第九十六話目~肉パ! 黒豚ステーキ!~
うどん屋からの帰り道、ディシディアは上機嫌で鼻歌を歌っていた。
「ふふふ、辛いものもたまにはいいものだね」
どうやらあの品は彼女の価値観を変えるには十分すぎる品だったらしい。相当気に入ったらしく、彼女は余韻を確かめるように唇を舐める。
すると口の周りに付着していた唐辛子のピリリとした辛味が舌に突き刺さる。だが、それすらも心地よい。ディシディアはうっとりと目を潤ませながら、頬に手を当てた。
「確かに、また来たいお店でしたね」
彼も気に召したらしい。良二は彼女の隣を歩きながら前方を見やる。そこにあるのは北与野駅。
どうやらうどん屋は比較的駅から近いところにあったらしい。良二は少しだけ疲れたような顔つきになって、ガックリとうなだれる。
それを見て、ディシディアはやれやれ、とため息をついた。
「そうガッカリするな。見つけられたんだからいいじゃないか」
「でも、三十分以上歩いてたんですよ? もう足だってパンパンですし……」
「それは、な。だが、道に迷っていなければできない経験もある。要は考え方次第、ということさ」
彼女はジト目になりつつ、ひょいと肩を竦める。
「というか、私が旅をしている時は迷ったりすることがほとんどだったからね。特に洞窟や森に入った時は大変だった……」
またも異世界トークをし始めるディシディア。彼女はたまにこうやって思い出話をしてくれるのだが、良二はそれが好きだ。
自分の知らないことを教えてもらえるのは誰にとっても嬉しいものだろう。良二はニコニコとしながら彼女の話に耳を傾ける。
「一番大変だったのは《迷いの森》に入った時だったな。仲間ともはぐれて一人で森を歩くのは中々に大変だった……道中魔物に出くわすわ、食料も水も底を尽きかけるわ、散々だったさ……」
「で、どうやって帰ってきたんです?」
「ん? 決まってるさ。その場でのんびりと休んでいたら、いつの間にか他の者たちと合流できたんだよ。ほら、よく言うだろう? 道に迷ったらその場から動くな、と。まさかあの森でもそれが通用するとはね」
クスクス、と子どものように無邪気に笑うディシディアを見ているとつられて良二も笑いをこぼしてしまう。
「確かに大変だったが、思い返せばいい思い出だ。たぶん、今回のこともいつかそう思える時が来るよ」
「……はい。じゃあ、その時はこの話を肴にお酒でも飲みましょう」
「おぉ、いいね。この世界の酒は大好きだ」
ディシディアはパチリと指を鳴らし、酒を煽るジェスチャーをしてみせる。
本人的に自覚はないのだろうが、完全に親父仕草だ。良二は必死に笑いをこらえながら改札を――通ろうとして、はたと足を止める。
彼の視線は駅の柱に貼られているポスターに向いている。ディシディアもそれを見て、キョトンと首を傾げた。
そこに描かれているのはデフォルメされたお化けやカボチャなど。間近に迫ってきているハロウィンを意識しているらしい。全体的にポップな印象を受けるものだ。
「あれ? これ何ですかね?」
「ん? 肉パ……こちらでやっているのか?」
彼女が指さす先には一つのエスカレーター。そこからは『さいたま新都心駅』という場所に行けるらしい。どうやら、この祭りはそちらで行われているようだ。
「せっかくだ。行かないかい?」
「いいですよ。正直、まだお腹は空いてるでしょう?」
返されるのは確かな首肯。ディシディアは腹を撫でさすりつつ、ぺろりと舌を出す。
あのうどんは相当の満足感はあったのだが、いかんせん食べたのは昼過ぎ。極限まで高まっていた空腹感を満たすには並では足りなかったのだ。
だからこそ、二人はそちらへ赴くことを決行する。エスカレーターに乗り、道なりに進みつつ、良二は道中さりげなく手に入れていたチラシを見やっていた。
