不格好な気がするが。
不満そうに腹を撫で、少女は俺を睨んだ。
「もうないのか」
「欲しければ獲ってくるがいい」
「ぬ」
少女は本当にただ空腹だっただけらしい。体のどこかを悪くしていたわけではないようだ。
枝がぱちりと割れる音を聞きながら、少女は何かを迷っているように佇んだ。だが、やがて踏ん切りがついたのか、躊躇いがちに話しかけてきた。
「なあ、演ってなんだ?」
「演を知らんのか。それは妙な話だ。さっきやっていただろう」
「できるけど何なのかは知らないんだ。教えてくれよ、おっさん」
「そうか。では、俺のことは師匠と呼びなさい」
「なんでだよ」
「その方が俺の気分が良いからだ」
少女は心底嫌そうな顔をする。
「そう恥ずかしがるな」
少女はさらに嫌そうな顔をした。
これ以上幼い子をいじめるのは止めておこう。
「三宝の内の一つだ。模字、化徴紋、そして演。一の獣を模し、その力を借りる」
「……意味わかんねぇ」
「知により配する模字や心により成る化徴紋と違い、演は体により顕れる。姿と色と動と鳴。これを支配する者が演者なり」
「つまり?」
「悠々と蠢く海獣の如き舞えば水を統べ、煌々と猛る地獣の如く駆れば土を統べ、飜々と堕ちる天獣の如く飛べば気を統べる。真の似して真と成る。これぞ演の極意ぞ」
「あんたわざと難しく言ってるだろ!」
ばれたか。
「若い子とおしゃべりするのは楽しくてな」
「俺はちっとも楽しくない」
少女はそっぽを向いてしまった。少しやり過ぎてしまっただろうか。
俺は右手を差し出した。
「ハンだ」
少女は俺の右手をじろじろと見たが、申し訳なさそうに目を逸らす。
「わりぃ。名前、覚えてないんだ」
「己の名をか?」
「ああ。何も思い出せない」
「それは、まあ、なんとも大儀な話だ」
では事情を訊いても無駄か。
「丁度近くに邑がある。どうだ、そこまで行ってみるか? 何か分かるかもしれん」
「いい。そこで食い逃げしてきたばかりだ」
「では、少し先の邑に行ってみるか? 俺は丁度そちらに移動するところなんだ」
少女は疑わしそうな目で俺を見た。
「何が狙いだ?」
「先の邑に弟子を待たせている」
「そうじゃない。俺は何も持ってないぞ」
警戒心で少女は爆発してしまいそうだった。だが、そのくらいが丁度いい。ただの親切ほど嘘っぽいものはないのだから。
「別になにも要らんさ。年寄りは節介を焼きたがるもんだ」
少女はふいと横を向いた。
直後、頭を直接掴んで揺さぶるような咆哮が響き渡った。恐怖に皮膚が舐めあげられる感覚がする。
少女も体を一瞬硬直させ、すぐに立ち上がって飛び退いた。
「ほう、これは首抜きか。近いな」
「くびぬき?」
「とーても強くて恐ろしい獣だ。捉えられたらまず食われる。逃げるか」
俺が道を歩き始めると、少女は五歩後ろをついてきた。迷ってはいたようだったが、ある程度信用してみることにしたのだろう。
良い判断だと思う。まだ日は高いがいつまでも昇っているわけではない。邑の外で日が暮れてしまったら大事だ。のんびり眠ることなどできなくなってしまう。おまけに近くには危険な獣。他に選ぶ道はない。
しかし――記憶がない、か。ただの冗談には見えなかったが、果たして何があったのやら。
「おっさん」
「なんだ」
「さっきの教えてくれよ」
「さっきのとは?」
「火ぃつけたやつ」
撃ち火か。
試しにじっと少女の眼を見つめてみる。
睨みあいになるが、先に目を逸らしたのは当然少女だ。なにせこちらは演・湛え涙と演・猛り血を併用してまばたきを我慢している。本気の睨めっこ、負ける気はしない。
「あー、わかったよ! 教えてくれよ、師匠。頼むよ」
「中々素直ではないか。よかろう。弟子の頼みならしかたあるまい」
俺は道を逸れて藪へ踏み入ると、少女も慌ててついてきた。
「どこ行くんだよ」
「ここらには師となる獣が山ほどいるのだ」
ほど良い巨木はすぐに見つかった。中程に洞のある老樹。歳月と威厳を感じさせる、獣たちの棲み処だ。
洞に手を突っ込み、目的の獣を引きずり出す。
「こいつは火挟みという獣だ。見たことあるか?」
「ない」
俺の人差し指を挟んでぶら下がっている獣を一瞥し、少女は首を振った。
「掌に乗るような大きさだが、ほれ、立派な鋏を持っている。こいつをかちかちと打ち付けあって火をつけるのだ」
「変な生きもんだな。料理でもすんのか?」
「詳しくは知らん。真似してみろ」
「何をだ」
「この動きだ。手を打ち合わせる動きをな、こう」
少女は口の端を捻じ曲げて嫌そうな顔をする。
「真似してなんになるんだ。まさか火がつくなんて言わないよな?」
「その通りだ。火がつく」
「……」
力なく手を叩いて見せる少女。ぺちぺちぺち。やる気のない音が響き、少女は肩を竦めた。
「つかねーぞ、おっさん」
「似てないからだ、弟子よ」
「んなわけねーだろ」
「ある。それこそが演だ。弟子だって滑り刃を使えるだろう」
「あれは……鍛えたからだ!」
「鍛えたからと言って素手で肉を斬れるようにはならない。違うか?」
少女自身も薄々思っていたことのようだが、自分が妙な技を使っていることは認めたくないらしい。不満そうに少女は言う。
「でも、実際できてるだろ」
「元となる獣、滑り刃で言えば斧回しの力を借りてるからだ。もっと言えば、そのさらに大本である一の獣から、その力を借り受けている。それが三宝。それが演」
胡散臭そうな目で見られるのは慣れているが、はてさて、これからどうやって弟子の信頼を得て行けばよいのか。
「よく観察しなさい。この獣はどのように手を動かしているのか。これを真似するには自分の腕をどう動かすべきなのか。鋏のような爪はどう拳を握ればいい? 鞭のようにしなる腕を肩と肘と手首でどう再現する? さあ、見て、観察して、考えなさい」
演・撃ち火。
ふんわりと落ちて来た木の葉が打ち合わせた俺の手の前で燃えた。
すると意外なことに、少女は言われたとおりに獣を睨み始めた。
指示されるが嫌なのかと思っていたが、そうでもないらしい。
そのうえ、凄まじい集中力だ。もう俺のことなど欠片も気にしていない。おそらく俺が後ろで歌を歌いだしても気づきすらしないはずだ。
長所ではある。が、今は少しまずいかもしれない。
俺が火挟みをひょいと持ち上げると、玩具を取り上げられた子どもの様な顔をする少女。
「他のも教えてやろう」
「……別にいい。それよりもう少し見させろ」
「これは演・隠れ霧という。こうして腕を組むとだな」
「人の話を聞けよ!」
どろん、とな。
少女は俺の姿を見失って周囲を見回した。そしてそれは俺たちを遠巻きに観察していた二人組も同様。
俺は慌てて身構える男の一人を気絶させると、もう一人の腕を捻りあげて少女の方へ歩いていく。
「とまあこうして楽に獲物を狩ることができるわけだ」
「いてえ、離せ、離せじじい! くっそ、なんて馬鹿力だ」
手刀を構える少女を手で制す。だが、言うことを聞いてくれない。いざとなったら俺ごと斬り裂きそうな形相だ。
「落ち着きなさい。これは知り合いかね?」
「違う。けど敵だ」
「そうか。とりあえず話を聞いてみないかね?」
「知らない。けど敵だッ」
「そうかそうか。敵なら仕方ない」
心なしか知能が落ちている気がする。
仕方ない。少女を落ち着けるためにもこの男には一度眠ってもらうことにしよう。
首に腕を巻き付けて眠らせる。これも一応演なのだが、まあ教えなくても良いだろう。敵と戦うだけなら滑り刃で十分だ。
男を地面に転がし、少女と向かい合う。
「敵というのはなんだ?」
「知らない。俺のことをどこかへ連れて行こうとする」
「知り合いか、家族なのではないか?」
「そんな気持ち悪ぃ眼つきした奴等が家族なわけないだろ」
「うむ。人攫いか。事情は聞いたのか? 特別弟子を狙う理由とか」
「あんた質問ばっかだな」
「この歳になってもまだ知りたいことは山ほどある。人生は幸福である」
話したくないか。ならばまあ仕方ない。男を起こして吐かせてもよいが面倒だ。この程度ならば放っておいても問題ないだろう。
仮に男たちが善いことを目的としているとしても、もし少女が救いようのない悪党だとしても、そうと分かったときに決めればよい。何も焦ることはない。時は来る。待っていればそのうちにひょっこりと顔を出す。
ただまあ。
「殺すのは止めておきなさい。この男たちに殺意はなかった」
「だけど。俺の場所がばれた」
「ばれると困るか?」
少女は鼻息荒くそっぽを向いた。あまりにもわかりやすくて笑いそうになってしまう。
少女は――いや、これだと困るな。
「ナシロ」
「なんだ? それ」
「弟子の名だ。これよりナシロと名乗りなさい」
「俺のぉ?」
そこまで嫌そうな顔をするでない。ナシロよ。
「嫌なら変えようか。いや、ナシロが考えるとよい。何か希望はあるか?」
「もうそれで呼ぶ気だろ。いいよ、それで」
「では、名を思い出すまでは、ハンの弟子ナシロとあいなった。よろしく頼むぞ、ナシロよ」
ナシロは口角を思いっきり下げて斜め下を向いた。
表情の豊かな子だ。
邑が見えてきた。簡素な木の柵で外周を囲われたこじんまりとした邑。規模としては村として成り立つぎりぎりぐらいだろうか。
「こんなとこにあったのか」
「このくらいの邑であれば目立たぬことは必須条件だ。遠目に気付かないのは仕方ない」
「なんで?」
「大きく強い獣に目を付けられないようにだ」
俺は見張り台に立つ村人に手を振って見せる。
相手が俺の顔を覚えていてくれれば楽なのだが。
幾分か待つと、ゆっくりと木製の門が開いた。弟子が働きかけてくれたのか、見張りの記憶力が良い方だったのか。
「さっさと入ろうぜ」
心なしかナシロの目が輝いているように見える。
頷いて共に邑に踏み入ると、門が軋みながら閉じた。
出迎えてくれるのは戦士らしき村人が数人、長らしき人物が一人、そして、弟子のグラドラだ。
「ししょう」
「おお、待たせたな。グラドラ」
「……そっちの、おんなのこは?」
「新しい弟子のナシロだ。ナシロ。こっちの少年はグラドラ。俺の弟子だ。ナシロの兄弟子になる」
ほぼ同い年だろう少年に対し、ナシロは隠す気もない警戒を見せている。
不思議そうな顔をするグラドラ。
じりじりと後退るナシロ。
グラドラが一歩進めばナシロが一歩下がる。見事なまでに息がぴったし。兄妹弟子として仲良くなる道のりは遠そうだ。
そんな二人を見かねたのか、長らしき人物が俺に話しかけてくる。
「どうも。三日ほど前にいらっしゃったハンさんでしたよね。今日はこちらに泊まって行かれるのですか?」
「問題なければそうさせていただきたい。こっちは弟子のナシロだ。邑に入れてしまったが問題ないだろうか」
長は慈母のような笑みを浮かべた。
「構いませんよ。あなたの弟子のグラドラさんにはお世話になりました」
「ほう。グラドラ。善いことをしたのか?」
グラドラは首を斜めに傾げながら曖昧に頷いた。
良いことだ。
許可を取れたことを確認すると、他の邑人は散っていった。俺も挨拶はほどほどにして、ナシロを連れ、グラドラが使わせてもらっているという家に向かうことにした。
家に入るなり、ナシロはげぇっと汚い悲鳴を上げた。
「おい、おっさん」
「どうした」
「今日はこの家に泊まるのか?」
「そうだ」
「俺と、こいつと、あんたとでか?」
「そうだ」
「この、仕切りも何もない、一部屋しかない家で!」
ああ、そういうことか。
「グラドラ。ナシロのことはどう思う?」
「どう、とは」
「顔。好みか? 尻でも胸でも、こう、欲情するか?」
「あんまり」
「よし」
「何がよしだ!」
背中に思い切りのよい蹴りを入れられた。幸いなことに足の演は使えないらしい。少しばかりよろめいただけで済んだ。
振り向くと怒りに燃える眼が俺を見下ろしている。
「安心だろう」
「そうじゃねえ!」
「着替える時は壁を見ているが……」
「べつに、みない」
「てめえら、本当に、そこじゃねえっつうのに……!」
気難しい。娘でもいたら多少は何とかなったんだろうか。残念だが、俺には息子しかいないからわからない。
まあ、諦めてもらうしかないな。どうにか気を逸らそう。
「ナシロ」
「あ?」
「火のつけ方を教えてやろう」
ナシロの眼に浮かんだ好奇を見逃す俺ではない。
「ついでだ。グラドラにも教えてやる」
「おれ、もう撃ち火できますよ」
「演ではなく、模字のやり方だ。模字での火のつけ方を伝授する」
グラドラは乗って来た。ナシロはまだ怒りを収める気はないようだが、もう一押しと言ったところか。
「どうした? 興味ないか?」
「あるけど、さ。またさっきみたいに途中でやめるんじゃねーだろーな」
「最後まで教えてやる。まあ、修得できればの話だが」
お、やる気になったな。わかりやすい。
「やります、ししょう」
いい後押しだ、グラドラよ。
二人を椅子に座らせ、俺も向かいに腰掛ける。
「では、稽古としよう」
「演とは何か」
目でナシロに問いかける。が、無視。
やれやれ、ここは兄弟子に見本を見せてもらうとしよう。
「うごき、です。一のけものの、うごき。それをまねて、そのちからをかります」
「満点の回答だ。よく覚えていたな、グラドラ」
素直な良い子だ。
「では、模字とは。事象だ。一の獣が起こした事象を模し、それを再現する」
「意味わからん」
「そう焦るな」
むっとした顔をするナシロ。
もしかして、自身がせっかちだという自覚がないのだろうか。そうかもしれん。いや、あるからこそむくれているのか。
「例えば、太古の昔、一の獣が火をおこしていたとする。その火がこのような模様をしていたとしよう」
指で地面に歪んだ円を描く。
「そうだとしたら、この模様は火である」
何言ってんだこいつは、とナシロの目が語っていた。
「何言ってんだこいつは」
口もか。よくしゃべる。
「これは火と同じ模様である。すなわち火だ」
「なるほど……?」
「なるほどじゃねーだろ。何がわかったんだよお前は」
お、グラドラがやる気を出したらしい。説明の準備のために口をモゴモゴと動かしている。
「うごきがおなじなら、ちからもおなじ。かたちがおなじなら、なかみもおなじ。それだけのこと」
「形が同じなだけで中身まで同じになってたまるか!」
「けど、こころがおなじなら、すがたもおなじ」
「にはならない!」
「なるのに」
「ならない」
「なる」
「ならない」
平行線だな。
仲裁するとしよう。師匠としてどちらかに肩入れするのはよくないが、今回はグラドラが正しい。
「ナシロ。繰り返すぞ。これは、火である」
俺は地面の模様に、最後の仕上げとして点を打ち込んだ。
刹那、地面に描いた模様は、輝きを放つ火と成った。
「な、火であろう」
ナシロは黙り込んだ。
もう少し派手な反応が見れるのかと思ったのだが、随分とおとなしい。意外だ。
「これ、見たことがある、かも」
「別に見たことがあっても不思議ではない。……が、何か思い出せたのか? ナシロ」
ナシロは返事をせずにじっと火を見つめている。思考の邪魔をするのはよそう。
と思っていたらグラドラに袖を引かれた。
「ししょう、おれにも、できますか」
「できる。使いこなせるかは、また別の話だが」
「じゃあ、もっとつよそうなの、おしえてください。たたかいでつかえるくらい、つよいの」
「よかろう」
俺は地面に点いた火が消えないうちに、その周囲に線をいくつか描く。
「これは大燈。火はさらに膨れ、辺りを照らす」
指先ほどの大きさだった火が拳ほどに大きくなる。
その火を囲うようにして波線を引く。
「そして、紅煉。木々を燃やし、骨肉を灼く。ここまで来ると、戦いにおいても使えるだろう」
「すごい」
赤い炎を見ながらグラドラは感心したように呟いた。
そうだろう、そうだろう。
「だが、一つ注意すべきことがある。こうした火は段々と強くしていかねばならん。一足飛びに紅煉を点けることは非常に難しい。なぜかわかるか?」
グラドラは首を横に振った。
当然だ。
これを答えられるかどうかというのは、頭の出来不出来の問題ではない。知っているかどうかの話だ。
「それはな──」
しかし、俺の講釈は横から口を出してきたナシロにより遮られる。
「火は幾万幾億と点いてきたが、大燈はその万分の一。紅煉はさらにその万分の一。火であれば、それが無数に生じてきたがゆえに、雑に描いても同じ模様はあるだろうが、かつて在りし大燈はより希少であるがゆえに正確に描くのは難しく、さらに稀である紅煉はさらに難しい」
グラドラは急に語りだしたナシロをぽかんと見つめている。
「だからこそ、一度模字を火にすることで、続く模字の難易度を下げる。火は揺蕩い、その形を自然と合わせるがゆえに、次の炎へと繋げることが容易い。そうして一歩一歩、丁寧に進めることこそが、遠回りのように見えて最善の近道である」
正解だ、ナシロよ。師匠の役割を奪われてしまった。
ふむ。だが、お前は誰だ?
