書店員と女子高生
午後四時二十三分。
私は帰りの電車までの約二十分間を潰すべく、駅に隣接するビルにある、「M書店」へと足を運んでいた。
田舎者の私からしてみれば「M書店」は、とても広く、静かで、並んでいる本の種類も他の本屋さんに比べれば多く、居心地の良い場所である。欠点といえば、椅子という椅子がどこにもないことぐらいだろうが、立ち読み(座り読み)読書コーナーまで備えられていたら、流石に都合が良すぎる。そのため、立ち読みは控えめにし、表紙とプロローグ、本の帯をちらっと見て、私の興味をそそった一冊を手に取り、購入するようにしている。今のところ、外れはない。恐らく、私の本へののめりこみの度合いが作者さんの世界にどっぷり浸かり、それがその世界の基準となっていくからだろうが。
もちろん今日は、本の購入を目的として来た、というのもある。
読書への意欲が急に湧いてきたのだ。
私は慣れた様子を装い、軽い足取りで本屋さんの中を歩いた。目標は文庫本コーナー。失礼極まりないとはわかってはいるが、お客さんは少なく、平均すれば、各列に一人二人いる程度だ。そんな中を私はするすると歩き回り、お目当ての文庫本コーナーへと辿り着いた。
時代物、日本文学、海外文学…など、たくさんの分類別の目印があるのを視界にとらえ、敢えてあまり立ち入らないような、本棚の後列へと進んだ。(この本屋は前列と後列の二列構造になっていて、両列共に12列の本棚があり、それを囲むようにさらに数十、もしかすると百以上の本棚が壁とメインの12列との間を埋めるように、適当な空間を作りながら配置されている。)
題名、表紙をざっと見て、めぼしいものを数冊確認し、さらにその中から一冊を厳選する。私の一か月のお小遣いじゃ、一度の買い物で二冊も三冊も買えないということと、新しいものが好きな私は、すぐに未読の本に手を出してしまいがちなため、そのブレーキということで購入制限は一冊と決めているのだ。
そんな選りすぐった一冊を大事に抱えて、私はレジへと向かった。意識をしているわけではないが、きっと私の顔は「嬉しい」と書いてあるかのように頬が綻び、思わず「にまっ」と笑っているのだろう。レジで待つ店員さんの頬が軽く緩んでいた。
レジに着くや否や、私は丁寧に本をレジへ差し出し、急ごしらえのお得意のスマイルを顔に張り付けた。同時に店員さんも営業スマイルに切り替える。
七百円とちょっとの会計に千円と一円玉を数枚出してお釣りを受け取る。気が抜けて、私の胸は既に達成感でいっぱいになっていた。そのため、次に耳にした言葉に私はうまく反応することができなかった。
「本、お好きなんですね」
予想と想像の範囲に無かった言葉に、私は「はぇっ」となんとも間抜けな声をこぼした。
にこにこした見た目三十代の女性店員さんが嬉しそうにそう尋ねてきたのだ。
彼女はもう一度、同じ言葉を繰り返してくれた。
「本がお好きなんですね」
初めてだった、店員さんに業務的なではない声をかけてもらうことは。ひどく驚いた私は、みるみるうちに熱くなっていく顔から「あっ、はい」と高くか細い声を絞り出した。
そんな私を見て、彼女はいっそう綺麗な笑顔を作り、言う。
「読書の秋ですもんね。書店員として嬉しいです」
恥ずかしがるほか道がない私は、とっさの判断で照れくさそうに微笑みかえしてみた。今にも火を噴きそうだ。
「ブックカバーはおかけいたしますか」
たどたどしくお願いします、と頷くと、彼女は手際よく本を紙製のカバーで包み、ランダムの紙しおりを最初のページに挟んで、輪ゴムをかけて固定した。
終始笑顔で対応してくれた彼女は、包装の終わった本を丁寧に差し出した。
「ありがとうございました、またお越しください」
そう言って彼女は、私を帰路へと送り出してくれた。
店員としても、ほんの少ない言葉だったが女性としても、きっと素晴らしい人だ。油断してしまえば今にも飛び跳ねてしまいそうな衝動を、必死に心の中にしまい込んだ。
今回も面白そうな一冊に出会えた、ということよりも、店員さんに話しかけてもらった、ということのほうが私の中では大きかった。もちろん、本は好きだが。
ちゃんと読んだら、またあの本屋さんに立ち寄ろう。
私は、高鳴る胸を抑え、手持ちのトートバックにしまい込んだほかほかの本に期待を寄せ、電車が待つ駅の中へと足を進めた。