ギターとめがね
「よー。今日暇か」
「ん、おん。行くか」
それだけの会話をして、俺は荷物を背負い教室を出た。帰宅部の俺とめがねは廊下を歩く。俺は形だけは立派だが中身は空っぽのリュックを背負い、さらに見た目ずっしりとしたギターケースを肩にかけている。一方のめがねは紺色の有名スポーツメーカーの、中身のたくさん詰め込まれたリュックを背負っていた。いつもめがねは荷物を下ろすたびに肩を一回二回と回す。
俺たちは放課後の特等席である、生徒玄関から一番遠い旧校舎の三階と四階の間の階段にやってきた。踊り場に各々の荷物を放り出し、階段に腰を下ろす。スマホも持たない。ただあるのは、俺の古いアコースティックギターのみだ。
チューナーを取り付け、ペグを慎重に回して、チューニングをする。その地味な作業を、めがねはじっと見ていた。
いつも彼は俺の作業を観察するようにじっと見る。大した動作でもないのに、不思議でたまらない。
あらかた調整が終わったところで、俺はネックに指まわし、Cコードを指で押さえた。じゃーんと弦をひっかく。その瞬間、俺らのいる階段を、ちょうどいい高さの、軽すぎず重すぎない音が包んだ。軽快とまではいかないが、飽きが来ないような音だ。めがねも思わず目を細める。
「今日も良い音してんな」
「だろ。これも俺の自主練の成果ってやつだよ」
冗談交じりの本音をすまし顔で言った。めがねはにこやかな表情で俺の溝内を突く。
「それと同じように課題の一つや二つこなせばお前の赤点もないはずなんだけどな」
照れ隠しのような無垢な笑顔をして、俺は再びギターに集中した。まったくもって自慢できることではないということはわかっている。
勉強か。俺には満足にできないことだった。苦手、というよりかは嫌いという意識が植え込まれてしまい、気が付いた時には進級できるか否かの窮地に立たされていた。今はもう関係はないが。高校受験の時の勉強に必死だった自分を褒め称えたい。
それに比べてめがねは優秀だ。小学生のころから習っている英語は当然だが、理数系にも強く、気を抜くことを許さない。だがなぜか勉強とは無関係と思われるものに心を寄せる傾向がある。俺のギターも同様だ。
彼を一瞥する。相も変わらず肉食な日に焼けた濃い顔は、俺の手元を眺めながらリラックスした様子でギターの音をかき集めていた。あまり表にしない表情だった。きっと俺にしか見せない、俺にしか見る機会がないだろう。気が付けば少し特別な何かを手にした優越感を覚えていた。
そんなめがねを目にしてしまった俺はこっぱずかしくなり、思わず聞き入っている彼の脇腹をどついた。
「ふぐっ」
喉から絞り出したような声を発し、めがねは前にもたれたかと思いきや、突然飛び跳ねて俺の正面に着地し、驚いた顔をして俺たちは静止した。
謎の沈黙が走る。
じっと互いの顔を見つめていると、ゆっくりと確実にめがねの耳が赤くなっているのに気が付いてしまった。
そして同時に吹き出した。
「なんなんだよその反応っやべぇこっちがビビったっや」
「いやいやいやいや突然お前がどつくからだろうが」
「あんまりにも真剣に聞き入ってるっけちょっとちょっかい出しただけらて」
互いに腹を抱えながら笑った。初めてめがねにちょっかいを出してみた結果、なんとも面白いものを見つけてしまった。これはお宝情報だ、と自慢げになりながら、笑いが収まるまでゆっくり深呼吸を繰り返した。
ようやく落ち着いた。めがねは再び俺の隣に腰を下ろし、ふぅと息をついた。
「久々にこんげ笑ったっや」
「お前がバカおもしれえだけらて」
「そんげことぁねぇんだけどなー」
ふと呟いためがねの顔が少しづつ曇り始めていたのを、俺は見逃さなかった。今日の笑い方がいつもと違うと感じていたのも、気のせいではなさそうだ。どことなく、寂しそうな雰囲気が、めがねにまとわりついていた。