俺は目の前で朗々と語るナシロの目を見つめる。その瞳は目の前の火を見つめているようで、しかし何も見てはいなかった。
「紅煉は、赫炎に」
ナシロの指が地面に模様を描き、日の勢いが増す。
「赫炎は濫焔──」
「ナシロ」
ナシロの手を掴み、俺は力強く告げた。
「家が燃える」
ぱちぱちと目を瞬かせるナシロ。その目はいつも通りの、睨みつけるようなものに戻っていた。
ナシロは俺の手を振りほどくと、炭で黒くなった鼻の頭を撫で、それを降らしている天井を見上げた。
「おわっ、天井焦げてんぞ」
「ナシロがやった」
「反省せよ」
「は? そんなわけないだろ。俺、火、つけれねーし」
「ナシロは、じつは、とってもものおぼえがわるい?」
「んだと!」
グラドラはナシロに胸を掴まれながらも、俺に顔を向けて解説を求めている。
当然のことだが、俺もよくわからない。
俺は鼻息荒いナシロをグラドラから引き剥がし、火の跡を挟んで座らせた。
「ナシロよお前は今何をやったのか覚えていないのか?」
「何って……模字について聞いて、火がついたの見て……あれ? その後は、えっと」
「ナシロが、ひをおおきくした。すごく、りゅうちょうに、しゃべって。それで、いえをもやしそうになった」
「しゃべって、しゃべったか? 俺。いや、なんかしゃべった気も、する、かもしれない。えぇー、けどなぁ。なんだこれ。気味わりぃ」
これは、僥倖ととるべきか。
まあ手がかりには違いあるまい。
「ナシロ、お前は記憶を取り戻したいか?」
「なんだよ急に。当たり前だろ」
「当たり前か。そうだな。当たり前だな」
我ながら愚問だったか。
師としてすべきは曖昧な心配などではない。教え、育て、備えさせることだ。いつか立ちはだかるであろう苦難に立ち向かうために。己で決断するための力を与えること。それ以外にない。
「ではまず」
ナシロがやや怯んだ表情になる。
「天井を焦がしたことを邑長へ謝りに行こう」
朝。
寝る前はぶーたれていた割に誰よりも遅くまで寝ていたナシロは、ようやく寝台から上体を起こすとぼりぼりと背中を掻いた。
「鼻の奥がすーすーする」
「炭粉のせいだな」
「つまりナシロのせい」
「あー、うるせうるせ。そもそも火をつけたのはおっさんだ。おっさんがわりぃ」
「弟子の責任は師匠の責任か。一理ある」
頷き自省するとナシロは不満そうに俺を睨み付けてきた。
どうすればしかめっ面を解くのだろうか。
「とはいえ朝から反省ばかりするものではない。朝は予定を決める時分。さて、いい加減起きるのだ、ナシロ」
「わかってるよ」
「きょうはなにをしますか、ししょう」
今日やることはもう決めている。昨日の夜の時点でだ。
「北にある邑へ行く。やや遠いが、頑張れば今日中につくだろう」
「目的は?」
「何を異なことを。ナシロの記憶を取り戻しに行くのだ」
「……んなこと、できんのかよ」
「お前がどんな場所にいたのかに関してはもう当たりはついている。が、それがどこにあるのか、なんという名なのかは知らん」
「何もわかってねーって言うんだぜ、それ。なんでそれで北の方に行くって決めたんだよ」
「知っている者のところに行く。住処を変えていなければ北にあるクアトートという名の邑にいたはずだ」
「ほーん」
ナシロは目を細めて馬鹿にしたように相槌を打った。
信じるには情報が足りんか。では、言うかどうかは迷っていたが、言うことにしよう。
「ナシロよ。ナシロは神の子らだ」
「はぁあ?」
気持ちはわからんでもない。俺もこの名は不器量だと思っている。
「あくまで比喩表現だ。どういった類のものなのかは、おいおいわかるだろう。最初は奇跡の子らなのかとも思ったが、どうやら違うらしいのだ」
「き、奇跡? 神? やっぱこいつ気違いか?」
横から肩を叩かれる。グラドラが純真な目で見上げてきている。
「きせき、ってなんですか」
「特別、ということだ」
「とくべつ、ならわかります。ナシロはとくべつ。ナシロはとくべつ」
「気持ちわりーこと言うな」
「悪い意味ではないぞ。寧ろ誉め言葉だ」
「けっ」
褒めているというのに。
「とかく、神の子らの存在はいくら隠そうとも隠し通せるものではない。それが逃げたというのならば尚の事。最も耳の早い弟子、エウリィデならば知っているはずだ」
「ほー。って会いに行くのおっさんの弟子なのかよ」
「俺の弟子は百人いるのでな」
「節操がなさすぎる」
「難しい言葉を知っているな。偉いぞ」
「ナシロはえらい」
「馬鹿にしてんのかこの糞師弟!」
ナシロは腕を振るった。この程度ならば俺は避けることができるし、グラドラもできる。だが、普通の人には難しいだろう。だから叱るという意味も含めて脇の下をくすぐっておく。グラドラは背中だ。
妙な声を出して蹲ったナシロは、震えながら睨み付けてくる。
「なんで俺をおちょくるときはこんなに息が合ってんだ。師弟だからってそこまで似なくてもいいだろ」
「深い絆が円滑な意思疎通を可能にするのだ」
「まだとおかですけどね。ししょうにあってから」
「は、十日? は? 嘘だろ? お前ら……頭おかしいだろ!」
たった十日とて絆は築けるものよ。時間ではないのだ。
「というわけだ。異論がないようなら出るぞ。善しは迅し。迅しは善し、だ」
「りょうかい」
呆けた顔をしているナシロを置いて、俺たちは荷物をまとめる。と言っても数着の着替えと僅かばかりの通貨と水筒を袋に詰めれば終了だ。俺もグラドラも持ち物は少ない。男の良さだな。
と思いつつも、女子であるはずのナシロはもっと荷物が少ない。服が一着。以上。他には何もない。気合を入れるためか髪を結び直したら準備終了。なんとも楽でいい。
軽く掃除をし、邑長に挨拶を終えると、俺たちは早々に邑を出た。
「なあ、おい。そんなに急がなくてもいいだろ。もう二、三日あの邑にいたって……邑長のおっさんもそう言ってたし」
「もう今夜の寝床の心配か?」
「ちっげーよ! 考えなしに行動するのが嫌だって言ってんの」
「いつでも準備万端にとは行かぬものよ。とりあえず動かなければならないなんてのは当たり前。今もほれ、狩人がうじゃうじゃと」
邑を出てすぐの森の中を指さす。その言葉の意味を把握してナシロとグラドラも戦闘態勢に入る。
ふむ、だが、昨日の者らとは気配が違うな。ナシロを追っているわけではなさそうだ。
ということは。
「グラドラ」
「はい。やります」
ナシロの前に手をかざし下がらせる。巻き込まれると危ない。
「下がっておれ」
「手、邪魔。心配しなくても手ぇ出さねーよ。俺が関係ないならな」
腕を組んでふんぞり返るナシロ。そうしてもらえると助かる。
「ナシロよ。三宝のうち、もっとも強力で、もっとも危険な宝。それが、これだ」
グラドラは森に向かって一歩踏み出すと、胸元に手を当てた。
「化徴紋゠転面」
グラドラが背を丸め、二度体を大きく振るわせると、その体が一回り膨らんだ。見る間に腕が伸び、尻尾が生える。額から角が伸び、体中が毛皮に覆われる。
一瞬の変化。俺とナシロの目の前に立っているのは黒髪の少年ではなく、黒い毛並みの獣だった。辛うじて人型こそ保っているが、人の指より太い爪も、鞭のようなしなやかさをもつ尻尾も、ぴんととんがった三角の耳も、人は決して持たないものだ。
大きく開いたナシロの口から、うわ言の様な声が漏れる。
「なんだ、これ」
その言葉に押し出されるかのように、獣と化したグラドラが跳躍した。
グラドラに向かって森の中から礫が乱れ飛ぶ。その数から少なくとも十数人は潜んでいることがはっきりとわかる。だが、グラドラならば大丈夫だろう。駄目そうならば逃げるように言い含めてもある。
木々をへし折り、グラドラが降り立った。轟音とともに森が揺れた。
ぱっと爆炎が閃き、伸びる影が樹に写る。悲鳴と血飛沫が爆音と共にばら撒かれる。どれも気持ちの良いものではないが、グラドラのものではないのでいくらか気分はましだ。
長い尻尾に打ち上げられた死体が木の枝に引っかかる。
鋭い爪に斬り裂かれた死体が森から転がりだしてくる。
血飛沫を避けながらナシロは呆れた口調で呟いた。
「おいおい、あいつ何もんだよ。こんなに狙われてるって、なにしたんだ? 大犯罪者か?」
「知らん」
「知らねーのかよ。ああ、まだ会って十日だったっけか。いやでも訊けよ。その様子だと今回が初めてじゃないんだろ」
「三度目だが、一度目も二度目もグラドラは己の力で片づけている。助けを求められていたのならば理由くらいは聞いたかもしれないな。まあ、話したがらないのだから聞くのも無粋ではないか?」
「無粋も何も……」
口を噤んだ。
「これでも人を見る目はある方だ。グラドラは悪い奴ではない」
「人を殺しててもか?」
「殺されそうになっているのだから仕方あるまい」
「まー、そりゃそーかもしれねーけどさー」
ナシロはそう言ってそっぽを向いた。
「じゃあ、あれ、なんなんだよ。カブリモってやつ」
「心が同じならば姿も同じ。そういうことだ」
「……思い込みってやつ?」
「間違いではない。が、本質ではない」
最も重要なのは同じであることだ。その他の全ては方法に過ぎない。言葉では散々語った。その内理解してくれるだろう。
ややあって、森の中が静かになった。どうやら全部片づけたらしい。
俺が森の中に踏み入ると、ナシロも恐る恐るついてきた。
「おーい」
「ヴ、ヴゥゥゥ……」
中々腹に響く唸り声だ。
真っ黒な目に射すくめられたナシロが一歩下がるのを感じた。
「どうだ? 終わったか?」
「お、おわった。ししょう。じゅうななにん」
しゅるしゅると人の姿に戻るグラドラ。いくら第二段階とはいえ、あれだけ人型からかけ離れていてよく戻れるものだ。俺には到底できはしない。
「いつものか?」
「いつもの、です。みな、血のにおいがしました。おれをころす気がなかったあいては、ころしてません」
生存者は三人か。
しかし、一つ気になる点がある。
「こいつは? 明らかにグラドラに殺意を抱いているように見えるが」
「こいつは……ころしたくありません」
グラドラを視線で射殺さんばかりに睨みつけているのは、グラドラと同い年くらいの少年だ。両手が別の方向にねじ曲がっているというのに、痛がる様子は欠片もない。
少年が吠えた。
「殺せ! 殺して俺を食え! 殺せ!」
まあ物騒な事よ。
とりあえず首を絞めて黙らせる。このまま放置しておけば獣の餌になるかもしれんが、それを何とかしてやる義理もない。
「よくやるものよ。人員が無限にいるわけでもあるまいに」
「おれにはよくわかりません」
「だろうな。俺にもわからん。……あっ」
またやったな。グラドラ。
「なんです?」
「服、破けておるぞ」
「これは、しっぱい」
「次は気を付けよう。反省は活かされてこそだ」
「はい。ししょう。つぎはたたかうまえにふくを」
「いいから早く服着ろばかッ!」
ナシロは顔を手で覆ったまま叫んだ。
ふむ。
改めて考えると、グラドラも年頃なのだし少しは恥ずかしがるべきなのかもしれんな。良い機会だからそこらへんも教えてゆくとしよう。
森の中を走る。枝を払い、木の根を踏み越える。
「その時、フラーヴはなんと言ったと思う? 眼前にある鋭い爪が自分の喉を斬り裂きそうなその時にだ」
「ガルシャルが食べたい、ですか?」
「ほっほほ。惜しい。実に惜しい。正解はシシリの沼を踏み越えていけ、だ」
「シシリの、ぬま、……あっ、もしかして。ここで、みっかまえのちかいがきいてくるんですね」
やはり頭の回転は速い。賢い子だ。
後ろで死にそうな顔をしているナシロにも問いかけてみる。
「ナシロもこの意味が分かっただろう?」
「……ぜっ、……かっ」
「ぜか?」
「っせ、げんに、……めろ!」
ああ、なるほど。
グラドラに手で合図し、速度を緩める。八ツ脚がかけるような速度から、人が歩くような速度へ。
すると、俺とグラドラの間につんのめるようにしてナシロが滑り込んだ。顔からいった。とても痛そうだ。
「大丈夫か?」
「何度も……何度も止まれっつったろうが!」
「すまんすまん。ちょっと話に興が乗ってしまってな。グラドラがあまりに聞き上手で、いやあこれは将来酒場の女にひっぱりだこだ」
「やった」
「話を逸らすっ、糞、ちくしょう、鼻がいてえ!」
「きゅうにとまるから」
「ある程度速度が出てしまえば別だが、踏み込みのとき、踏みとどまるときには足元に特別気をかけるべきだ。木の葉の下に何があるかわからんからな」
「うるせええぇ! そんな余裕ねーよ! お前ら、もう少しゆっくり走れ! ってかどれくらい走ってると思うんだ!」
「ああ、もうこんなじかん」
「昼食にしよう。邑でもらった保存食がある」
「そうじゃねえ! げほっ、えふっ」
「そう叫びっぱなしだと疲れんか?」
「はい、おみず」
グラドラの手から水筒を奪い取り、浴びるように飲むナシロ。どうやら予想以上に疲弊しているらしい。
グラドラも座らせ、少しの間休憩を取ることとする。
地図を確認していると、ナシロが俺たちを睨み付けてくる。
「お前ら人間じゃねーだろ」
「何を根拠に。この程度こなせねば生きてはいけんぞ」
「ほら、ナシロは、おんなのこなので」
「なるほど。失念しておった」
「女扱いしろとは言わねーけど、お前らの頭がおかしいのはよくわかった。再確認した。正しく認識した。だからはっきり言うぞ。もう少しゆっくり走ってくれ。ってか邑と邑との移動って走ってするもんじゃねーだろ。今日一日でどこまで行く気だ?」
「ここからここだ」
「地図見せられてもわからねーよ」
「いままではしったのの、にかいぶん」
「走れと? 無理!」
そんな気はしていた。
「どうする?」
「おれが、カブリモで、はこぶ」
「気色悪い。嫌だ」
グラドラが固まっている。こうした反応は初めてだったのかもしれない。化徴紋の転面以上を見て、恐れず貶せる人間は少ないだろうし。
恰好いいと思うんだが、まあ、趣味が合わないというのはよくあることだ。
「では俺が背負おう」
「嫌だよ。お前くせーもん」
「む、最近水浴びを怠り過ぎていたか?」
「それ以前の問題だ。とにかく却下」
手厳しい。だとすると。
「鍛えるしかないな」
「歩くしかないだろ」
「がんばるしかないです」
顔を見合わせる。
「グラドラ、頑張るだけでは解決しない」
「きたえてるじかん、あります?」
「いやいや、それより歩こうぜ。お前ら急ぎすぎだろ」
ここらでびしっと言っておくか。
「ナシロ。一度教えたかもしれないが、邑の外での野営は危ない。特にここらへんはまだ首抜きの縄張りだ。駆け抜けるのが一番安全だ」
「だからって、ほら、他に近道とかないのか? 普通の人間がここを一日で駆け抜けるなんて無理だろ」
「普通の人間は通らないからな。遠回りして他の邑を経由する」