「へぇ……お肉やビールがメインのお祭りなんですって」
「ほほぅ。だが、残念だな。外では酒が飲めない」
彼女は見た目的には完全に子どもだ。家の中ならまだしも、外で酒を飲むことはおろか買うことすら叶わない。
別に酒が一番好き、というわけではないが飲めないとなると悔しいものだ。彼女は悔しげに歯を食いしばり、がしがしと髪を掻き毟る。
「大丈夫ですよ。俺も今日は飲みませんから」
その時、良二が優しく声をかけてくる。彼はひらひらと手を振りながら、さらにこう付け加えた。
「これからはなるべくディシディアさんに合わせますよ。俺だけ飲んでたら、不公平でしょう?」
「遠慮しなくていいんだよ? 飲みたかったら飲みなさい。私のことは気にせずに」
しかし、良二は首を振る。
「まぁ、居酒屋とかならいいかもしれないですけど、こういう祭りだとビールを買うお金で別の料理が買えると思うので。そしたら、シェアできるでしょ? 正直俺もそこまで酒が好きってわけじゃないので、ちょうどいいんですよ」
こう、サラリと言える辺りが彼の強みだ。彼は自分のことよりもディシディアのことを大事に思っている。もちろん、それはディシディアの同じことだ。
だからこそ、最初は彼の提案に難色を示していたが、彼の意思が固いことを知るや諦めのため息をついた。
「負けたよ。だが、あまり遠慮してはダメだよ? 君の人生だ。好きに生きなさい」
「はは……善処します」
なぜか諭されながら、良二はチラシを鞄へと仕舞いこんだ。すでに祭りの会場は間近。人々の歓声や笑い声が聞こえてきた。
自然と、二人の足並みが早まる。そうして数分もすると祭り会場に到着し、二人は同時に目を輝かせる。
「おぉ……これは面白そうだ」
「あ、いっぱい食べ物屋が並んでますよ!」
良二の言う通り、この場所には大量のテントが張られていて、そこでは美味しそうな食べ物たちがズラリと陳列されている。
ケバブサンド、唐揚げ、肉の寿司やチーズフォンデュなどなど。実に多彩な品ぞろえだ。
「まずは、どれを食べますか?」
「ふむ……ちょっと見て回ろうか」
「そうしましょうか」
言いつつ、静かに彼女の手を引く。この場は人で溢れかえっており、はぐれることはないかもしれないがぶつかることはあるかもしれない。
「ふふ、いつもありがとう。君の手は大きいね」
ディシディアは手を開いたり閉じたりしながら良二の手と比べてみせる。彼女の手よりも一回りほど大きく、がっしりとしている逞しい手だ。
が、良二はディシディアの小さい手を見ながら呟く。
「ディシディアさんの手は、綺麗な手ですね。白くて、柔らかくて……とても小さいです」
「褒めても何も出ないよ?」
そう告げるディシディアはまんざらでもなさそうにウインクしてみせ、ギュッと彼の手を握って先を歩いていく。
そうこうしている間にも香辛料や肉の焼けるいい匂いなどが鼻孔をくすぐり、食欲を刺激する。他の人が食べているのを見ているだけでも涎が出てくるほどだ。
「ほぅ、ここでは食券を買ってやりとりするようだね」
とある店舗を眺めながら、ディシディアが呟く。
確かにここでは食券を買って、それと品物を交換しているようだ。
二人はそれを確認するなり、食券売場へと直行。幸いにも列はなく、あっという間に券売機へと到着した。
食券は一枚六百円からで、二枚、三枚とまとめ買いもできるらしい。
「じゃあ、一人一枚ずつ買いましょうか」
「だね。まぁ、ここは私が出すよ」
ディシディアは例のがま口から二千円を取り出し、若干背伸びをして券売機に投入し、ボタンを押す。
「ほら、君のだ」
出てきたお釣りを回収しつつ、食券を一枚良二へと渡す。大きさとしてはコンサートのチケットのような感じだ。持ち運びにはやや不便かもしれないが、どことなくプレミア間の様なものが付与されている気がする。
