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夜空に浮かぶ逆さ虹 〜リスのレイゼンの大切なもの〜

作者: Kan

 逆さ虹の森には、その名の通り、逆さまの虹が空に出るという伝説がある。それは森で一年に一度開催される冬祭りの時に、夜空に浮かぶとされているものだった。しかし、リスのレイゼンは一度もその逆さ虹を見たことがなかった。それでも、レイゼンはその逆さ虹の伝説を心のどこかで信じていた。


 夜空の下、さまざまな動物が、燃える炎に赤々と照らされていた。ゾウもいればワニもいる。広場には屋台が所狭しと並び、見たことも聞いたこともないような食べものがあちこちで売られていた。中学生のリスのレイゼンには、いたずら好きの弟がいた。その何だかわからないような食べもののひとつを兄のために買ってきたらしい。それは黒い塊で、木の棒に刺さっていた。レイゼンは、その黒い塊の匂いを嗅いで顔をしかめた。弟は笑って逃げた。

 祭りが終わると、動物たちは丘の上で、逆さ虹が出るのを待つことになっていた。しかし例年、何も起こらないのである。動物たちはつまらなそうにばらばらとその場を去ってしまった。

「今年は逆さ虹、浮かぶかな」

 レイゼンは、その丘の上にひとり残って夜空をじっと見上げていた。そんな彼の行動を他の動物たちは笑った。

「ねえ、レイゼン。いくら見つめていてもそこには何もないよ。ねえ、ないものをあると信じて、何の意味があるんだ」

 ひとりの友達のリスはレイゼンにそう言って、さも馬鹿にしたようにその場を離れていった。レイゼンは、その友達の後ろ姿を見つめていた。

(そうかもしれない。しかし、僕はこの空の上に逆さ虹が浮かぶと信じている……)

 彼は、逆さ虹を信じると共に、なにかもっと大切なものを信じていた。しかしこの逆さ虹の森は、その大切ななにかを急速に失っていた。


 逆さ虹の森は、小高い丘の司祭場を中心に渦を巻いた道が続いている。道は上からみると蚊取り線香の形をしていた。中心に近いところは石造りの建物が並び、飲食店などが多かった。都会と呼ばれるところである。中心から離れると土でこしらえたり、木をくり抜いてつくった動物たちの住居がまばらに並んでいるのだった。その外側には畑もあった。田舎と呼ばれるところだった。この渦状の道には、学校も病院もあった。住んでいる動物はリス、キツネ、クマ、ヘビ、アライグマなどだった。


 数年後のある日、リスのレイゼンは森の図書館で勉強をしていた。彼は大学生になっていた。図書館というのは、大木をくりぬいたような吹き抜けの空間に、ランプがいくつも吊るされ、本棚がいくつも並んでいるところだった。レイゼンは、丸眼鏡をかちりと鳴らすと、ドストエフスキーの「罪と罰」を小脇に抱えて、受け付けへと向かった。そこにはレイゼンが常日頃から気になっているひとりのリスの少女がいた。名前も知らない少女だった。


「これを貸してくれる?」

「あら、あなた、ドストエフスキーなんて読むのね」

 リスの少女は、鼻をヒクヒクさせて笑うと、その分厚い本を受け取った。

「僕がドストエフスキーを読むのが、そんなに変かな」

「変じゃないわ。ただ面白かっただけ」

 名前も知らないリスの少女にそう言われて、レイゼンは少し胸が傷ついたような気がした。

 もう一言、何か言うことはないだろうか。レイゼンは考えた。しかし少女はすぐに作業を終えて、本を返してくれた。

「返却は一週間後になります。忘れないでくださいね」

「一週間じゃ読み終われないよ……」

「そうですか」

 リスの少女は少し困った顔をした。そしてちょっと考えている様子で、ぽんと手を打つと、

「その時は延長してください」

 と言った。レイゼンはまあいいかと思って、本を抱えてその図書館から出た。


 レイゼンは、日が暮れそうになっている道を歩いた。道は渦のように曲がっているから、夕日は真っ赤に染まりながらレイゼンのまわりをぐるぐるまわっていた。どんどん遠くの世界へ進んでいるように感じられた。この道を進むほど、田舎と呼ばれているところに入ってゆくのだった。その代わり、田舎の方が建物が立派で大きかった。それに木も多かった。レイゼンはこの田舎というところが好きだった。


 レイゼンの通う大学は、渦状の道の真ん中あたりに建っていた。そこは森の都会と呼ばれているところだ。

 レイゼンはその大学で考古学を勉強していた。レイゼンは研究となると、気難しい教授と共に森の奥に進んで、古代生物の化石や土器などを掘らなければならなかった。それはレイゼンにとって嫌な時間だった。それは教授の世界のとらえ方がとても不快だったからだ。かつて、逆さ虹の森には、もっと原始的な動物が住んでいたのである。しかし、それらの動物は死に絶えてしまい、今の動物が住みついた。それを教授は「弱肉強食」と説明していた。ダーウィンの進化論という難しい話もしていた。教授は、前時代の動物よりも自分たちがいかに優れていたか、ということをいつも皮肉っぽく喋っていた。レイゼンはそういうことにまるで興味がなかった。