「やっぱ普通じゃねーんじゃねーか! 何がこの程度こなせねば、だ!」
肩を竦めるに留めておこう。
「まあまあ。落ち着け。話していても詮無きこと。差し当たってナシロの足をどうにかせねばならん。ここは神の子らの恩恵に預かるとしよう」
「あ?」
またそれか、と不満そうな顔をするナシロと、興味津々な様子のグラドラ。
「ナシロ。俺とグラドラがやっているのは、演・転び足という。八本の脚を転がすように、落とす様に、連続して前に出すという歩法だ」
「やっぱり演か。俺にも教えろ」
「今言った通りだ。やってみろ」
「かんたん。かんたん」
「本当か?」
ナシロは言われるがままに走り出そうとして、すぐに足を止めた。
「足、八本ねーぞ」
「当たり前だ。あったら人間ではない」
「そういうきぶんでやる」
「気分だけでなんとかなるなら楽だよな」
屈伸し、呼吸を整えたナシロは、勢いよく走り始める。
木々の間に姿を消し、しかし、すぐに戻って来た。
「できないぞ」
「走るわけではないのだ。歩くのだ。気分は、だが」
「こう、うきうきとしたきぶんで、さんぽするかんじ」
「だから、気分でどうにかなるなら」
言いつつ一歩踏み出したナシロは、あっという間に木々の間に消えていく。先ほどとは違い、優雅ともいえる歩き出しだったというのに、速度は先ほどの倍はある。
ぐるりと回ったのか、逆方向から戻って来たナシロは、興奮に目を輝かせていた。
「おいおいおい、本当にできたぞ! すごいな、気分は!」
「流石に気分でできたわけではない。ナシロが神の子らゆえできたのだ」
「おれ、きぶんでできましたけど」
「グラドラは天才だ。偉いぞ」
「へへへ」
「なーんか納得いかねーけど、いーや。これで大分楽になるだろうし」
うむうむ。別に頬が緩むのを我慢しなくても良いのだぞ。技術の習得というのは嬉しいものだ。
ただ、できるようになることとそれをやり続けられるかは別だ。演は演で普通に疲れるのだ。それはこれからナシロが身をもって実感することだろう。
広げていた荷物をまとめ、いつの間にか勝ち誇った顔をしているナシロの横に立った。
「行こうか」
「もう置いてかれねーからな」
「がんばれー」
そうして、更に半日走り続け、夜の闇に追いつかれそうになったころ、目的の邑に到着した。
とりあえず、もう立てそうにないナシロに水をかける。
「よく頑張った」
「すこし、つかれましたね」
「……っ、……!」
「おお、そうかそうか。今日は美味しい夕飯と柔らかい寝床があるぞ。うむ」
「おにくが食べたいです」
「……! ……っ、……」
ナシロが起き上がれるようになるまで待つというのも悪くないが、どうせ休むなら邑の中の方がよいだろう。ナシロを小脇に抱え、邑の門へと近づく。
堅牢な石壁を見て、グラドラが不思議そうに呟いた。
「なんか、ちがいますね。むら」
「どう違う?」
「おおきいし、かたそうです。へんなかざりもあります」
グラドラの見つめる先は石壁の上部。様々な獣の剥製が吊り下げらされている。
「昨夜の邑は、隠邑という。おそらくグラドラが今まで見てきた邑はどれもそうだろう。そして、ここクアトートは戦邑だ。獣から隠れていない。獣に襲われても邑を捨てて逃げず撃退する。あの飾りの役割はわかるか?」
「……いかく?」
「その通りだ。ここにいる人間はこんなに強い、と威嚇しているわけだな」
こくこくと頷いたグラドラだが、少しの間の後再び首を傾げた。
「じゃあ、このかべは? いかくで、こなくなるなら、いらないとおもいます」
「恐れない獣もいる。正面から戦わず盗んでいく獣もいる。そうした獣が入りにくいように、入ってきても逃さず仕留められるように、壁は作られている」
「……ぬすむ」
「戦えぬ弱き者。人間は戦えない者の方が多い。そうしたものを守るための壁だ」
あかちゃんとか、とグラドラは呟いた。俺は満面の笑みで頷く。そうだ。そうやって少しずつ理解していけ。
俺は門の横に立つと、人の頭が入るかどうかという程度の小窓を叩いた。
「失礼、遅い時間になって済まないが、邑に入れてもらえないだろうか」
ややあって、僅かに小窓が開き、中の男と目が合った。
「何人だ?」
「三人」
「人攫いは入れられないぞ」
グラドラと顔を見合わせようとすると、グラドラは俺の脇を指さしていた。
おっと、うっかりしていた。
「この娘は弟子だ。少し張り切ってしごいてしまってな」
ナシロを下ろし、自分の足で立たせる。初めて歩いた赤子のようだが、それができるくらいにはなんとか回復したようだ。
「嬢ちゃん、本当か?」
ナシロは不機嫌そうに眉を顰めているが、俺の脇を一発殴ると頷いた。
「……ならいいが、入邑料は七〇〇通貨だ。三人で二一〇〇。ないなら現物でいい」
「随分高いな。以前は三〇〇だったが」
「最近妙なのが多くてな。信用料込みだ」
「ほう。済まないが今持ち合わせが心もとない。負けてくれんか」
「馬鹿言うな。無いわけじゃないならさっさと払え」
そうかそうか。
懐を漁り、通貨を取り出す。ここらの基軸通貨は確か牙だったはず。違ったとしても現物として使えるだろう。
「節食いの牙だ。いくらになる?」
「五本で一〇〇〇だな」
払えはするが手持ちが消えてしまうな。エウリィデに無心するという手はあるが、それもエウリィデがこの邑にいるならばの話だ。違うならば邑の中で野宿することになってしまう。とっておきはまだ使いたくない。
と、すると。二択か。
「この邑は不用心だな。門の夜番に独りしかいないのか?」
「獣除けが利いててね。安心安全平和な邑だ」
「ところで、ものは相談なのだが、二人だけ入ることは可能か?」
「……いくら出せる?」
「二人で七本」
そう言って八本の牙を掌に乗せる。
「二人で七本だな。構わないが、門はすぐ閉めるぞ」
「構わない」
と、不思議そうな顔をしているグラドラとやや不安そうな顔をしているナシロに袖を引かれた。
「話は入ってからだ」
俺は窓の縁に牙を八つ並べ、一つだけ指で弾いて壁の中に落とす。
すると、ややあって門が少し開いた。
二人の背を押して中に入れ、続いて俺も中に身を滑らす。続いてきた俺に大してナシロは目を剥くが、門番は特に何も言わなかった。
穏便に済んで何より。
門番が再び見張り所に入ったのを見て、グラドラが話しかけてきた。
「つうかってなんですか?」
「そっちかよ。それより二人分しか払ってねーのに入っていいのかよ。あのおっさんは何も言わねーしさ」
「なるほど。疑問はもっともだが、とりあえず夕飯を食いながらによう。腹が減っただろう」
ナシロとグラドラの腹が同時に鳴った。そして、二人とも猛然と頷いた。
この時間だと、酒場の方が良いか。エウリィデも見つかるかもしれんしな。
できるだけ人の多い酒場に入る。
すると、運のいいことに一発でエウリィデは見つかった。なんと幸先のいいことか。
「げっ」
「久しいな、エウリィデ」
「……あぁ、さらば私の平穏」
もっと嬉しそうな顔をすればよいものを。まあ言っていること自体は間違ってはいないが。
「このひとですか?」
「女か」
「うむ。エウリィデという。二人の姉弟子にあたるな。模字に関して言えば俺よりずっと巧く扱う。教えてもらうと良い」
「やった」
無邪気によろこぶグラドラを一瞥し、エウリィデはぐいと酒を呷った。
「で、何の用? 通貨なら貸さないわよ」
「そう急くな。とりあえず飯を頼ませてくれ。朝から今まで走りっぱなしでな、二人とも疲れ切っておる」
「はいはい、ご自由に」
二人をエウリィデと同じ卓につかせ、適当に飯を注文する。
すぐに運ばれてきた肉に二人は目を輝かせた。
エウリィデは呆れたようにため息を吐く。
「孤児院でも始める気?」
「まさか。弟子を取っただけのこと。二人とも強いぞ」
「懲りないわね本当に。今度はどんな子たちを拾ってきたの? アロの戦奴隷? パーンの亜獣? トスタの忌人?」
「こっちの娘、ナシロと名付けたのだが、恐らく神の子らだ」
正面に座っていたエウリィデに酒を顔面に吹き付けられた。
「は!? え? まさか使徒の拠点に乗り込んで攫ってきたとか言わないわよね? 馬鹿なの? 本当に死にたいの?」
「はは、そこまで命知らずではない」
猛然と肉にかぶりついていたナシロがその手を止め、睨み付けるようにエウリィデを見た。
「……なんだよ、使徒って」
「知らん。教えてやってくれ、エウリィデ」
「知らないなら適当言うな。このでたらめ親父め」
「そもそも神の子らってなんだよ。知ってんならもったいぶってねーで教えろよ」
エウリィデはナシロの方をじっと見て、眉を顰めた。
「この子、本当にそうなの? っぽくないけど」
「あくまで予想だ。全く異なる可能性もある。だが、演と模字を知らないままに扱ううえ、記憶がないらしい」
「あぁー、なるほど。なるほどね。それはなくはないわ。どこで拾ったのよ」
「木に生ってたのだ」
「適当言うな」
刺のある言葉と共に木の実が俺の方に飛んできたため、口で受け止める。仄かな酸味と強烈な苦みが鼻を突く。これはいい酔い覚ましになる。いくつか持って帰っておこう。
グラドラは不思議そうな顔をしてナシロの方ににじり寄った。
「ナシロは木からうまれた……?」
「ほら、師匠が変なこと言うからこっちの子が混乱しちゃったじゃない」
「人間が木からうまれるわけねーだろ、あほ。近寄んな」
ナシロに足を蹴られながら、しかし、グラドラは妙なことを言った。
「おれは、いしからうまれた。だから、木からうまれても、へんじゃないとおもう」
その場がしんと静まった。
「師匠、こっちの子はなんの、どんな子?」
「知らん」
「ほんっとーにそういう適当なとこ直して。お願いだから。絶対いつか痛い目見るから。師匠がじゃなくて私たちが」
「前向きに考えよう」
「えーと、君、名前は?」
「グラドラ」
「素敵な名前ね。グラドラはどこから来たの?」
「へんなとこです。いしばっかのいえ。あっちのほう」
「何もわからないわね。あ、君が悪いんじゃないのよ。気にしないで」
「グラドラは大勢の戦士に命を狙われている。あと、見たこともない獣の化徴紋を扱うな。素直な良い子だ」
「いい加減にしてよもー。危険があるなら最初に言って? それに師匠が見たことないって、なによ。……グラドラ、化徴紋見せてもらえる?」
「ここで? あぶないですよ」
「ああ、面を冠れってことじゃなくて、体のどこかに変な模様ない? あったらそれを見せてほしいの」
グラドラは少しの間首を傾げていたが、何かに思い当たったのか、上着を脱ぎ始めた。
嫌そうな顔して皿ごと顔を逸らすナシロと対照的に、エウリィデの視線はその背中にくぎ付けになる。その横顔には冷汗が浮いていた。
「角、牙、翼、鰭、爪、脚、尻尾。これ、鬼獣の紋、よね。多分。絶対」
「ほう。それは聞いたことがあるな」
「じっきじゅう、ってよんでたような気がします」
エウリィデは額を机に打ち付けた。そして、そのままの体勢で動かなくなる。
「一心教団だぁ……なんでぇ……私何も悪いことしてないのにぃ」
「あの狂人どもか。どおりでああも連続して襲い来るわけだ」
「うふふ、この糞親父のせいで、また命でお手玉する日々が来るのね? そうなのね? なんて可哀相な私」
「賭す命があることを喜びなさい。人生は幸福である」
と、昔の詩人が唄っていたような気がする。
暫しの間、ナシロとグラドラが肉を咀嚼する音が響く。俺もつまもうとしたが全てナシロに奪われてしまった。あれだけ疲れ果てていたというのに、よくまあ胃に収まるものだ。
ナシロが料理のお代わりをし、俺が酒を二杯空けたころ、エウリィデは勢いよく起き上がった。
「で。師匠は神の子らと一心教団の傑作を連れてこの私になんの様かしら」
「ナシロが記憶を取り戻したいと言っておる。手っ取り早く元居た場所に連れて行ってやれば、何かしら思いだせると思ってな。場所、わかるか?」
「連れてくの? 元の場所に?」
「まずは記憶を戻してやらんことにはどうにもならん。その後のことは記憶が戻ってからだ」
「ふーん……そう。その子拾った場所は?」
「ここだ」
地図を広げて見せる。それを覗き込んだエウリィデは馬鹿を見る目で見てくる。
「いつ?」
「一昨日」
「二日でこの距離移動したわけ?」
「そうだ」
「ほとんど今日一日だぞ」
「相変わらず頭おかしいわね。どうせ走ってきたんだろうけど、自分ができるからって弟子も付き合わせるのはやめなさい」
ナシロが顔を輝かせた。きらきらとした目でエウリィデを見ている。まるで人生の師を見つけたかのようだ。
よしよし、その調子で仲良くやってくれ。
「んまあ、わかった。状況はね。ナシロちゃん、記憶があるのはいつから?」
「五日前。このおっさんに拾われたのが一昨日」
「じゃあ、そこまで離れてないか。とすると」
エウリィデは目を閉じ指でたんたんと机を叩く。集中する時の癖は変わっていないようだ。
「多分ここ」
「ほう。なぜここだと?」
「長年壊れてない戦邑――ここは四十年くらい。人の出入りが少ない邑――例えば入邑料が異常に高かったりね。ここからそこまで距離が離れてない邑――東西を川に挟まれていて、西にある川に沿って南に下っていくと、対岸に渡れるようになる当たりが丁度ナシロちゃんが見つかったあたり。歩いて三日の距離。その条件に合うのがここくらい。後は、今日そっちの邑から来た人が少し多かったのと、数日前にそこの北の邑で所属がわからない戦士団が見られたのと。まあそんな感じの理由」
グラドラが目を白黒させている。ナシロも同様。
「エウリィデはものすごく記憶力が良いのだ。こうして聞けば大体教えてくれる」
「すごい」
「すげぇ」
エウリィデは二人ににっこりと笑いかけ、俺を睨んだ。
「はい。これで用事は済んだ? じゃあ私もう寝るから。お疲れ様」
「明日は早いからな。体を休めておけ」
「私は行かないわよ」
「そうつれないことを言うな」
「やーだ。師匠の仕事って割に合わないことが、多い、し」
見ると、エウリィデの服の裾をナシロが掴んでいた。
ナシロは皆から見つめられすぐに袖を離したが、ばつが悪そうに視線をさまよわせている。
「いやその、ほら。エウリィデ、さんだっけ。その……来てくれないのか? いっしょに」
見えない刃が突き刺さったかのように、エウリィデはよろめいた。そして、口元を押さえて顔を背ける。
これはいい。よくやったナシロ。
「まあこれから行くところは少しばかり危険ではあるし、どうしても嫌だと言うならば仕方ない。なに、心配することはない。娘っ子の扱いは分からんが、弟子の扱いならば心得ておる」
「ああもうわかった! わかりました。そんなこと言われて任せられるわけないでしょう。私も行くわ」
「やった」
「よっし」
