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りんごジャムとクッキー

「あたし、おねえさんとであいたくなかった」

 正面に座る女の子はアップルジュースを飲みながら、見る限り(やわ)らかいほのかに赤い頬を膨らませながら言った。

「なんで?お姉さんはあーちゃんと出会えてよかったと思ってるよ」

「だって、おねえさんのことすきになっちゃうから。すきになりたくないから」

 あーちゃんの身長からすると椅子が高すぎるようで、足が床に届かず空中でぶらぶらとしている。両手で頬杖をつきながら、あーちゃんは目の前の計算ドリルをじっと見つめた。むすっとした顔からも愛らしさがにじみ出る。肩より少し短めに切られた髪は、お母さんにやってもらったのだろう編み込みにされ、綺麗に内側に丸まっていた。


 私は自分のコーヒーを入れるべく、キッチンで作業をしていた。スティックのインスタントコーヒーを愛用のカップに入れ、お湯を沸かせた。

「おねえさんはさ、すきな男の子とかいるの?」

 やかんが注ぎ口から蒸気を吹き出したのを見て、私は素早くIHクッキングヒーターのスイッチを切る。

「んー、好きっていうか、大切だなあっていう人ならいるかな。あーちゃんにはいるんだ」

 カップに白くもくもくと立ち上る蒸気と沸きたてのお湯を注いだ。

「べ、べつに。ちょっとかっこよくてあたしとなかよしなだけだしっ」

 恥ずかしがる動作を眺めて、私は淹れたてのコーヒーを一口すすると、カップをあーちゃんの前に置いた。あーちゃんは首をかしげる。

「にがくないの?」

「大人には苦くないの。むしろ苦いほうが美味しかったりするのよ」

「ふーん」

 少し寂しそうに俯いたあーちゃんは足元に置いておいた赤いランドセルから、B4サイズのプリントを取り出した。そのプリントには方眼が印刷されていて、どうやら二百字の作文用紙のようなものだった。ぱかぱかと開けるタイプの筆箱から鉛筆を一本取り出して、作文用紙に向かいあった。

「なあにそれ」

 私はそう尋ねながらオーブンからこんがり焼けたクッキーを慎重に取り出した。キャラメル色に染まったクッキーはまだ熱を持っていて、ほのかにバターの香りを漂わせた。バットをキッチンの作業スペースの上に置く。

「作文のしゅくだい」

「何書くの?」

「なやんでるの。なにかけばいいかな」

 ころころと鉛筆を転がしてつまらなそうに口をすぼませる。その様子を見た私は、クッキーの入ったバットを彼女の前に置いた。それは以前、彼女が好きだと言っていたものだ。

「食べよう」

「うんっ。ありがとう」

 あーちゃんは頬を緩ませてクッキーを一枚手に取り、小さな口を精一杯開け、クッキーを放り込んだ。子供の口にも一口で食べられるよう、小さめに作るのが私流だ。

 あーちゃんがクッキーを飲み込むと、彼女は突然しょんぼりと肩を落とし、ひくひくと泣き始めた。

 私は驚いた。いつものあーちゃんならたちまち笑顔がこぼれ、美味しそうにいくつものクッキーを頬張ってくれる。この時の私の顔には困惑が示されていただろう。私はなぜ彼女が泣いているのかを知りたくなった。

 私はあーちゃんの隣に寄り、ティッシュを差し出して彼女の頭を撫でた。静かに泣く彼女はずっとこらえていた悲しみを再び思い出しているかのように見えた。

「・・・あーちゃん」

「ねえなんでおねえさんは、おいしいクッキーばっかりつくるの。なんで、あたし、おねえさんのことすきになっちゃうじゃんか・・・」

 ばか、と小さく言った彼女は、赤くなった目をこすり、思いっきり鼻をかんだ。私はかける言葉に迷っていた。自分よりはるかに小さい女の子が目の前で泣き出すなんてこと、今までに経験したことがなかった。私は優しい声を意識しながら彼女の視線に合わせるようにしゃがみ、彼女に言った。

「落ち着いてからでいいよ、お姉さんにどうしたのか教えてくれる?」

 ゆっくり、確かに頷いた。少ししてからあーちゃんは、膝の上で握り締めた小さな二つのこぶしをじっと見つめて、話し始めた。

「あのね、はんたいがわのゆーくんがね、おひっこししちゃったの。それでね、おてがみかこうねってやくそくしたけど、あたしがゆーくんの字、よめるわけないじゃん」

 へたっぴなんだから。寂しそうに言った。なるほど、それで落ち込んでいたのか。

「あーちゃん、ゆーくんのこと好きだったのね」

 あーちゃんは静かに頷いた。ゆーくんは私も知っている。夏休み中にあーちゃんとゆーくんの二人でよくうちに遊びに来ていた子だ。優しく朗らかで、無邪気な一面が印象的な少年だ。よく私を含む三人でお菓子作りをしたものだ。手先が器用なあーちゃんの作ったりんごジャムは、ゆーくんの大好物だった。

 そんな彼に、恋の苦さを知らなかったあーちゃんは、好意を寄せた。遅かれ早かれ誰しもが様々な形で愛する者との別れを経験することになるということも知らないまま、彼の突然の引っ越しは、あーちゃんの幼い恋心を実らせることなく、彼女に寂しさの種を植え付けるような別離を強いることになったのだ。

 つらいだろうし、もやもやしているのだろう。


 私はあーちゃんの頭を撫でるのをやめた。

「ゆーくんのこと書いたら?作文」

「それはゆーくんにかくおてがみにする。だって言ってないもん」

 あーちゃんは再びころころと鉛筆を鉛筆を転がし始めた。私はクッキーのバットの隣にりんごジャムの瓶を置き、あーちゃんに向かっていたずらな笑顔を向けた。

「りんごジャムって甘酸っぱいんだよね。一緒に食べたら美味しそうじゃない?」

 その瓶を見るや否や、あーちゃんの顔がぱっと晴れ渡っていった。

 私とあーちゃんはクッキーに少量のジャムを落とし、そのの山をぺろりと平らげた。今日のりんごジャムはいつもより甘かった気がする。

「あたし、作文、おねえさんのことかくことにする」

 彼女の笑顔は甘さで溢れかえっていた。

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