「なあめがね」
「おん」
「お前、なんかあったが」
一瞬驚いた表情をしためがねは、すぐにぎこちない笑顔を張り付けた。そして、頭を横に振る。
「別に、なんもねぇて」
「嘘つくなや」
めがねは息をのんでいた。つい零れてしまった。めがねはそれなりの強い言葉にさらに驚き、俺はしまった、と思った。ここまで言っては俺も戻りにくい。強くギターを握った。
「俺わかるで。もうなんやかんや一年もお前にギター聞かせたし。それもほとんど毎日。俺がなんも見てねぇとでも思ったんか、隠すな」
彼はうつむいて、じっと足元を見つめながら自嘲する様子で俺の名前を呼んだ。
「んだよ」
弱々しく見えためがねの顔に、俺はさらに公開していた。こんな言い方しかできない、自分の言葉のバリエーションの少なさを恨んだ。
「悪い、別に大したことじゃねえんだ、ただ俺が弱いだけで。あんまり人間関係よろしくないんだよな、俺」
「お前が」
頷いた。
「友達とかいりゃいいんだけど、部活やってねえし、クラスじゃバカできねえし、そのほかにもいろいろと」
「はーそりゃクラスの奴らがバカなだけだな」
「いやまあ、春先の俺の態度も悪かったんだよな。寝てばっかりというか。寝起きとか機嫌悪いし」
「すまんバカはこいつだったっや」
ははは、と冗談交じりに笑いあった。あっけらかんとした悩みに俺は、笑いで返そうと思ったのだろう。貧相な悩みだとは思ったが、彼は不器用なやつなのだ。決して悪いやつではない。良いやつだ。ただ少しクセが強いだけだ。
「俺はバカじゃねえけ、お前を避けたりしねえべ」
良いやつだし。と一言加えると、めがねは予想の範囲外の言葉に驚き、照れくさそうに顔をそむけた。俺も一瞬考えて、こっぱずかしいことを言ったことをやっと自覚し、顔を覆った。きっと俺たちは耳の先まで真っ赤だっただろう。
「帰りにたい焼きおごれよな」
「し、仕方ねえな」
さりげなくたい焼きの約束を突き付けられた俺はギターをケースにしまい、荷物を整理し始めた。
めがねは鼻をすすっていた。
今日は終業式だった。
「桜味のたい焼きが季節限定で出てたで。ついでにラーメン食って帰るか」
「お、いいじゃん。駅裏な」
クラスも性格も何もかも違う俺らは、高校生だ。まだ寒い雪の残る暗い道を、俺たちは手探りで歩き続けた。
ラーメン屋に向かう途中、めがねはぼそっと言った。
「俺、お前のギター、好きだっや」
俺は自慢に笑い、言葉を返した。
「おう、知ってた。安心しろ、いつでも聞かせたる」
めがねは嬉しそうに笑っていた。
三月末日。
めがねと俺は新幹線のプラットフォームにいた。今度は俺が大きな荷物を持ちその横に相棒である古いギターを携えており、めがねはほぼ空っぽのリュックサックを背負い新品のギターケースを持っていた。最後の時間まで残り5分を切っていた。めがねは必死に涙をこらえているようで、既に鼻が赤かった。
「泣くなよー別に時差が変わるほどじゃねえんだし」
「それでも俺これからやっていけるかもわかんないし、不安だし、ギター聞けなくなるから」
「あほか。俺の友達と一緒に遊び行ったろ。ギターなんざお前がうまくなれや。なんのために買ったんだよそいつ」
ぐっと言い返したい言葉を飲み込んだめがねは、最後に、という切り出しでこぶしを握り締めた。
「そういえば、なんで俺のこと“めがね”って呼ぶんだ」
めがねをかけてるわけじゃないのに、とめがねは言った。
俺は荷物を背負いなおして、到着する合図のメロディーを聴きながら言った。
「一番初めに俺の持ってたギターケースに目が釘付けになってたのお前だろ?そのとき、音楽には目がないってお前が言ってた」