情に訴えかけるのはやはり有効だな。
単純に道連れが増えて喜んでいるグラドラと、保護者になってくれそうだと拳を握るナシロ。そして、内心げんなりしながらも二人に対しては大人の笑顔を維持するエウリィデ。
もう少し人が必要かとも思っていたが、これで十分だな。
「大体ね、師匠の弟子の扱いはなってない。普通の人は死ぬようなことばかりしないこと。女の子の扱いはもっと駄目。なにこの布切れみたいな襤褸は。お湯もあげてないんでしょう。最低。本当に最低」
「ははは、善処する」
「言っとくけど、報酬は貰うから」
「通貨は言い値で用意しよう」
「それとお酒。店員さーん! ここで一番上等なお酒ください!」
そう来ると思っていた。そのために通貨をけちっていたのだ。
杯に注がれた浅瀬の海の色をした液体に黄色い声を上げるエウリィデを横目に、グラドラは首を捻った。
「つうか……?」
翌朝、宿の一階で朝食を取っていると、小奇麗な服を着たナシロが眠たそうに下りてきた。長い髪は相変わらず背中で一つに結んでいるが、服が変わるだけで随分とおしゃれしたように見える。
「今日は早いな」
「エウリィデさんに起こされた」
「その服は?」
「着ろって」
ナシロの後ろから下りてきたエウリィデだが、憎まれ口のような言葉を気にした様子はない。
「かわいいでしょ。やっぱり女の子はお洒落しないと。けど髪の毛を編ませてはくれなかったのよね。なんか気持ち悪いって」
「だって……編むのって、なんか、違う気がして」
「いいのいいの。女の子は髪にこだわりがないと」
エウリィデに頭を撫でられながら、ナシロは俺の正面に座った。そして、俺の皿から肉をつまんで口に放り込む。
「俺も食いたい」
「もう食ってるだろう」
「同じの頼みましょ。女将さーん」
「おいしい。こうふく」
「寄こせ」
「あっ。ぎょうぎわるい」
急に食卓が騒がしくなった。最近は一人旅が多かったからこの感じは久しぶりだ。
ナシロが肉を頬張りながら俺を睨み付ける。
「で、そろそろ話せよ。なんだよ神の子って」
「ん? ああ。三つ子のことだ」
ナシロは目を丸くしている。答えが得られることが意外だったのかもしれない。
「え、えらい簡単に話すな」
「別に隠し立てすることでもない」
「じゃあ最初っから話せよ」
「実を知るのが先か、論を知るのが先か、どちらが良いのかは諸説ある。どちらでもよいとは思っているが、詳細な論の前に最低限の実は知るべきだ」
「よくわからんねーけど、最低限は合格ってことか?」
「そうだ」
眉を顰めながら頬を引き攣らせるという器用なことをしたナシロは、別の肉にかぶりついた。
「それで、なんで三つ子が……ん? ってことは姉とか妹とかがいるのか? 俺に」
「まあそうとも言えるな。少なくとも兄や弟ではないと思うぞ」
「そう、か。いや、今はそっちはどうでもいい。それより、なんで三つ子が神の子らなんだ?」
「姿が同じだからだ。それこそ、親でさえ見分けがつかないほどに」
物珍しそうに酒を舐めていたグラドラが口を挟む。
「それは、べんりですね。きっと。そんなにおなじなら、できることもおなじ」
「そーよ。神の子らは凄いの。兄弟ができることは自分もできるし、自分ができることは兄弟もできる。単純に技術修得の効率が三倍よ。奇跡の子らの効率なんて目じゃないわ」
上機嫌なエウリィデは勢いのままナシロに抱き着いた。
ナシロはやや嫌そうな顔をするが、振り払うことはしない。美しきかな姉妹愛。
「それでか。俺がまったく記憶にない演やら模字を使えるのは」
「その通り。恐らくナシロの姉か妹が扱えるのだろう」
「それで、そんな三つ子が特別だから崇めてるって?」
「使徒、と自称する集団はそうよ。普通の人間はさほど気にしないんだけどね。その特殊性は二十代になる頃には失われるし」
「そうなのか?」
「人は生きていれば怪我をするのでな。大きな傷が残り、同一性が失われれば、それで終わりだ」
ぎょっとしてナシロは自身の体を撫で回した。それは反射的な行動のようだった。そして、すぐさまそうした行動をとった自分が信じられないかのように自分の手を見つめる。
本能か、それとは別の何かか。
記憶の残滓だと良いのだが。
「じゃあ、いっしんきょーだん、というのは?」
「一心教団というのは、化徴紋によって一の獣に成ることを目指す集団だ。その為には手段を問わないため、厄介さで言えば使徒とどっこいどっこいと言ったところか」
「おお。どっこい」
「昔はもう一つ厄介な集団がいてな。火色の刃という盗賊の集まりなんだが」
「もう無くなった組織の話はやめましょ。それよりお客さんよ」
耳を澄ますと砂をにじる音がした。服がこすれる音もする。三人か。
ナシロは面倒くさそうな顔をする。
「またグラドラか? 面倒だなおい」
「いや、人数的にナシロの方だな。敵意は無さそうだ。話を聞くか」
「えー……」
なぜそんなに嫌そうなのか。自身の記憶の手がかりだろうに。
「エウリィデ、二人眠らせてくれ」
「師匠がやればいいじゃない」
「邑中で騒ぎにしたくないのだが」
「どっちがやっても変わらないでしょうに。ま、いいわ」
珍しくやる気だな。弟子たちに良いところを見せたいか。ありがたい。できれば二人には本物の模字を見せておきたいのだ。
エウリィデは素早く食堂に目を走らした。整地のための目星。常人であれば二呼吸は必要であろうそれを、エウリィデはまばたきをする間に終わらせた。
床の傷を踵で擦って短くする。
「爪痕」
杖の先で壁に穴を二つ。
「春陽」
転がる小石を僅かに寄せる。
「燻る大燈」
卓上に木屑を撒き、拍手を三回。
「始獣譚七章八節。寝屋の前で臥せる獣は遠雷を揺籃に霞へ堕ち征く」
宿屋の周囲でぼわっと煙が立ち、窓の陰に立っていた三人の脚から力が抜ける。相変わらず見事な腕前だ。たった四手で一節を再現して見せるとは。もしかしたら以前より上がっているかもしれない。
倒れる前に頭を打たないよう支え、二人を手早く縛り上げる。そして、誰かに見られる前に宿の中に引っ張り込む。
宿屋の女将さんは驚いたようだったが、そう珍しいことでもないのかすぐに料理に戻った。
「今のなんだ?」
「けむり? どくですか?」
「そういう具体的なものじゃなくてね、なんて言えばいいのかしら。要するに状況を再現すればいいのよ。昔、家の前で寝ている獣がいた。その時、天井には爪の痕が、床には入り口から差す陽光があった。そうだとしたら、天井の爪痕と入り口から差す陽光があれば、家の前にいる獣は眠ってしまう。そういうものなの。だから、模字でそういう状況を再現したの」
おお、きちんと講釈してくれているな。大いに助かる。できないことを自信満々に語るのは難しいのでな。
「そんなこと、できるのか?」
「勿論、簡単な事じゃないわ。始獣譚っていう一の獣の記録を全部覚えた上で、そこら中にある傷跡から再現に使えるものを瞬時に選ばないといけない。必ずしも目的の事象を再現できるとは限らないから、常に複数の選択肢を持ってることも重要。場合によっては模字を書いて、消して、ずらして、動かして」
グラドラが救いを求めるようにして俺を見た。
すまない。俺もできんからどうしようもない。
「二人でよいと言ったのに」
「三人眠らせて一人起こした方が安全でしょう」
「そう眠らせて起こしてを繰り返してはかわいそうだろう。頭が悪くなるかもしれん」
縛っている二人をそこら辺に転がし、縛っていない一人を椅子に座らせると、ナシロが眉を吊り上げて近づいてきた。
「とりあえず起こすぞ」
ナシロはそう言って椅子に座らせた男の頬をはたいた。
起きない。
「ぶん殴るか?」
「らんぼう」
グラドラが水をぶっかけてみた。
起きた。
では、質問するとしよう。
「う……ぁ……なんだ、急に、頭が、あ」
「黙って質問に答えろ。お前らなんだ? こそこそ後付け回しやがって」
中々貫禄があるじゃないか。
「わ、我々は使徒であります! 貴女様の使徒です!」
ナシロは俺を見る時以上に嫌そうな顔をした。
「なんか前の奴等と全然違うんだが」
「敬虔さにも度合があるということだ」
「なんか背筋がぞわっとする」
「崇められるのは慣れてないか?」
「慣れてる奴なんかいねーだろ」
普通はな。
「で、どこに連れてこうって?」
「帰るのです。神の子らのもとへ」
「どこだって聞いてんだ。場所だよ場所」
男はきょろきょろと視線を漂わせた。俺たちに聞かれるのは嫌らしい。
「話せ」
「他の者がいる場所では」
「いいから話せ」
「……駄目です! できません!」
ナシロの目が狂暴な色に染まるが、拷問だのなんだのはする気分ではない。グラドラの教育的にも悪い。
と、エウリィデが口を挟んだ。
「スフィートでしょ? 本拠地は」
口を噤んだこと自体が答えだ。
「答え合わせも出来たことだし、もう出ましょ」
グラドラがまっすぐに手を挙げた。どうやら何か言いたいことがあるようだ。
「このひとに、あんないしてもらえばいいのでは?」
全員の目が椅子に座らされた男に集まった。
男は顔を引き攣らせながらも首を横に振った。
「嫌だそうだ」
というわけで眠っていてもらうことにする。
首をきゅっとすると、三人とも目を逸らした。占め落された男の股間からは尿が滴っていた。
宿を汚してしまった。
「では走るぞ」
「はい」
「嫌よ」
「嫌だね」
賛成二、反対二で真っ二つだ。予想はしていたことだが、どう説得すべきか。
「夜の心配は私がいるから問題ないでしょ。急ぐ用事でもないんだから歩いていきましょう」
反論が思いつかんな。
「ナシロは早く記憶取り戻したいのではと思っていたのだが」
「別にいーよ。疲れるし」
本人がそう言うならそれでいいか。
俺が納得しかけているとグラドラに袖を引かれた。
「むらのそとは、よる、きけんなのでは」
「それはな――後でわかる。とりあえず歩こう」
グラドラは不思議そうに首を傾げたが、ナシロは満足げに頷いた。
歩き始めるとすぐにエウリィデは口を開いてお喋りを始める。人の声によって来る獣も多いためあまり推奨されない行為だが、あまり気にしている様子がないのは俺への信頼故か。
「そういえばちゃんとした自己紹介してなかったものね」
「っても俺、自分のこと全然覚えてねーし」
「そうね、そういえばどうして記憶がなかったのかしら。頭を強く打ったとか?」
「起きた時頭にでっかいこぶができてたから、多分そうだと思う。血は出てなかったんだけど、こう、ぷっくり膨らんでて」
手でさするナシロの頭をエウリィデは覗き込み、そっと手で触れた。おお。俺がやると殴られそうだが、ナシロはまったく気にしていないようだ。
「どこかしら。ここ? ああ確かにまだ少し膨らんでるわね。でもすぐに消えるから大丈夫。これなら痕も残らないわ」
「何してたんだろうな、俺。森の中で頭打って気絶って、ひょっとして死ぬことろだったんじゃ」
「そのかのうせいは、あった、とおもう」
「ナシロは運が良いな」
「運が良すぎておっさんに拾われちまったけどな」
「そう褒めるな」
「今のを前向きに受け止められる師匠は人生幸せそうね」
ナシロとエウリィデが肩を竦めた。俺とグラドラは大きく頷く。
前向きに生きていれば人生は幸福である。
「グラドラ君は昨夜気になること言ってたわね。石から生まれたとか」
グラドラはきょろきょろと視線を漂わせて、エウリィデに囁いた。
「へん?」
「変ではないけれど、一般的ではないわね」
「こう、とうめいないしのはこで、みずがつまってて、もぞーしきゅーってなまえの。それからうまれたそうです」
「模造、子宮?」
「……一心教団ってそんなことしてるの? できるの?」
「知らんな」
それより二人とも、グラドラが不安そうな顔をしている。もっと安心できるように笑いなさい。
「生まれなど気にするな、グラドラよ。大事なのはどう生きてゆくかだ」
「……! まえむき」
一心教団のことを訊いて良いかとエウリィデが目で尋ねて来たので、止めておけと目で伝えておく。世の中には知ってよいことと知らない方が良いことがあり、一心教団に関しては後者寄りだ。命大好きなエウリィデが聞くことでもあるまい。
「どういきるかはきめてます。すきなようにいきます」
「男らしい生き様だ。だがそれには力が必要だ」
「ちからがほしいです」
「ふ、その点は安心しなさい。俺の弟子は力を手にしてきた。グラドラもすぐに理解できるだろう」
「師匠ってなんもしてなくない? 私何か教えてもらった記憶ないけど」
「俺も、教えてもらったような教えてもらってないような……」
「教えるのは技術だけではないのだよ」
「尚更教わった記憶ないわ」
「おーい、こんなかで一番古株の弟子がこう言ってるぞ。なんとか言えおっさん」
「あ、グラドラ、あれ見えるか。あの遠くに飛んでいるのが削ぎ鱗だ。あいつの鱗は硬いぞ」
「おおー、そら、とんでますね」
「話逸らしやがった」
それから四人でのんびり森の中を進んだ。道中、小さな獣が襲ってきたりしたが、それらは余すことなく食料にさせてもらった。川辺を進めはしなかったが点々と湧水があったため水にも苦労せず、進行が遅いこと以外は問題のない道程だった
しかし、エウリィデはよくしゃべる。まるで相手のことを全部知りたいのかと思うほどに根掘り葉掘り全部聞こうとしてくる。ナシロはまだついて行けているが、グラドラは走っている時より疲れて居そうだった。
休憩を挟みつつも歩き続けていると、やがて陽が傾きはじめ、野営を考える時刻になった。
「じゃ、頼むぞエウリィデ」
「はいはい。三人ともそこの樹のそばから動かないでね」
十人の大人が手を繋いでも足りないほどの太さの幹を持つ樹の周りを、弓杖を持ったエウリィデが動き回る。葉の位置、枝の位置を調整し、地面に模字を描き、石を積み、水を撒く。
「始獣譚九章一節。草編み木組む獣は騒音を隔絶し夜に溶け消える」
エウリィデが杖で地面を突いた。
「模字か、なんか前より色々書いてるけど」
「そうだ。朝までもつよう丁寧に結界を張っている」
「けっかい?」
首を傾げるグラドラを結界の外に押し出す。すると、グラドラは眠たそうな目をまん丸に見開いた。
「ししょうが、きえた……!」
消えてはおらんが、口にしてもグラドラには聞えん。結界の縁ぎりぎりに立ち、腕だけをグラドラの方へ突き出す。
「おお、てがういてる」
「何言ってんだこいつ」
ついでだ。ナシロの事も結界の外に放り出す。
ナシロは怒り狂った顔でこちらを振り返るが、グラドラと同様に目を丸くした。
「いねえ。どこに消えやがった? ってか樹もねーじゃねーか」
「ふしぎ」
「うげ、本当に手が浮いてやがる。これおっさんの手だよな? 気味悪ぃーな」
とりあえず手招きをし、近づいてきた二人の肩を掴んで結界に引き込む。
