明確な解
「もし森の中で木が倒れ、誰もその音を聞かなかったとしたら、木は音を立てたと言えるだろうか?」
彼女の、微かな疲労と飽きが感じ取れる瞳がノートから上がった。
カランとペンが机に投げ出される音と共に、彼女の顔に笑顔が浮かぶ。
「どうしたの? 突然」
「いや、君ならどう答えるだろうかと思って。有名な哲学の命題なんだけどね、簡単に言うと誰も見なかった出来事は果たして起こったと言えるか、っていう」
「……毒と一緒に箱の中に入れられた猫の話?」
「いや、あれは哲学じゃなく量子力学の問題なんだけど……」
開いていた本に栞を挟んでから、私は小さく笑いを返す。
不満げな、分からないという時の彼女の表情が好きだった。それは、私に説明を求める顔でもあったから。
「宇宙のどこかで、一つ星が生まれて死ぬ。この星が生まれたことも死んだことも誰も知らないのであれば、その星が生まれたとどうして言える? というような」
「生まれたのなら、生まれたんじゃないの?」
「その生まれた、という前提を証明する方法はないでしょ?」
誰も知らないのなら。付け足すと、彼女の首の傾きは更に深くなった。
本の森の中、私達たった二人。彼女の手を引いて、深い思考の道を歩くこの時間は、いつしか恒例となっていた。絡まって動かなくなった私の思考を、彼女はいつだって単純で、分かりやすい答えで解いた。
私達以外の誰も、赤く染まった陽の光でさえ、カーテンで遮られてこの時間のことは知らなかった。
「分かりにくいわ。もうちょっと身近な例えをして、あなたいつも説明が壮大で分かりにくいのよ」
「お言葉だねえ。身近……そうだなあ」
こちらを見つめる彼女の目を、じっと見返す。この目に、最初に見つめられたのはいつだったか。その輝きに押され、私が教師の真似事を初めてしたのは、果たして。
「……私が君に恋をしていたとして、その事を誰にも知られないまま私が死んだら、私は君のことを好きだったと言えるだろうか、とかだろうか」
「……、……」
パチ、と彼女の目が瞬く。
これは、ただの例え話だ。本当に起こっている事だなんて言えない。だって、誰も知らないことなのだから。
「誰も知らないって、それ、あなたはあなたが私を好きだって、知ってるじゃない」
今度は、私が瞬きをする番だった。
「……でも、色恋沙汰は往々にして無自覚のうちに起こったりするものだろ」
「あら、それはその例えに限りありえないわ。だって」
ニコ、と彼女が私の一番好きな笑顔を浮かべた。理解した、もしくは解を得たときの笑顔。彼女の世界が広がった時の笑顔。
ああ、きっとまだ、最初の問の答えは出ていないのだけど。
「私が好きになったのは、とても頭のいい人よ。そんな人が、自分のことすら知らないなんてありえないもの」
カーテンがふわりと揺れて、赤い光が射したようだった。急に日に当たったせいか、私の顔が熱を持ったのが分かった。
「猫は自分が生きているか死んでいるかを認識してるわ。そうでしょ?」
「猫は……別の問題だって」
私が顔を伏せると同時に、彼女は大きく伸びをした。彼女の手元でペンがクルクルと回り出したのを見て、私は頬の熱を冷ましながら小さく咳払いをする。
「その課題が終わったら、私から。一つ、大事な話をしてもいいか?」
「あら、何かしら。楽しみね、予想もつかない」
くすくすと、堪えるような笑いを彼女が漏らす。
ああ、きっと今度も、君の知らないことを教えることになる。この大事な話は、私が、君が思うほど頭が良くはないということの証明だから。