第九十九話目~朝いちばんのキャラメルパンプキンベーグル~
朝六時。二人の目を覚ましたのは心地よいクラリネットの音色などではなく、けたたましいスマホのアラーム音だった。良二は大きな欠伸をしながら充電中のスマホを取り、アラームを切る。
「……相変わらず、それには慣れないな」
と、隣からそんな声が聞こえてくる。見れば、ディシディアが布団にくるまりながら淡い笑みを浮かべているところだった。
「おはようございます、ディシディアさん」
「あぁ、おはよう。にしても、昨日はぐっすりだったね」
立ち上がりつつ、ディシディアが言う。昨日二人は床に就くなりあっという間に眠ってしまっていたのだ。特に良二などは寝て数秒もしないうちに眠りに落ちていたほどである。
「ははは……面目ありません」
良二は苦笑いを浮かべつつ自分の布団を部屋の端に押しやる。ディシディアも気だるげにしながら彼と同じように布団を畳んだ。
「じゃあ、俺は朝食を用意しますね。ちょうどいいものをもらったんで、それを食べましょう」
「あぁ、わかった」
彼女は言葉少なにそう言い、卓袱台の方に歩み寄る
この家に来てもう数か月。すでに互いに多くを語らずとも意思疎通を図れるようになっている。ディシディアは眠そうにしていたが、素早く準備を終えてテレビをつけた。
ちょうど今は天気予報をやっているところである。どうやら、今日は一日晴れのようだ。
「洗濯物が乾きそうだね。何よりだ」
言って、彼女は苦笑する。
すっかりこの世界にも慣れたものだ。昔は洗濯など侍女にさせていたのに、今は自分がやっている。だが、正直なところ彼女はこちらの方が性に合っていた。
彼女は別に裕福な家の生まれでも貴族出身でもない。それこそ、ただの捨て子だったのがいきなり大賢者となったのだ。その待遇の差に困惑しなかったと言えば、嘘になる。
それに、旅をしている頃にはよく仲間たちと一緒に洗濯や料理などをしていたものだ。遠い記憶を呼び覚ましつつ、彼女は下ろした髪を手の甲で掻き上げた。
そうしてしばらくぼんやりとテレビを眺めていると、横から紅茶を持ってきた良二がひょこっと顔を出してきて、顔を覗き込んでくる。
「また考えごとですか?」
「あぁ、そうだよ。ちょっと昔のことを思い出していたんだ」
「よかったら、後で話してください」
良二は恭しく礼をして、その場を後にしていく。ディシディアはそのわざとらしい仕草に肩を竦めつつも、紅茶をゆっくりと啜る。
おそらくこれは市販のティーバッグを使ったのだろう。だが、蒸らした時間がちょうどよかったのか、その味は自分で作ったもののはるか上を行く。
茶葉の豊かな香りを胸いっぱいに吸い込みながら、厨房に立つ良二に向かってグッとサムズアップをする。
「リョージ。君は紅茶を淹れるのが美味いね。プロ級だ」
「褒めても何も出ませんよ……まぁ、朝食は出しますけど」
小さく何かを呟きつつ、良二は二つの皿を持ってきた。
そこに乗っているのは浮き輪型の何か。どうやら、パンの一種であることは確かだが、何であるのかはわからない。
生地はオレンジ色で、鼻を近づけてみればキャラメルのような甘い匂いがする。
――これは一体、何であろうか?