「どうだ?」
「てめ、触んなっ」
「触らないと結界に引き込めないのだ。気づかずうちに避けてしまうからな」
暴れるナシロの頭をついでとばかりにわしゃわしゃと撫でると、本気で嫌だったのか演・滑り刃を繰り出してきた。それを避けつつ、グラドラの方へ向き直る。
「ここは見られず、聞かれない。安心して寝られるだろう」
「おお。おれにもできますか?」
「うーむ、流石に難しいかもしれん。後でエウリィデに教えてもらおう」
「はい」
次いでナシロから飛んでくる蹴りを避けていると、上の方からエウリィデの叱責が飛んできた。
「三人とも! 遊んでないで寝床作るの手伝って!」
「ほれ、エウリィデに怒られるぞ。ナシロもな」
「ちっくしょうが!」
ナシロは俺に向かって思いっきり舌を出すとするすると木を登って行った。
グラドラの方を見ると同じように舌を出している。
「これ、なんですか?」
「大好き、という意思表示だ」
「なるほど」
「出しっぱなしだと舌が乾いてしまうから、たまにしかやっては駄目だぞ」
「はい、ししょう」
まったく可愛い弟子たちよ。
そうして、いそいそと寝床の準備をし、森の中での夜を穏やかに過ごすのだった。
クアトートからスフィートまでは走れば一日で到着するのだが、歩いたがゆえに三日もかかってしまった。途中一つの隠邑を経由し、一日野宿。
この三日でナシロとグラドラはすっかりエウリィデに懐いた。ナシロはいまだに俺をおっさんと呼ぶが、エウリィデのことはしっかり名前で呼んでいる。グラドラなんてねえさん呼びだ。
しめしめ、といった感じだ。
「生きている限り繋がりは増えていく。人生は幸福である」
「あん? なんか言ったかおっさん」
「いや、なに。邑が見えたのでな」
「本当か?」
灰色の壁が見える。防腐加工を施した木材を芯に灰骨と粘土を混ぜ合わせたもので固めた壁。硬く、腐らず、修繕が容易。一般的な戦邑の壁。
しかし、少し違和感が。
「……かざりが、すくない」
「確かに、獣除けが少ないな」
エウリィデが嫌そうな顔をした。
「というかこれ、もう駄目なんじゃない?」
門の横にある小窓に近づき、叩く。
返答はない。
「グラドラ」
「はい」
「この紐を持って城壁を登って超えてくれ」
「わかりました。化徴紋゠序面」
グラドラの腕が伸び、黒い毛に覆われ、爪が伸びる。ただし、前回とは異なり、今回は腕だけだ。
「なんで腕だけ?」
「全身を変えるのは危険だからだ」
「エウリィデさん。教えてくれ」
「化徴紋は心から獣になるから、変化の制御がとても難しいの。最悪、自分が自分であったことを忘れて、元の自分に戻れなくなる可能性があるくらいに。だから今回みたいに必要な部分だけ変化させるってのも重要で、それが第一段階。序面と呼ぶわ」
これはいい。もう説明は全部エウリィデに任せるか。
「シュー? 全部で何段階くらいあるんだ?」
「一応、三段階。一段階目が部分変身、二段階目が全体変身。三段階目が完全変身」
「……ふーん」
と、縄が引かれた。上を見ると登り切ったグラドラが上から見下ろしている。
「二人とも、少し下で待っておれ」
縄を手に取って登り、城壁を登り切り、グラドラの横に立つ。
眼下には、予想通りの光景が広がっていた。
「ひとが、いません」
「やられたか。だが、壁は壊れてないな。家の損壊もほとんどない」
「くさったにおいは、しない。ちのにおいも」
「この規模の戦邑がやられた割には妙な話だ。どう思う?」
「かしこく、きまぐれ。そして、とてもつよい。ちょっとつまんだだけ。だからむだにころしてない。食べたいぶんだけころした」
「恐らくそうだろうな。戦いにすらなってない。ただ、だとしたら邑人はどこへ行ったのやら」
「にげたのでは?」
「この規模の戦邑を捨てるのはあまりしない。大抵は応援を呼ぶ」
理由があって人が呼べなかったのか。神の子らのせいか?
縄が引かれた。どうやらナシロが登りたがっているらしい。
「まだいそうか?」
「わかりません」
「中に入ってみるしかないか。ナシロ! 内側から門を開ける! 少し待て!」
縄を内側に垂らし、俺が先に下りる。着地しても特に変化はなし。念のためにグラドラは壁の上に待機させ内側から門を開けるも変わらず。
「どうした?」
「人が一人も見えない」
「それって、やばいのがいるんじゃないの?」
「かもしれん。ささっと中を見て回ってしまおう」
「私たちは外で待ってるって案は?」
「ナシロが中を見て回らんと意味が無いだろう。グラドラとエウリィデだけ外で待つと言うならば構わんが」
「おれもみてまわりたいです」
「私だけ外で待つのは嫌ね。真っ先に死にそうだわ」
「そういことだ。……ナシロ?」
ナシロが邑の入り口に足をかけた体勢で固まっていた。目を見開いて邑の中を見ている。
「ナシロちゃん?」
エウリィデが近づいて肩に手をかけると、ナシロは我に返ったようだった。目じりに涙を浮かべてエウリィデの方を見る。
「見覚えある? 何か思い出せそう?」
「少し、ある。多分」
「気分は悪くなってない? 大丈夫?」
「ああ、悪くはない。ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
そう言ってナシロは首を振った。どうやら問題は無さそうだ。
では、見て回るとしよう。
「まずは目立つ建物からだな。あの一番大きい建物からにしよう」
邑の中央にある建物。かなり天井が高いが恐らく一階建ての建物。集会場か何かだろうか。宗教的な建物かもしれない。
道行く途中、グラドラはうろちょろしながらそこら中の玄関の扉を開け閉めしていた。何かが見つかったりはしないようだが、隠れていた獣が飛び出してきたりもしない。エウリィデは気が気ではないようだが、そこまで気にせんでもいいだろう。近接戦闘に限って言えばグラドラはエウリィデより遥かに強い。危機にも敏い。言動は幼くとも立派な男だ。
それよりも気になるのはナシロだ。怯えた雛のように異常なまでに大人しい。何も思い出せないのか。それとも、何かを思い出してしまったのか。
耳を澄ませながら歩いていると、俺は嫌なものを見て立ち止った。
「爪痕だ」
「うわ、これは……首抜きね」
グラドラが近寄ってきて地面に刻まれた傷跡に手を当てる。爪一本分の幅はグラドラの拳より太く、深さは手首まで潜るほど。
「くびぬき、ですか。つよい、ですか?」
「向かい合えばわかる。遭ってしまったら逃げなさい」
「気をつけます」
エウリィデは溜息を吐いた。
「もっとしっかり言い含めないと駄目でしょ。あのね、首抜きってのは本当に危険で、こんな規模の戦邑も捨てなければならないほどなの。見た目で言えば――」
おっと、説明している時間はなさそうか。
「皆、逃げなさい」
拳を瘤のように固め、振り下ろされようとしている大木のような腕に横から叩きつける。演・地均し。並の獣の胴ならばぺちゃんこにできるのだが、こいつの腕は軌道をずらすのが精いっぱいだ。
続いて横薙ぎに振るわれる腕を演・滑り刃で切り飛ばす。一撃目に気付けなかったエウリィデでも、本体から切り離されて飛んでいく腕くらいは避けられるだろう。
地面に半ば埋まった腕が護謨のように撓みながら戻っていく。切り落とした方の腕も断面から生えるようにして再生していく。その根元には人が抱えられる程度の毛玉。
ナシロはエウリィデが引っ張っていった。だが、グラドラが戦う気になっているのがまずい。
「化徴紋――」
それは、更にまずい。
面を被る一瞬の間を刺そうと、首抜きが雷のような速度で両腕を伸ばしている。グラドラは全く反応できていない。
致し方なし。
掌をぐいと広げ、押し出すようにして打ち抜く。演・滝打ち。狙うのはグラドラ。
鋭い爪がグラドラの首を斬り裂く直前、なんとかグラドラを弾き飛ばすことに成功する。だが、それは首抜きの狙い通りだったようで、腕の側面から伸びる鍵づめが俺の右手を斬り裂いた。
とても賢い。俺が庇うことまでお見通しというわけだ。
だがやられっぱなしも癪だ。
演・流れ身でもう一本の腕を躱しつつ踏み込み、演・霧昇りでその胴体を思い切り蹴りあげる。
地の果てまで飛ばすつもりで蹴ったが、屋根よりわずかに高くまでしか浮き上がらなかった。原因は単純で、右腕が使えずに均整が崩れたことにより演の精度が大幅に低下しているせいだ。最初の一手の遅れが致命的に響いている。
全くもって苦境というわけだ。
このくらい浮かせた程度では伸びる腕によってあっという間に地上に戻ってくるが――。
「始獣譚五章十一節。翼を展ばし雲を踏む獣は暴風に惑乱し彼方へ遊す」
急に吹き荒れる突風に、首抜きは彼方へと吹き飛んでいった。
優秀な弟子だ。
「師匠」
「止血だけして身を隠すぞ。グラドラ、大丈夫か」
そんなにしょんぼりしなくても良かろう。首抜きに敵わないのは仕方ない。
ナシロもそう慌てるな。
「止血はいいけど、匂いをなんとかするのは無理よ。水場があるならなんとかなるけど」
「水場があるならばそもそも完治させられるだろう。切り落とすしかないか」
「切り落とす!? なに言ってんだおっさん!」
「匂いもしないほど血を止めてしまえば手が腐る。かと言って匂いをさせていては見つけられる。左手は暫く使い物にならん。だから切り落とす」
「ししょう、だめです」
「そうだよ。切ったら左手使えなくなるんだぞ」
何を当たり前なことを。
「承知の上だ。それより時間がない。ナシロ、頼んだ」
血の垂れる腕を差し出すと、ナシロは食べられない臓物を見る眼で見てきた。
「嫌だよ」
「師の腕を切り落とすのが嫌だという殊勝な心掛け」
「気持ちわりぃ」
「まあそういう意見もあるだろう」
しかし、グラドラに頼むのは酷だ。エウリィデに切らせるのは時間がかかりすぎるが、これ以上揉める方が時間の無駄か。
仕方ない、とエウリィデに頼もうと振り向くと、強い目をしたグラドラと視線が絡まった。覚悟ができている男の目だ。
「頼めるか」
「はい」
と、グラドラの滑り刃で俺の右手の手首から先が切り離された。
「ぎゃああああああ!」
もの凄く痛い。
周りの三人が体をびくりと震わせるが、そんなことに構っている暇はない。手首を清潔な布で覆い左手と歯で引き絞る。更に痛い。思わず悲鳴が漏れる。ぐるぐるに巻いて結ぶ。痛い。
「急に悲鳴上げんな!」
「思ったより痛かった」
「師匠が悲鳴上げたのは初めて見たわ」
「手を切り落としたのは初めてでな」
「ご、ごめ、ごめんなさ」
「ああ、謝らんでよい。すまない。びっくりさせてすまない」
グラドラを泣かせてしまった。少し冗談が過ぎたようだ。
落ちている右手を思い切り投げて匂いを散らし、三人を連れて目の前の建物に逃げ込んだ。
講堂の入り口扉に手を駆けながら、ナシロは不安そうに呟いた。
「遠くに逃げなくていいのかよ」
「首抜きは絶対に群れない。それを踏まえると、今だけは絶対に首抜きがいない場所がある」
「……あ、そ。今のうちってわけな」
「不安なのは分かるけど、森の中だと絶対に逃げられないから。師匠が万全なら迎え撃つって手もなくはなかったんだけど、それもできないし。折角来たんだし、開き直りましょう。首抜きは気まぐれだから、必ずここに戻ってくるとも限らないし」
「わかった。エウリィデさんが言うなら」
ナシロが丁度納得してくれたところで、建物の規模の割には狭い廊下を抜けきった。
いくつもの長椅子、少し高くなった中央の壇、開放感のある高い天井。そこは、予想通り集会場のような場所だった。
「ここ、は」
ナシロが頭を押さえて蹲った。すぐにエウリィデが寄り添う。
「ナシロちゃん、大丈夫?」
「ここ知ってる。気がする。やばい、なんか頭が、割れそう」
「少し横になりましょうか。はい、敷き布広げたから、ゆっくりと」
「あ、ありがとう。俺、おかしい、急に」
「大丈夫だから落ち着いて。ゆっくりと息を吐くの。そして腕を頭の下に置いて。そうそう横向きにね」
顔は青白く、額にはうっすらと汗がにじみ出ている。それは高熱に浮かされる子供のようで、横になる事さえ辛そうだ。
とはいえ、俺にできることはない。エウリィデに任せるとしよう。
「グラドラ」
「はい」
返事に力がないな。死にそうになったことがそれほど衝撃だったか。
「ナシロはエウリィデに任せて少し見て回ろう。危険がないとも限らんしな」
「わかりました」
「頼むぞ。今はグラドラが頼りだ」
「はい。ししょうは、ひだりてがなくなったので、きんせい? ちょーわが、なくて」
「そうだ。難しい言葉を知っているな。偉いぞ」
「だから、これから、たいへんです」
「ふふ、グラドラよ。苦難こそが人を成長させるのだ」
「……! とってもまえむき」
少し力が入ったか? だがまだまだだ。さてどうやって活を入れようか。
世間話でも振ってみるか。元気づけるにも奮い立たせるにもまずは相手のことを知らねばな。
うっすらと埃が積もった取っ手を捻り扉を開けると、薄暗い廊下が伸びているのが目に入る。その陰気さに負けぬよう、できる限り明るい声を出す。
「首抜きに遭ったのは初めてか?」
「はい。とてもはやくて、つよくて……おれは死んでました」
「死んでなどない。そんなことは俺の目が開いているうちはさせはせん」
「めんをかむるひまが、ありませんでした」
「今回は不意打ちだったからな。来るとわかっており、きちんと間合いと呼吸を読みさえすれば、面を冠る機会もあるぞ」
「ほんとうですか?」
「本当だ。それに、グラドラには化徴紋だけでなく演もあるだろう? 自信を持て。今回は油断しただけだ。次はきっと上手く行く」
む、これは響かんか。別に死に向かい合って恐怖を感じたわけではなさそうだな。
「グラドラは死ぬのは怖くないか?」
「なれてます」
「慣れているか。その歳で」
「たくさん、ころしあいをしたので」
がちゃり、と硬質な金属音が響く。この部屋には鍵がかかっているようだ。
「それはなかなか幸運だ」
「こううん?」
「ああ。まず、殺し合いをして生きているという時点で運が良い。そして、殺し合いというのは悲惨な経験だ。これ以上ないくらいに嫌なことだ。そういった経験をしていれば、これから少しくらい嫌なことがあったとしても、気持ちが負けることは無いだろう。それはきっと幸運なことだ」
よくわからなかったのか、グラドラは首を傾げた。
「殺し合いをしていたのは、この前襲ってきた少年か?」
「はい」
「ということは、あの少年にも鬼獣の紋が刻まれているのか」
「たぶん、そうです。カブリモをつかえます」
つまりは、グラドラと同じ境遇だったということか。それならば、殺したくないという言葉にも納得できる。子ども同士の殺し合いか。気分がよくないな。
一心教団の本拠地は、マルムートだったか?