 レイゼンはそんな理屈っぽいことよりもっと自然の美や古くから伝わる伝説の数々をこよなく愛した。前時代の動物たちのことも心の底から尊敬していた。

 レイゼンは時間があると田舎を探検した。田舎へゆけばゆくほど、森林が広がっていた。たとえばそこには、どんぐりを放り込めば願いが叶うという泉があった。嘘をつけば根に襲われるという根っこ広場があった。それは今や迷信と呼ばれていた。未だ逆さ虹の森にはそういうものを重要と考える学問がなかったのである。しかし、レイゼンはそういうことにこそ興味があった。


 レイゼンは、渦状の道の外側にゆけばゆくほど、夜空の星がはっきりとまたたいて見えることに気づいた。それは空気が清らかだからだった。反対に、渦状の道の真ん中にゆけば、つまり都会に近づけば、煙突からの煙やランプの灯りに星が隠れてしまうのだろう。レイゼンは悲しくなった。逆さ虹の森はこれからもっと大きくなる。そしたら、もっと空から多くの星が消えるだろう。その時、夜空に逆さ虹は浮かぶのだろうか……?


 レイゼンは、自分の家に帰ってきた。大きな大木をくりぬいた田舎の屋敷だった。レイゼンは、田舎の貴族だったのである。レイゼンは梯子を登って、3階の部屋にたどり着くと、暖炉の火に当たった。そこには母親のリスが安楽椅子に揺られながら、裁縫をしているのだった。

「どう、レイゼン、勉強は進んでいる?」

「うん」

 母親のリスはふふっと笑うと、さも楽しそうに縫い物を続けているのだった。

「ねえ、お母さん。あの夜空に逆さ虹は本当に浮かぶのかな。僕は今までそれを一度も見たことがないんだ」

「お母さんだって見たことはないわ。でもね、あなたがそれを信じていれば、必ずその日がくるわ。あの夜空にとても美しい逆さ虹が浮かぶ日が」

「それはただの迷信なのかな」

「レイゼン。昔の人が守り続けてきたものはね、とても大切なものなのよ……」

 母親のリスはそう言って、また縫い物に夢中になった。


 母親のリスは、とても信心深かった。毎日、リス教の聖典を読んでいた。しかしレイゼンは、逆さ虹の森ではこの先、一切の宗教が死に絶えるだろうという気がした。あの逆さ虹が迷信とされたのも、その予兆のように思えていた。


 レイゼンは、その部屋から出て木の枝の上に登った。月が綺麗だった。そして円をいくつも描いたような森の真ん中に丘があるのを見た。そこは毎年の祭りの会場であった。しかし宗教が死に絶えた時、あの祭りには何の意味があるのだろうか。レイゼンは突然、苦しみに襲われた。あらゆるものが変わっていき、すべてが無価値なものになってゆく気がしたのだ。


 レイゼンは、時代の大きな節目に立っていた。この逆さ虹の森はもう子どもではなくなろうとしている。そして、大人の目で、子ども時代に大切にしていたすべてを否定しようとしている。それがこの逆さ虹の森だ。しかし、否定し続けた末にすべてを失ってしまうのではないか。そして、あの逆さ虹はもう浮かばないのだろうか。


 レイゼンは叫んだ。苦しかった。そして泣いた。ただ悲しかった。大切なものがどこかに消えてしまうことがただ悲しかった。レイゼンの苦悩は夜空に伝わり、いくつもの星となった。流れ星が落ちた。世間はそれを偶然と笑うだろう。逆さ虹が浮かんだ。世間はそれを幻とうそぶくだろう。それでも、木の上に立つリスのレイゼンは、夜空に浮かぶ逆さ虹を見つめていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 力強いモノを感じさせる作品ですね。時代の変化や進化には抗えないのかという切なさと、どうしようもないやるせなさを感じさせる一方で、それでも大切な何かを信じてあきらめない、探し続け追い求めてい…
2019/07/26 04:00 退会済み
管理
[良い点] おお、心が洗われる作品です。 わたしのような、大人の垢で汚れ切った人間には、これはまさに福音、またはカンフル剤、あるいは第二の『星の王子さま』 レイゼンは、逆さ虹の森の中での異邦人であ…
[良い点] はじめまして。 隠された意味を深く考えたくなる、素敵な物語ですね。 綺麗な読みやすい文章で文字も追いやすく、一度読み終えるのはあっという間でした。その上で隠された意味やメッセージがたくさん…
2019/01/31 20:55 退会済み
管理
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