「さて、まずは君が食べたいものを買おうか」
食券売場を後にしつつディシディアが言う。と、良二は待ってました、と言わんばかりに大きく足を踏み出した。
彼が向かったのは――とある屋台だ。そこでは埼玉県の豚を使った品を提供しているらしい。
良二は店先に立ち、近くにいた店員にチケットを手渡した。
「すいません。黒豚ステーキ一つ」
「はい! じゃあ、少しお時間かかりますので、席に座ってお待ちください」
店員から番号札を受け取り、良二たちは近くの席に腰掛ける。
と、そこで良二はディシディアがそわそわしていることに気が付いた。
「どうしたんです?」
「ん? いや、ね。黒豚、とはどんなものかと思ってさ。黒い豚か……身も黒いのかい?」
「いや、それは……内緒です」
ここで言っては興が冷める。ディシディアは聞きたそうにしていたが、良二は頑として口を割らず、ただただニコニコ笑っているだけだ。
「お待たせしました~」
と、そうこうしているうちに料理が到着。テーブルの上に置かれたそれを見て、ディシディアは驚きに目を見開いた。
「これは……く、黒くない?」
そう。紙皿の上に乗せられた豚肉は白く、黒豚とは信じられないものだった。
「そ、そんな、まさか……」
予想が外れたことがショックだったのか、ディシディアはわなわなとふるえていた――が、すぐに黒豚ステーキの見た目に目を奪われる。
ハーフサイズを頼んだせいか、大きさはそこまでない。だが、かなりの厚さを有しており、食べごたえはありそうだ。
上にかかっているのはステーキソース。見た限り、ブラックペッパーなども入っているらしい。この段階で二人の期待値はうなぎ上りだ。
良二はゴクリと喉を鳴らし、割り箸を割る。
「じゃあ……」
「そろそろ……」
呼応するようにディシディアも手を合わせ、
『いただきます』
声を合わせて呟いた。
二人はほぼ同時にステーキ肉を一切れ取り、口へと運ぶ。
『――ッ!』
刹那、二人の目が一気に見開かれた。
豚肉はしっかりとした味わいで、噛めば噛むほど肉汁が溢れてきて、口の中が満たされていった。
特筆すべきは、分厚い脂身だ。
噛むとじゅわっと脂が弾け、三回噛むころには口の中で溶けていく。
脂身は臭いものがあるが、これはまったくそんなことはなく、ただただ甘い。脂身の甘みとステーキソースの辛味が絶妙に混じり合い、自然とにやけてしまう。
「豚肉とは、こんなに美味しいものだったのか……ッ!」
ディシディアは心底驚愕しているようだったが、それは良二も同様だ。
市販のものとはまるで違う。この肉はこれまで食べた中でも最上級のものだ。
そんじょそこらの豚肉や牛肉など足元にも及ばない美味さ。ジューシーで、けれど後味はあっさりとしている。
脂身はぶよぶよしておらず、むしろシャッキリとしている。新鮮なものが使われている証拠だ。
「最初からアタリを引いたようだね」
「えぇ。実は最初来た時から目をつけてたんですよ」
良二はどこか誇らしげに胸を張る。彼の審美眼は確かなものだ。
ディシディアは最後の一切れを彼の方に押しやりながら、ほうっと息を吐く。
「ふむ、誠に美味だった。ついているな、このようなものが食べられるとは」
ここに来れたのはただの偶然だ。たまたま駅の構内で見かけたポスターに導かれてやってきただけ。もしポスターがなければ、二人はここで行われていた祭りのことすら知り得なかっただろう。
(もしかして、ディシディアさんが言っていたことってこういうことなのかな……?)
良二はそんなことをぼんやりと考えつつ、最後の一口を口にする。
舌いっぱいに広がる豚肉の脂を感じながら、良二は幸せそうに目を細めた。