「グラドラ。この件が落ち着いたら、一心教団を潰しに行くか?」
グラドラはキョトンとした顔をした。俺の言葉がまったくの予想外だったようだ。
「つぶす? え、でも」
「無理だと思うか?」
「いえ、そうはおもいません。でも」
グラドラは不思議そうに首を捻った。
「もうつぶしましたよ?」
む。
これは苦笑いをするかないな。
「そうかそうか」
「はい。しせつ、をぺしゃんこにして、わるいやつらはころしました」
「凄いぞグラドラ」
「がんばりました」
「うーむ。一心教団は戦邑でさえ手を出すのは控えるのだがな。そうか。奴らは既に残党か」
「いろいろこわしたので、もうできないとおもいます。いしからうまれさせて、そだてるのも。こどもをむりやり、ころしあわせるのも」
「後悔はないか?」
「ないです。やりたいことをしました」
その瞳は純真で透き通っていた。俺が教えるまでもなく、グラドラはとっくに自分の基準を持っている。ならば導く必要などはない。ならば善悪を語る必要もない。
ただ、少しばかり釘を刺しておこう。
「グラドラ。一つだけ覚えておくべきことがある」
「なんですか?」
「心が同じならば姿は同じ。しかし、逆もそうとは限らん」
「……そうですか?」
「そうだ。例え獣の姿をしていようが人は人だ。面を被っていようとグラドラはグラドラだ。グラドラがこれからも化徴紋を使い続けるというのならば、これだけは忘れるな」
と言っても化徴紋の基本中の基本だ。誰もが真っ先に教わることだ。そこまで気にすることもない。
話しているうちにいつも通りにぼんやりとした雰囲気に戻ったグラドラと共に、その建物内を見て回ったが、特に珍しいものはなかった。
戻ると、エウリィデの太腿を枕にしてナシロは眠っていた。
「どう?」
「とくに妙なものはないな。だが、妙なものだらけだ」
「また謎かけみたいなことして……。さっさと話しなさい」
順序よく説明するのは中々難しいのだ。
「まず、特に荒らされた形跡はない。全体的にきちんと片付いていた。おいてあるものも一般的な家具ばかりで、人が隠れていたりもしなかった」
「妙なものはなかったと。で? じゃあ何が妙なのよ」
「どれもこれも埃かぶっていた。それも五日や十日ではない。少なくとも一年以上。下手すると五年くらいは誰も使ってなかったもしれない」
「それは、妙ね。ナシロちゃんが逃げだした日と一致しない」
「単に使われてない建物かとも思ったが、別にここはそんなことは無いだろう? 埃は積もっているが、多くとも三日分だ」
「埃かぶってた部屋が使われてないだけじゃない?」
「ここ以外のほぼすべての部屋がだぞ? この大きな建物に独り暮らしか?」
エウリィデは顎に手を当てて考え込み始めた。妙だと言ったことは納得したらしい。
「まあいい。それより、ナシロの様子はどうだった? 何か言っていたか?」
エウリィデは眉に皺を寄せ、ため息と共に呟いた。
「少し思い出したそうよ」
「いいこと?」
「良いことではあるだろう。だが、その様子だと悪い方の予想も当たったということか?」
「ええ。消えたくないと言っていたわ」
死にたくない、ではなく消えたくない、か。
記憶を取り戻させるのはまだ早かったか。いや、時期の問題ではない。順番の問題だ。どちらにせよいつかは思い出すのだ。ならば、思い出すべきを先に。
袖を引かれた。グラドラだ。
「きえる?」
「うーむ。そこは非常に微妙な話でな。もう少しナシロが落ち着いたらナシロに直接聞いてみなさい」
「はい」
返事をするな否や、グラドラはナシロの頬をつっついた。
次の瞬間、ナシロの両目がかっと見開かれ、右手が目にもとまらぬ速さで動いたかと思うと、グラドラの指を掴んだ。
「……なんだてめえ?」
「おはよう」
「この指はへし折られてえってことか?」
「ちがう、ききたいことがある。すこし」
ナシロが指を曲がらない方向に曲げようと腕を捻ると、グラドラは身をくるりと転がしてそれに抵抗する。即座に逆の方向に切り返しても同様。ナシロがエウリィデの膝から身を起こして、なんとか傷めつけてやろうとするが、グラドラはひらひらと舞うように受け流した。
仲良きかな。
「はい、そこまで。ナシロちゃん、やり過ぎよ」
「でもこいつが!」
「グラドラくん。女の子の体に勝手に触っちゃ駄目よ。ほっぺたなんて特に駄目。寝てるときなんて最悪」
「わかりました。きをつけます」
「ぐぬぬぬ」
ナシロを地面に叩きつけるようにして指を離し、鼻息荒くそっぽを向いた。
「体調はどうだ、ナシロよ」
「平気だ。ちょっと立ち眩みしただけだ」
師の前で見栄など張らんでもいいというのに。
「ナシロ。ここを去るというのも可能だぞ」
「どういう意味だ?」
「別に今ここで記憶を取り戻さなくても良いということだ」
ナシロは迷っているようだった。手が少し震えている。
だが、エウリィデの手が肩に乗ると、それに勇気づけられたのか、胸を張って俺を睨んだ。
「はん。問題を先送りにしてびくびく怯えて暮らすのはごめんだな。明快な解決策がないなら尚更だ」
虚勢だとしても張れるならば問題なし。
「では、進むとしよう」
「どこへ?」
エウリィデの冷たい瞳が俺を見る。勿論。
「これから考える」
「今のやり取りの意味は?」
「前進することが決まった」
「前ってどっちだよ」
随分と哲学的な問いだ。思わず首を捻ってしまう。
女性二人から溜息が漏れた。意思統一と言明は重要なのだが、どうやら二人は嫌いらしい。
急にグラドラが地面に伏せた。
「どうした?」
「おとがした、きがして」
む。
俺も地面に耳をつけ、そして諸々に合点がいった。
「地下か」
「なんか下から音したのか? 地下室?」
「地下室ではないな。おそらく、もっと大規模なもの、地下の邑だ」
俺の言葉にぴんときたらしいエウリィデが、目を閉じて自分の腿を指で叩いた。
「ってことは、上の邑は全部飾り?」
「その可能性が高い。首抜き相手に邑を捨てるのに抵抗がないわけだ」
「首抜きに待ち伏せされてたのも」
「俺たちを待ってたわけではない。ここを、巣の入り口を張っていただけということ」
ナシロは話になんとかついて行こうと目を泳がせていたが、最後の一言にぴんと来たのか手を叩いた。
「ってことは、ここに――」
「ああ。恐らく入り口がある。そして、大部分の人は無事だ」
グラドラも理解したらしく、大きく何度も頷いた。
唐突に凛とした声が響く。
「……ご明察です」
声のした方向に目を遣ると、中央にある壇の床から人が出てきていた。俺が話し終わるのを待っていたのかもしれない。
三人か。年配の男性と、屈強な男女。
ナシロが腰を低くして構える。
「なにもんだ?」
「貴女様の使徒です。よくぞお戻りになられました」
「きもちわりぃ」
ナシロが道端の吐瀉物を見ているような顔をする。
「この娘の姉妹は無事か?」
「神の子らは無事です。擦り傷ひとつありません」
隠す気なしか。先ほどの作戦会議を聞かれていたか? いや、そういった態度にも見えない。単純に推察か。ここまでナシロを連れて来ているのだから、事態をある程度把握しているのだろうという推察。
はてさて。だとするとどうするか。まさか向こうから出てきてくれるとは思っていなかったゆえ、どういう手を打つか迷う。鍵を探していたら宝箱が勝手に開いてくれた状況だ。うま過ぎる。
「首抜きは、もういないようですね」
「追い払った」
「おお、素晴らしく腕が立つのですね。ありがとうございます。邑の者も感謝しております」
やりにくくはあるが、とりあえず取り押さえるか。
しかし、俺が一歩進み出た瞬間、聞いた者の魂を絞め殺すような咆哮が響いた。
首抜きだ。近い。
邑の、いや、既に――入口か!
伸びてきた腕を演・滑り刃で切り落とそうとし、右手がないことを思い出して体当たりに変更する。不格好ではあるが、今はこちらの方が確実だ。
即座の追撃はなし。狭い入り口からは片手しか伸ばせなかったらしい。だとしたらやりようはあるか?
しかし、そんな俺の見立てが誤りだったことは、轟音と共に崩れようとしている天井を見れば瞭然だった。もう片手は上からか。相変わらず首抜きの馬力は異常だな。立派な講堂が砂細工のようだ。
ナシロへの瓦礫は地下から現れた男女が、エウリィデへの瓦礫はグラドラが弾いている。大振りの腕は地面を叩き割り、一瞬で周囲に砂塵が吹き荒れた。
不意打ちの第一陣は凌げたが、鳴いている暇はなさそうだ。
「こちらです!」
このままだと全員死ぬな。地下の邑は恐らく安全。足止めは必要だが、既に奴らは逃げの一手。首抜きの相手は上手く押し付けられたか。癪ではあるし、状況はかなり悪いが、致し方なし。一時的に乗ってやるしかあるまい。
「グラドラ! ナシロと行け!」
男たちに腕を引かれるナシロと、どちらに対応すべきか迷い動きを止めるグラドラ。エウリィデは、俺の意図を読んでいるようだ。
続いて伸びてきた腕に背を斬り裂かれるが、この程度はかすり傷。気にせず叫ぶ。
「ナシロを守れ!」
縮む際についでとばかりに俺を斬り裂こうとする爪を躱し、三歩飛び退く。地下への扉を閉め切るのにどれくらいかかるかはわからないが。
「時間を稼ぐ」
「その後は?」
「頼むぞエウリィデ」
叩きつけられる腕を躱し、飛んできた毛の針を掴み取る。
「結局それよね。二十合持たせて!」
弓杖を取り出したエウリィデが叫んだ。
二十合は、少しばかり大変だ。
右腕が使えず、均整が崩れたせいで演の精度も落ちている今の状態だと、距離を詰めた方が楽だな。
縮む腕と共に距離を詰め、首抜きの胴を殴りつける振りをする。すると、殴る俺の手を貫くために毛が鋭く尖るため、それを掴み取りそのまま地面に叩きつける。
まず、一合と。
挟み込むように振るわれる腕を跳んで避け、胴を踏みつけさらに跳ぶ。追って伸びてくる腕を蹴って地面に落ち、胴体を演・岩払いで蹴り飛ばす。
二合。
そうだ、怒れ怒れ。ナシロやグラドラや地下の人々のことなど忘れろ。後ろでこそこそやってるエウリィデのことなど気にするな。お前の目の前にいるのはお前と戦うことができる戦士だぞ。
首抜きは吠えた。それは本能からして恐怖を掻き立てる咆哮だ。しかし、生憎だが恐怖を扱う術は心得ている。恐怖を感じたからと言って動きを止めるほど青くはない。
「闘争こそ命を輝かせる。人生は幸福である」
三合、四合と殴り飛ばし、五合六合蹴り飛ばす。
首抜きとやりあうのは久方ぶりだが、やはり至近距離の方がやりやすいな。先制が上手く行ったお陰で注意が惹けているから尚の事。
首抜きの腹が裂け、むき出しになった牙が噛みついてくるが、これは逆に好機。柔らかい歯茎に拳を叩きこみ、悲鳴を上げさせる。
ついでに二、三発叩き込むが、即座に隠されてしまったゆえに効果はなさそうだ。この切り替えの早さも首抜きの強さの理由。舐め過ぎるのもよくないか。
腕が縮み、爪は逆に伸びる。戦法を変える気か。
確かにその形態だと受けも流しもできない。だが、避ければいいだけのこと。太い腕より細い爪の方がずっと避けやすいぞ?
風の如き鋭さで振るわれた爪を避け、胴を蹴りあげることでもう一本の爪も逸らさせる。生じた隙に演・岩払いを叩きこみ、壁に打ち付ける。
両手が使えないがゆえに決定打がないが、今回はそれでもいい。あくまで必要なのは時間稼ぎ。
視線を送らずにとナシロたちの方を窺うと、どうやら二人とも地下への退避は完了したようだった。しかし、エウリィデの準備はもう少しかかりそうか。
打ち払う、受け流す。
淡々とその動作を繰り返す。
首抜きの胴体は毛玉にしか見えないが、こうして向かい合っているとなんとなく表情があるように見えてくるのは不思議なものだ。余裕、怒り、疑問、そして困惑。何故目の前の人間が殺せないのか。ちょいと爪が掠れば血を撒き散らして死ぬはずなのに、どうして当たらないのか。そう困っているように見える。
しかしそんな困惑をどうにかしてやるわけにもいかず、老体に鞭打って攻撃を避け続ける。我らは敵同士。お前を教え導いてやるわけにはいかないのだ、首抜きよ。
訛った体には堪える。
そうぼやきそうになった俺の背後から、エウリィデの凛とした宣言が響いた。
「壊器、虚洞、冥闇の斬空」
首抜きが飛ばしてきた針を避け、演・霧昇りで首抜きを打ち上げる。首抜きは再び吹き飛ばされることを恐れ、腕を伸ばして柱を掴むがそれは読み通り。
俺はエウリィデの隣へと立つと、エウリィデを抱きしめた。
「始獣譚十三章十三節。隷下の背信に昂る獣は咆哮を根源に地を断ち別ける」
さらばだ、首抜きよ。
もう遭わないことを祈るぞ。互いにな。
次の瞬間、俺たちは森の中に立っていた。
「よくやった、エウリィデ」
「首抜きを飛ばしたかったんだけど、状況が合わなくて」
「いい。それよりすぐ戻るぞ。ナシロとグラドラが心配だ」
飛んだ位置を把握するためにすぐさま樹に登る。南に微かに見える灰色はスフィートの壁か?