「ベーグルって言う料理です。ちなみにこれはキャラメルパンプキンベーグル。友人からお土産でもらったので、おすそわけです」
彼女の心情を読み取ったかのように良二が解説を入れると、ディシディアは興味深そうに何度も頷いた。
彼女の掌よりもわずかに大きいそれは見るからに食べごたえがありそうだ。その上、香りの面でも、見た目の面でも楽しませてくれる
ディシディアはゴクリと生唾を飲みこみ、
「さて、それでは、いただきます」
一礼してから、ベーグルを手に取る。見た目に違わず、確かな重量感がある。持つとずっしりとした重さを感じられるし、何よりその厚みは圧巻だ。
とても、一口で噛み切れるような厚さではない。ので、仕方なしにディシディアはカプッと噛みついてむしるように食らった。
「む、これは……イケるな」
ベーグルというものを食べるのは初めてだったが――悪くない。生地はふんわりもっちりとしていて、噛みごたえは十分。
生地がオレンジ色をしているのは、かぼちゃが練り込まれているからだ。野菜本来の甘さが活かされており、余計な雑味がない。
そこに絡むのは中に入れられたキャラメルチップだ。噛むと一瞬にしてキャラメルの風味を爆発させ、それが意外にかぼちゃと合う。
キャラメルもカボチャもどちらも優しい甘さだ。だからこそ、喧嘩せず共存できている。
そして、しばらく咀嚼したのちにストレートの紅茶を飲む。スゥッと胸のすくような味わいの紅茶によって口の中が洗い流され、また新たな気持ちでベーグルに臨むことができるのだ。
「美味しいですね、これ。今度お礼言っておかなきゃ」
「あぁ。朝からこんなものが食べられるとは最高だね」
ディシディアは素直に感嘆する。
他のベーグルを食べたことがないのでわからないが、少なくともこのベーグルは上物だとわかる。昨日食べたうどんやステーキに比べると味のインパクトはやや弱いように思えるが、だからこそ毎日でも食べられそうな気がする。
それに、目覚めたばかりの胃にも優しい品だ。かぼちゃの丸みのある甘さが体を癒してくれるようである。
「ところで、今日も学校に行くのだろう?」
「えぇ。学生の本分は勉強……ですよね?」
「あぁ、君もわかってきたじゃないか」
ドヤ顔を見せつけてくる良二を軽くあしらいつつ、ディシディアははたと部屋の壁に懸けてあるカレンダーを見てムッと唇を尖らせた。
「それにしても、もう少しでハロウィンか……どの衣装を買うべきか……」
「あ、やっぱり仮装するんですね?」
「無論。何事も経験だからね」
えっへんと薄い胸を反らしてみせるディシディア。だが、そこで良二が悩ましげな表情をしていることに気づき、おずおずと問いかける。
「どうしたんだい? もしかして、何か不都合でもあるのかな?」
その言葉に、良二は慌てて首を振る。
「あ、いえ、そうじゃないんですけど……ディシディアさんって、エルフ……ですよね?」
「あぁ、そうだとも」
「じゃあ、仮装の必要ないんじゃないですか?」
良二の言葉ももっともだ。ハロウィンは異形の仮装をするもの。だが、ディシディアはすでに異形とはいかないまでも、天然の人外だ。耳なども尖っているし、瞳などは綺麗なエメラルド色をしている。
正直なところ、仮装する必要性は皆無だろう。
だが、彼女は心底がっかりしたようにため息を吐き、やれやれと首を振った。
「いいかい? リョージ。確かに私は人ではない。だがね……このままの姿だと、面白みも何もないじゃないか」
「それは、まぁ……確かに」
「だろう? だからこそ、私は仮装したいんだ。できれば、面白そうなやつをね」
「……ほどほどにしてくださいよ?」
良二は思わずジト目になってしまう。彼女がこういう時は、たまにとんでもないことをしでかすのだ。警戒しておくに越したことはない。
しかし当のディシディアはカラカラと笑いながら、パジャマをはだけさせつつ胸元を見せつけてくる。
「まぁ、そう言うな。もし衣装を買ったら、君に見せてあげるから……ね?」
ディシディアは意味深な笑みを浮かべつつ、良二の口の端についていたベーグルの欠片を指で取り、パクッと口に放り込む。
その時見せた彼女の仕草があまりにも流れるようなものだったので、良二は反応することすらできなかったが――ややあって、その顔が真っ赤に染まる。
ディシディアはコロコロと楽しげに笑いながら慌てふためく良二を眺めていた。