そう離れてはいなさそうだ。
「それほど離れてはいない。戻るぞ」
「待って」
「どうした」
「先に手を治しましょう。最低でも叩きつけても問題ない程度には」
「時間が惜しい。ナシロが」
「分かってる」
エウリィデが俺の腕を掴んだ。爪が食い込む。
その目は怒りを押し殺していた。
「戻って首抜きと鉢合わせしてまた逃げ帰ってだとまた時間を無駄にすることになるわ。次遭ったら逃げずに仕留める。その為に師匠の腕を治す。それが最善」
「……ああ、その通りだ。すまない」
焦り過ぎていたか。また首抜きに出くわしてしまってもなんとかなるだろうと楽観的過ぎたか、グラドラではナシロを守り切れないだろうと悲観的過ぎたか。いずれにせよ、エウリィデが冷静でいてくれて助かった。
水の匂いを辿ると、水たまりの様な泉が近くにあった。あまり理想的な場所とはいえないし、もう少し歩けば他の水場も見つかるかもしれないが、エウリィデはすぐさま地面に視線を走らせ始めた。
弓杖で地面に穴を描き、ややあってそれを埋める。線を引いてもすぐさま消される。
「丸ごと再生する一章が最善? 時間がかかるのは駄目。二章か。水が少なすぎる。じゃあ十一章? もう少し広くないと。深草、融泥……秋色がない。色合いが足りない。泥が緩すぎる。ああ、なんで水がこんなに湧いているの。波紋が収まらない」
治す模字はとても難しい。一の獣がほぼ怪我をしないがゆえに、始獣譚にそもそも記述が少ないのだ。そして記述も単調かつ似たようなものばかり。ぴしゃりと条件が合う場所があればどのようにでも再現できるが、そうでなければ丁寧に丁寧に痕跡を拾い紡がねば場を整えることはできない。
「二章七節、いえ、八節? 二章は駄目だわ。地面を整地するところから始めてる時間はない。一章の一から五節、師匠の腕を捥いで、いえ、場が汚れ過ぎるわ。じゃあやっぱり十一章。でも、あ、」
最も早いのは地面を均し、一から模字を刻んでいくことだろう。だが、傾斜を量り泥をこねてまで水場を整えるような心の余裕はない。その他にも理由があるかもしれないが、やはり一番は心の余裕だろう。俺の見立ては誤っていた。エウリィデは全く冷静ではない。
「駄目、駄目、駄目。落ち着いて。一から考えて、一つ一つ。そう。もう一度最初から考えましょう。一章の一節は? ないわ。律樹がない。用意している時間はない。喉になる又英も光岳もない。結べないなら意味はないわ。じゃあ二節? いえ、いえ、こんな時間は無いわ。一章は駄目だってさっき結論付けたじゃない。なんでまた考えてるの? 落ち着いて」
「エウリィデ」
「ちょっと話しかけないで師匠。今集中してるの」
「少し聞け」
「話しかけないで。気が散る。黙ってそこに座ってて」
「エウリィデ、落ち着け。いつも通りにするんだ」
「うるさい、うるさい、うるさい! いつも通りになんて……!」
エウリィデは杖弓をぶうんと振るった。先端についた泥が散り、水面を撥ねる。
が、そこで少し落ち着いたのか、エウリィデは弓杖を抱え直した。
「師匠は、心配じゃないの?」
「心配している」
「じゃあ、ナシロちゃんがもし消えたらって、そう考えたことはある?」
「ない」
考えても仕方のないことはあまり考えない主義だ。いや、主義というほどではないか。気分が下がるし無駄に疲れるので、好んで行いはしないだけか。
「まあ、もしそうなったら墓でも建てよう」
弓杖で顔面を殴られた。
「この人でなし」
「冗談だぞ」
「こんな状況でそんな冗談言える時点で人でなしよ」
そうかもしれない。いや、だからこそ冗談なのではないか? 当たり障りのないことを言っても場は和まないではないか。
「まったく、いつの間にそんなにナシロを気に入ったのか」
「当たり前でしょ、あの子は妹弟子なのよ。どっかの馬鹿のおかげでね」
「はっはっは」
ああ、鼻血が出てきた。これは鼻の骨が折れているかもしれん。
水面に落ちた血滴を見てエウリィデははっとした表情になった。師匠を傷付けてしまったことに気付いてくれたか?
どうやら全然違うようで、目を閉じて指を動かすエウリィデ。いつもの動作だ。それ即ち落ち着きを取り戻したと言うこと。これなら然程時間もかからなそうだ。
エウリィデは懐から取り出した小刀で自身の手の甲を切った。
「派手にやるな」
「少し血を抜いて落ち着くことにするわ。赤沼も作れるしね」
少し派手にやり過ぎている気もするが、模字に関して言えば俺は専門外。エウリィデのやるように任せるとしよう。
「赤沼、鮮鏡、歪曲の湖水――」
エウリィデを肩に担いで四半刻、スフィートの邑に到着した。
邑の様子に変化はない。周囲を警戒しながら行くが、首抜きはもういないようだった。
相変わらずよくわからない獣だ。執着心があるのかないのか。その分動きが読めなくてやりづらい。強さ以上にそれが厄介だ。
一番大きな集会所に入り、地下への隠し扉があったあたりを調べる。
「この下が空洞か。開け方はわからんな」
「まあそうでしょうね。けど迷う時間がもったいないわ」
「壊すか?」
「私がやる」
そちらの方が速いか。任せよう。
エウリィデは地面に火を描く。
「火」
着いた火に対し、すかさず追記する。
「大燈、紅煉、赫炎」
小さな灯火は赤く輝く炎となり、その熱は離れている俺の皮膚を焼く。しかし、それだけでは床を焦がすだけ。勿論それだけでやめる気はない。
「炮襲」
赤い炎が膨れ上がり。
「濫焔」
舞う埃が輝き灼ける。
「陽烽」
赤い炎は柱の如く吹きあがり。
「眩煌」
白く眩く色を変え。
「燗融」
石の床を溶かし始める。
「熾獄」
溶岩が地に引かれて穴を開け。
「黒燬」
弾けた炎は黒い穴を残した。
「あー、失敗した。このままじゃ熱くて入れないわ。少し冷ます時間ちょうだい」
「ついでに頭も冷やしなさい」
「もう十分冷静ですー。ちょっと失敗しただけだから」
そう言いながらエウリィデは暴風を起こし、瞬く間に溶け落ちた床を冷やした。
地下へ降りると、人が余裕をもってすれ違える程度の通路が四方へ伸びていた。通路の床や外壁は石材。各所に燭台が置かれているが火は灯っていない。それで何故視界が確保できているかというと、一定の間隔で地上から光が入ってきているからだった。
エウリィデに目配せする。
「どっちから行く?」
「こっち」
「なぜ?」
「こっちの方がより邑の中心に近いわ」
頷いて足早に進む。地下への入り口を壊した音は大きくなかったが、決して小さくもない。異常に気付いたものはいるだろうし、いたならば向かってきているはずだ。
鉢合わせしたら、とりあえず眠らせればよいか。
光の差している場所で上を見ると、半透明な板が張られていた。板の向こう側には人がなんとか通れる程度の大きさの穴がかなり高いところまで伸びており、その先には空が見える。
「……多分煙突ね。煙突に見せかけた地下の明かりとり。どの家にも煙突がある理由がわかったわ」
「成程。見事な擬態だ。これならば地上の家の中を探し回ったとて気付かんな」
地上の家にも暖炉はあるだろうが、恐らく飾りなのだろう。
薄暗い廊下をそのまま走り抜ける。と、再びの四つ角。
いや、人がいる。
手に籠を持っている男だ。目が合った。叫ばれる前に距離を詰め、地面に引き倒す。
「騒ぐと、殺しはしないが少し痛い目に合わせる」
「それ、脅しになるの?」
「誠実さというのは人の美しさを際立てるものよ」
呆れたようにエウリィデは首を振った。
それに、殺すだのなんだの物騒な言葉は良くない。この男が敬虔な信徒かどうかわからないのだ。俺たちが危険な人物だと思われてしまったら、敬虔な使徒ならば神の子らの場所は教えてくれないだろう。
「手荒に扱ってすまないが、少々急いでいる。神の子らの場所を教えてもらえないだろうか」
「……な、何者ですか」
「急いでいる。大丈夫。決して傷つけるようなことはしない。少し話をしたいだけだ」
これを信じる用なのはよっぽどのお人よしだが。
エウリィデのため息が響く中、男は震える手で一つの通路を指さした。
「ご協力感謝する」
迷ったが男の首をきゅっとして眠らせた。
「信じるの?」
「恐らく嘘ではない」
「敬虔じゃなかったってわけ?」
「いや、どちらかと言うと、教えても構わないと思っているようだったな。よほど護衛のことを信頼しているようだ」
「ふーん。師匠の見立てでは、そうなのね」
「そうなのだ」
男が踏まれないよう壁にもたれかけさせ、そちらへ走る。途中いくつかの四つ辻で姿を見られた気もするが、気にしないことにした。
突き当りには分厚そうな扉。
「突っ込むぞ」
演・滑り刃。
扉を横に二度斬り裂き、蹴り破った。
中は暗く狭い部屋。対面にも扉。右わきには部屋を仕切るように置かれた卓と――兵士らしき人物が一人。
卓を跳び越え、腹に拳を叩きこむ。手近にあった台拭きを口元に押し付け、右の肩を外す。
くぐもった悲鳴はそこまで響いていないか。壁にかかっている鍵をエウリィデに放り投げ、男の下ばきを半分脱がして足を縛る。こうしておけば当分動けまい。
扉の鍵は合っていたようで、エウリィデはすぐに扉を開ける。
次の部屋は、随分と明るいな。詰めれば三十人は入りそうな部屋だ。兵士っぽくない男が二人、女が一人。
若い方の男の懐に飛び込み、演・岩払いで壁に叩きつける。もう一人の男は、喉に手刀を入れるだけで十分だろう。
女は壁にかかった笛を口に当てようとするが、エウリィデが弓杖から飛ばした石に笛を弾き飛ばされる。演・弾き礫。精度は抜群だな。笛は蹴り砕いておこう。
この程度ならば、手分けしても問題ないか。
「左」
「私は右ね」
扉を開けると、そこは椅子と机があるだけの小部屋。人はいない。扉は二つ。正面か右か。正面には人の気配がする。
迷わず正面の扉を開けると、扉の陰から鋭い手刀が振るわれた。
演の気配を感じとり、それを躱す。続いて二撃目が振るわれるが、少し繋ぎが遅い。二撃目が勢いに乗る前に腕を捕まえ、地面に押し倒した。
続いて拳を振るおうとし、俺はその手を止めた。
幼い少女だ。髪の色は栗色、目は翠。
「ナシロか?」
「……誰です?」
見た目はそっくりだが、違う気がするな。
「恐らくだが、君の姉妹の保護者だな」
「ああ、あの子の」
少女の眼の色から若干だが警戒の色が薄れる。俺はとりあえず少女を離した。
「その様子だと、あの子は捕まってしまったのですか?」
「わからないのか?」
「今はあの子は私たちではないので」
なるほど。両方ともに繋がりが途切れているのか。
「会ってないか。俺も探している」
「私たちのところにはまだ来ていませんね。先ほどからあちらの方が騒がしいですから、まだ抵抗しているのではないでしょうか」
そう言って少女は俺が来た方を指さした。外れか。エウリィデが向かってくれてはいるが、俺もそちらに向かった方がいいだろう。
だが、その前に少し確認しておきたいことがある。
「神の子らよ。ナシロを、離れて行った半身をどう思う? 自分が減るのは嫌か?」
少女はぱちくりと目を瞬かせた後、俺を品定めするように見た。
「私たちは応援してますよ。この絆を祝福とするも呪縛とするもあの子次第です」
それは意外だな。嘘は言っていないようだが。
「そして、私も応援しています」
そう言って少女は悪戯っぽく笑った。
む。
「それは朗報だ。後で連れてくる」
「ええ、あの子を。ナシロをよろしくおねがいしますね」
俺は踵を返し、来た道を引き返した。
エウリィデと別れた部屋に戻り、エウリィデが進んだ扉を開ける。先ほどと似たような小部屋に、正面と左の扉。
すると、丁度左の扉が開き、引き返してきたらしいエウリィデと鉢合わせた。
「わっとと。師匠か」
「足音で判断しなさい」
「わかったら人間じゃないわよ」
「収穫は?」
「なし」
正面の扉を開けるとこっちは部屋ではなく通路だった。通路の先からは多くの人々が犇めている気配がする。
「こっちかぁ。最近ついてない」
「耳を澄ませ」
「だから常人は扉開けないとわからないの」
薄暗い廊下を駆け抜け、最も人の気配の多い部屋の扉を蹴り破った。
中は大広間。人の山。そして、無数の小さな傷から夥しい血を流す巨大な黒獣。
俺たちへの反応が早かった順に五人ほど叩き伏せるが、どうにも様子がおかしい。戦闘中にしては空気が少しばかり緩み過ぎている。しかし手には武器を持ち包囲は崩していない。
「グラドラ……沁面まで冠ってしまったのね」
エウリィデが獣を見て苦々しい顔をした。
中央に蹲っているのはグラドラか。化徴紋を冠ったのだろう。それも、一度冠ると二度と人へは戻れないとされる三段階目まで。心まで獣と成る三段階目まで。
腕からも足からも人間の面影は消え、体躯は成人男性の十倍はある。これが一心教団が求めた鬼獣なのだろうか。なんと大きく美しい獣か。
しかし、大丈夫だ。エウリィデよ。
「心配するな。グラドラはこんなもので我を失ったりはしない。それより、問題はなぜここまでやったのかだな」
グラドラの化徴紋ならば転面でも十分だったはずだ。いや、序面でも、演でさえ十分だったはずだ。心を失う危険を冒してまで、沁面を冠ったのは何故か。
「見ればわかるでしょ」
そう言ってエウリィデはこちらに武器を向けてきている邑人を示した。
なるほど。全員無傷。
そう言うことか。
「優しい子だ」
そして俺よりよっぽど頭が良い。俺はこの中にナシロにとって大切な人がいる可能性など欠片も考えていなかった。
相手を無傷で倒すことは自分が無傷な状態で勝つことより何倍も難しい。相手の数が多いならば余計に。守るべきものがあるのならば尚のこと。だからこそグラドラは無理をした。そう考えるのが自然か。
俺たちがグラドラに近づくと、恐々としながらも邑人は道を開ける。もう何度も試し、あの黒い尻尾に弾かれたのだろう。俺たちも同じだと思っているのだろう。
黒い獣の背にあと一歩で触れられる距離まで近づくと、尻尾が振るわれて押し返された。
害意は感じられない。ただ近づくなと警告している。
「グラドラ」
声をかけると、家のような巨体がぴくりと反応した。
「よくやった。ナシロはそこか?」
尻尾を押し返して更に近寄る。先ほどより抵抗が弱い。
首が動き、大きな目と目が合った。
「俺がわかるな。もう大丈夫だ」
グラドラが俺の腹に鼻をこすり付けてきた。一筋の傷がついているせいで血が滲んでいるが、まあかすり傷だろう。この程度ならば男の勲章だ。
同時に、もごもごと腹の毛皮が蠢き、中からナシロが顔を出す。
「いい加減、離せ、この馬鹿っ。俺を守ろうとすんなっつってんだろっ!」
俺がいることが分かったからなのか、グラドラはナシロを離し、その場に丸まった。だが、人語は一言も話さず、人の姿に戻ることもない。
エウリィデが歯を噛み締める音がした。どうやらもう悪い想像をしているらしい。
「そう焦るでないエウリィデ。グラドラはすぐ戻る。だから一度ここを離れ、傷の手当てをしてやってくれ」
グラドラの耳の後ろを撫でたい気持ちをぐっとこらえてそう頼むと、エウリィデは舌打ちをして頷いた。グラドラのことも心配だが、俺にナシロを任せることも不満らしい。
だが、全員でこの場を去るような後回しに意味がないことも理解している。それゆえの苛立ち。
さてさて。これでナシロが消えたりしてしまえば、俺はエウリィデに殺されそうだな。
「ナシロ」
「……なんだよ」
「グラドラの毛皮はどうだった? 中々触り心地がよさそうだったが」
無言で蹴りを入れられる。痛い。段々と蹴りが鋭くなってきている気がする。何かの拍子で演と合致してしまったら殺されそうだ。
と、不意にナシロに対して声がかけられる。
「ナシロ」
その声はグラドラの声だった。
「がんばれ」
振り返ると、エウリィデとグラドラは既に虚空に消えていた。
グラドラの姿が消えたことにより、邑人たちの間から諦めにも似た緩みが消え、再び戦意が戻ってくるのを感じた。俺のような中年男一人ならば、多勢で掛かればどうとでもできるように見えたらしい。
その判断は間違いだと教えてやってもいいが、折角グラドラが無傷で済ましたのだ。それを無駄にすることもあるまい。
「ナシロ。別れた後、地下に入ってどうなった?」
「……お前とエウリィデさんを待つっつったら囲まれて、あいつが間に入った。そしたら武器向けてきて、変身して、ああなった」
おおよそ想像通りか。ナシロとグラドラを引き離そうとして、グラドラが拒んだ。
「ならばびしっと言ってやれ」
「何をだよ」
「お前がここに来た目的だ」
「なんでだよ」
「それを言えば、こやつらも邪魔をしては来ぬだろう。互いに目的は同じなのだ」
ナシロの記憶を取り戻す。俺たちにとってはそれが一番の目的であるし、相手もそれさえ叶えば問題ないと思っているはずだ。
俺の言葉を疑いながらも思い当たる節はあるのか、ナシロは頭を掻きながら邑人に向き直った。
「あー、その、俺は記憶を取り戻しに来ただけだ。できれば邪魔しないでほしい」
室内の空気がざわめいた。あちらこちらでひそひそと会話が交わされるが、意味を読み取れるほどの声量でもない。
最終的にどう結論付けたのか、人垣は割れ、道が空いた。
「どうしてなかなか敬虔な者共だ」
「鳥肌が立つ」
そう吐き捨て、ナシロは黙り込んだ。
やや警戒しながら進むナシロの後をついて進む。一応探りを入れてみるが、不意打ちをしようとしたりしている者はいないようだ。よしよし。ではナシロを姉妹の元へ連れていくことにしよう。
部屋の出口を潜り、扉を閉める。俺たちがこのまま逃げることなど考えもしていないのか、追ってくる者はいなかった。
「どうした?」
ぴたりと立ち止ったナシロに声をかけると、ナシロは低い声で呟いた。
「俺さ、ナシロじゃなくて、神の子らになりたいって言ったら、怒るか?」
「怒りなどせん」
「怒らねーのかよ」
「怪我をして同一性を失った神の子らは自殺するという。それほどに素晴らしい絆を数日一緒にいたくらいでどうこうできると思うほどうぬぼれておらん」
か、と喉で妙な相槌を打ったナシロは、なんとなくだが俺に呆れているようにも見える。
うーむ。怒ると言ってやったほうがよかったか。寂しくはあるが、弟子の独り立ちは喜ぶべきことでもあるし、何と答えるべきか迷ったのだが。
「だがまあ、エウリィデは怒るだろうな」
そう言うとナシロは怯んだようだった。眉尻が思い切り下がっている。
「それでも……」
それを口にすることをナシロは躊躇っているようだった。顔をやや伏せて唾を飲み込み、深呼吸を繰り返した。
「心が同じなら、姿も同じ。なら姿が同じなら?」
心も、同じ。
ナシロはそう言って廊下の壁に背中を預けた。
「全部思い出したら、俺は俺じゃなくなるんだろ。心まで一緒になって俺は私たちになる。まだちょっとしか思い出せてないけど、それはわかる。それがすっげえ心地いいことも、わかる」
「そんなに良いのか?」
「ああ。だってさ、何も言わなくてもわかりあえて、何を見ているかも何を聞いているかも、それをなんと感じているかもわかる。それでいてそれは全部自分なんだから、良いと思うことも悪いと思うことも三人で共感できて……」
記憶の共有なんかとは深度の異なる、人格の統合か。三つの目で見、三つの耳で聞き、一つの心で感じる。三つの体に一つの魂。まさに神の子らだ。
だが、何をそう悲観しているのか。
「では神の子らになることを選ぶか」
「それしかないだろ。思い出さないように目を塞いで逃げるってか?」
「思い出したうえで神の子らにならないことを選ぶこともできる」
「できねーだろ。だって俺は、たまたま、自分が神の子らだってことを忘れたから生まれたんだろ」
「そうとは限らんが」
そう。そうとは限らない。
「普通に考えてみろ。こんな立派な牢獄に閉じこめられている神の子らが、なぜ邑の外で記憶を失っている」
「なぜって、外に出る用事が会ったんだろ。見識を深めるとか、演を教えてもらうとか」
「一人で?」
「……む」
「逃げだしたのだろう。そう考えるのが自然だ」
理解できなくはないが完全に同意はできないのか、ナシロは俺の方へ向き直った。
「なんで逃げるんだよ」
「神の子らでいることが嫌になったんじゃないか?」
「嫌になったって……なんでだよ」
「そう、そこが重要だ。それこそがナシロが思い出すべきことだ。神の子らであることが嫌な理由がわかれば、記憶を取り戻しても戻らなくて済むかもしれないだろう」
「……理由」
さてさて、どう転ぶのやら。いや、どうせすべてが仮定の上の考え。押して押して押すのが良し、か。
「ナシロ、グラドラにも言ったが、お前にも言っておこう。心が同じならば姿も同じ。しかし、逆もそうとは限らんのだ。何故かわかるか?」
しかし、俺の問いかけに応えたのは、俯くナシロではなく、廊下を歩いてきた二人組だった。
「そこの男の言葉に耳を貸してはいけません」
上でも見た屈強な男女だ。鋭い眼光に隆々とした筋骨。邑を守る戦士頭と言ったところだろうか。立ち振る舞いに隙はなく、強者が放つ独特の気配が目に見えるようだ。
「御前様は皆言います」
「私たちは私たちであり幸せだったと」
「我々は何度も目の当たりにしました」
「人に堕ち絶望に溺れて行った方々を」
なんとも妙な話し方をする者よ。相当息が合っていないとこんな話し方でできまい。今度グラドラと試してみよう。
「随分と勝手な物言いだな。神の子らを拐かして閉じこめた結果だぞ?」
「絶望は一重に我々の無力故」
「御前様を守り切れぬ不信心が招いた悲劇」
「守るだとかそうした話ではないのだが……言葉が通じんか。まあ良い。そこを通してもらえるだろうか」
無言の否定か。ナシロに目で聞くと、なんとまあ、俺の背中に隠れるか。これは本当にナシロか?
思わず頭を撫でると手で弾かれた。どうやらまだ神の子らに成ってしまったわけではないらしい。
吹き出すのを堪えていると、いらだった様に男が一歩進み出る。
「どうやらナシロは俺についてきてほしいらしい。悪いが弟子の頼みは断れん性質でな」
二対一か。
いや。
恐怖の首根っこを掴んで引きずり回すような咆哮が響く。振り返ると二十歩先に首抜きが一匹。どうやらこいつは特別執着が強い個体らしいな。
二対一対一。実質三対一だ。
「そこの青年。何を勝ち誇った顔をしているのだ? さっさとかかって来なさい」
ああ、もしかしてこの首抜きはここで飼われていたりするのだろうか。だからこうして勝ち誇っているのか? だとしたら革新的な調教技術を有していることになるが、まあどちらでもよい。二人も二人と一匹も大して変わりはしない。
「逃げないのか?」
「逃げますよ。御前様を連れてですが」
「言っとくが今度は足止めはしてやらんぞ?」
「おや、お弟子さんが心配ではないので?」
返事の代わりに大きく息を吸い、両手の指先を喉に当てて思い切り叫ぶ。
演・凍え鳴。
周囲に叩きつけられるのは先ほどと寸分たがわぬ咆哮。地を揺らし心を凍えさせる方向が俺の喉から轟いた。
構えたまま動きを止める男女に、唖然としたナシロ。どうやら俺の演におったまげたらしい。
「首抜きの咆哮は心に恐怖を齎す。それは漠然とした衝動ではなく明確な作用だ。忘れていても関係ない。魂を揺さぶり掘り起こす。そうして思わず動きを止めた獲物を仕留めるのが首抜きのやり方というわけだ」
熟練の戦士であっても首抜きに殺されることがあるのはこうした理由だ。肉体的な技術ではなく精神的な技術を鍛えて居なければ首抜き相手には一歩も動けない。
「そして、首抜きには一つ明確な弱点がある。こやつらは圧倒的強者故に、弱者ならば必ず持つものを持たない」
ナシロの手を引き、首抜きへと近づく。ナシロは一瞬身を強張らすが、首抜きがぴくりとも動かないのを見て恐る恐るついてくる。
「恐怖への対応方法。それを知らない」
演・滑り刃。
だからこうして簡単に首を刈れる。
踵を返し、先ほどナシロの姉妹に出会った部屋へと向かう。
動かない男女のすれ違いざまに、肩を叩いてやった。こうしていれば数刻も経てば動けるようになるだろう。
「足止めなどしないと言ったであろう」
する必要がないのでな。
ナシロと共に無言で廊下を進む。長いとはいえ所詮室内であるため、すぐに突き当りの扉の前に辿り着く。
扉を押し開こうとすると、ナシロが呟いた。
「俺さ」
「なんだ?」
振り向くとナシロが睨み付けてきていた。
「心臓に悪いからさっきみたいなの止めろよ」
「首抜きを殺すにはあれが手っ取り早いのだ」
「一言声かけろよ」
「声をかけていては首抜きに気取られていたかもしれん。予備動作も大きいゆえに首抜きがこちらを警戒している間にする必要があった」
「それ今考えたな」
「よくわかったな」
「いっつもいっつも適当なことばっかり言いやがって」
そう言ってナシロは自分の手で扉を押し開いた。
「懐かしいか?」
「微妙。それより、どっちの扉だ? 姉だか妹だか知らないけど。会えば思い出せんだろ」
「真っすぐだ。姉か妹かは知らんがな」
「……その口ぶり、もう会ったのかよ」
「ナシロを探していたら先に姉妹の方を見つけてしまってな」
ナシロは向かいの扉を開く。
そして、立ち止った。
中に人はいない。先ほど伸した三人もいない。どこかに運ばれたんだろうか。一応怪我はさせていないつもりだったが、医者に診てもらっているのかもしれん。
ナシロが中々歩き出さないので声をかけようとしたが、そこでナシロが泣いていることに気付いた。
「ああ、駄目だ。すっげぇ懐かしい」
声をかけずに待っていると、やがて手で涙を拭き、ナシロは歩き出した。その足取りは明確であり、進むべき方向を理解しているようだった。
記憶の共有か。ナシロは戻りつつある。神の子らに。私たちに。
向かいの扉を開き、更にその向かいの扉も開く。
そこには、一糸まとわぬ姿のナシロそっくりの少女が二人、ナシロが来ることを知っていたかのように佇んでいた。
三人が全く同時に口を開く。
「おかえり、私たち。ただいま。私たち」
姉妹の感動的な再会なのだろうか。そんなことを思いながらも、俺は思わず顎髭を擦ってしまう。
駄目だったか? いや、選んだのはナシロだ。これを望んだのがナシロならば、これが駄目な結果などと言うことはない。少しばかり悔しい思いがあることは否めないが、だからと言って駄々をこねるほど俺も若くはない。
ナシロもするすると衣服を脱ぐ。同一化のための行為。服装の違いさえ消し、三人は神の子らに戻ろうとしているのだ。
靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、下穿きを脱ぎ、肌着を地面に落とす。
「わかっているわ、私たち。簡単な事よ、私たち。選ぶほどの事じゃないわ、私たち」
そう言って三人はじっと見つめあった。
ナシロは、最後に自身の髪を結ぶ髪紐に手をかけると、そこで動きを止めた。
む?
一斉に笑い出す少女。
そして、ナシロは吠えた。
「ああ、やっぱ駄目だ! 駄目駄目! こいつの間抜け面見たいけどやっぱ駄目!」
こいつ、と叫ぶナシロの指は俺をまっすぐに示していた。
「えー、もうちょっとよナシロちゃん」
「そうそう、大したことじゃないって、髪解いてぼんやりと笑って、今までありがとう、感謝してますーって言うだけじゃん」
先ほどとは全く異なる、年相応の口調で話し出す三人の少女に、俺は目を白黒させる。
「嫌なもんは嫌。な、な、そっちが髪結んでくんない?」
「嫌よ。そんな雑な結び方するくらいなら流してた方がましだわ」
「僕も嫌。その結び方肩も首もすーすーして全然落ち着かないんだよね」
「二人とも折角こんなに長い髪あるのに尻尾みたいに垂らすことしかしないのよねぇ。もっと丁寧に編み込めばぐっと女の子らしくなって色々飾りもつけられるのに」
「いやいや、ごちゃっとしてるのが嫌なんだって。わかるよな?」
「半分は賛成できるけど、ナシロと一緒にしないでほしいかなぁ。僕は僕の見た目、服装とか背格好含めた全体の調和を考えた上で二つ結びが最高だと思ってるから」
「はー、趣味悪ぃ。もう俺たちの年齢だとそれも限界だぜ? しゅっと一まとめ、涼しい襟足、働く大人の女って感じがなんでわかんねーのかなぁ」
「働いてもないのに働く女って」
「昔から口ばっかりよね」
「うっせ。ああもういい。どうせ意見あわねーよ」
「まあそうね。そこだけは同感だわ。感性が相容れないもの」
「二人ともだっさいからなー」
「は?」
「髪型は体形を基礎として考えるべきなのに、それをしないのはださいよ。ナシロ」
「体形を意識するのは良いと思うけどそれに甘んじてたら駄目だと思うの。この施設だと健康的な栄養ばっか考えられてるから確かに胸は育たないけど、それ以外は努力で何とかなるはずよ」
「じゃあもっと動きなよ。模字ばっかやってるからお腹のお肉が、ほら」
「いや差はないはずよ。差が在ったら今頃使徒の方たちが大騒ぎじゃない。ほら、全然脂肪ないでしょ」
「くっだらね。健康ならそれでいいだろ」
「え、ナシロちゃんちょっと肌艶よくない? なんで? 外だと野宿野宿でしょ?」
「あ、お肉か! この前食べてたお肉のおかげか。やっぱり油は必要なんだよ。健康的な食事なんてなんの役にも立たないよ!」
「ずるいわ。私も食べに行きたい」
「僕も僕も」
三人の視線が一斉に俺の方に向いた。
「師匠、騙そうとしたのは謝りますわ。師匠を悲しませる気はなくて、ちょっと驚かそうとしただけです。すべてナシロの発案です」
「そうそう。尻叩きならナシロで! まあ師匠ならそんなことしないってわかってるけど」
「はああ? ってかお前らの師匠じゃねーだろ。馴れ馴れしいんだよ」
「でしたら私たちも弟子になります。あ、そうだわ! 私も名前もらわないと」
「僕も僕も! ナシロより可愛いのがいい!」
最初にナシロの姉妹に出会った時から、大丈夫だという予感はあった。だが、こうして目の前にすると、安心したような、肩透かしを食らったような。
何より、神の子らが分かれた理由というのが、まさか、髪型の好みとは。
零れた笑みをそのままにんまりとした笑顔に変形させ、俺は両手を打ち鳴らした。
「よし、名づけは任せれよう! だが、先にグラドラとエウリィデを拾って飯だな」
二人から歓声が挙がる。ここではそんなに酷いものを食べさせられているのだろうか。
「エウリィデさんに会うのは楽しみですね」
「グラドラくんも。僕らは実際には会ったことないもんね」
「もう会ったみたいなもんだろ。そんないいもんじゃないし」
きゃいきゃいと話しながら服を着て外に出る準備をする三人。こうしてみると、ただの仲の良い姉妹のようだ。
いや、ただの姉妹か。神の子らだのなんだのと言った言葉に囚われる必要はない。言葉に縛られ、妄想に逃げる者どもが邪魔をしてくるだろが、別に気にすることはない。いつも通り、邪魔するものはどかし、やりたいようにする。それだけだ。
一早く身支度を整えたナシロが俺の方へ体を寄せてくる。
「なあ」
「どうした、ナシロよ」
「いいのかよ。こんな簡単に弟子増やして。今ぴったし百人なんだろ」
「百人というのは概算だ。細かいことは気にするな」
ナシロは俺の脇に肘を押し付けてきた。痛くはないし、寧ろくすぐったい。
「適当なことばかり言いやがって」
「それが人生を幸福にするこつだ」
鼻を鳴らすナシロは満面の笑みだった。後頭部で一本に括った髪が凛とした雰囲気をより強くしている。
遅れてまとわりついてきた姉妹の相手をしながら、俺は外へ向かう廊下の扉に手をかけた。
「行くぞ、ナシロよ」
「……おう!」
なろう雑学:70000字までは短編小説