第九十五話目~旨辛! 武蔵野うどん!~
電車の座席に腰掛けながら、ディシディアと良二は流れゆく街の景色を眺めている。秋の装いを帯びてきた町並みはどこか静かで寂しげだ。
あれほど喚いていたセミたちもすっかり消えてしまっている。それが嬉しくもあり、また虚しくもあった。
「ところで、リョージ。私たちが向かっているのは何駅だったかな?」
「北与野駅ですよ。なんでも、美味しいうどん屋さんがあるらしいんです」
良二はスマホを弄りつつ呟く。どうやら、彼にとってもそこは初めて行く場所らしく、スマホで検索をしているようだった。
ディシディアもスマホを覗き込みつつ、興味深そうに頷いた。
「うどんか……いいね。私は麺料理が大好きだから」
「いや、むしろ嫌いな物ないでしょう?」
「まぁね。苦手なものはあるが、嫌いなものはないよ」
彼女は肩を竦めつつ、彼から身を離した。
『次は~北与野~北与野~』
それと同時、車内アナウンスが響き渡る。ディシディアは「お」と呟くなり、ピョンッとその場から立ち上がった。
今日の彼女の服装はカジュアルなセーターとロングのスカートだ。今日は比較的暖かい気候だが、秋の気温は変わりやすい。そういったこともあり、彼女は少しだけ厚着をする癖をつけているのだ。
良二は最後にスマホを一瞥。充電はまだ五十パーセントほど残されている。まぁ、すぐになくなるということはないだろう。
そう思い、ポケットにスマホを入れた。
それから数十秒ほど後、目的地へと到着。二人はドアが開かれるなり外に躍り出て、改札口へと向かっていった。
「して、ここからどれくらいかかるんだい? もう腹ペコだ……」
彼女がそういうのも無理はないだろう。今の時刻は午後の二時。本当ならもう少し早めに昼食を取ろうと思っていたのだが良二の帰りが遅かったため、このような時間になってしまった。
「大体八分って書いてますから、すぐですよ」
「そうか。なら、いい」
二人は少しだけ歩を早めつつ改札を潜り、左側の道を歩いていく。良二は逐一スマホで位置情報を確認しているようだった。
一方のディシディアは、新しく訪れた街に興味津々のようで落ち着かない。きょろきょろと辺りを見渡し、見慣れぬ建物などを見かけては目を輝かせていた。
「……ふむ。今度は余裕がある時に散歩したいな」
腹が減っている時はどうしても注意力が散漫になってしまうものだ。ディシディアもとうとう我慢ができなくなったらしく、力なく項垂れる。
良二はそんな彼女を見かねて、またスマホを確認――しようとした、その時だった。
突然、スマホが暗転したのは。
「あ」
「ん?」
良二の喉からしゃがれた声が漏れ出るのを聞いて、ディシディアは目を丸くする。が、すぐに彼の顔色がおかしくなっていることを察したらしい。彼女は少しだけ視線を険しくしながらスマホを睨みつける。
「もしや、電源が切れたのかい?」
「……らしいです」
電源ボタンを長押ししても、スマホの画面には『バッテリー切れ』の文字が映るだけだ。
この現代において、スマホを使うことに慣れ切った彼にとってそれが使えなくなることは死に等しい。
「ど、どうしましょう……?」
目を泳がせる良二。明らかに不安げだ。
が、ディシディアはチッチッチと指を振る。
「安心したまえ。ぼちぼち歩こうじゃないか。一応、地図は頭に入っているだろう?」
「それは、まぁ……」
「じゃあ、とりあえず進もう。このまましていても、スマホが回復することはないだろうからね」
悔しいが、ディシディアの言う通りだ。良二は嘆息しつつ、脳内にある地図に従って足を進めていった。
――そして、その数十分後。
「りょ、リョージ。もう私はダメだ……」
「しっかりしてください。ディシディアさん……一緒にうどん食べるって約束したじゃないですか」
良二はグロッキー状態になったディシディアをおぶって歩いていた。
あれからずっと捜索していたが、まるっきり見つからなかったのだ。
ラーメン屋はあったし、蕎麦屋もあった。が、なぜかうどん屋だけがなかったのだ。
どこにあるかわからず歩き続ける、と言うのは中々に精神を浪費する。
精神的に成熟しているはずのディシディアがグロッキー状態なのは、単に空腹に負けたからだ。彼女はすでに虫の息で、荒い息をついている。
当の良二も辛そうに顔を歪めている。が、ふと視界の端に見えたものを見て、彼はパァッと顔を輝かせた。
「ディ、ディシディアさん! あれ! あれ!」
「ん……おぉ……お?」
てっきりうどん屋があったかと思ったのだが……そこにあったのは交番。
いや、十分だ。少なくとも場所を聞くことはできる。
良二は足早に交番へと立ち寄り、ドアを開けた。
「す、すいませ~ん……あの、道をお尋ねしたいんですが……」
「あ、はい。どうぞ。どちらですか?」
応対してくれたのは、中年の警察官だった。そのしわだらけの顔は愛嬌があり、人の良さが伺える。
彼は地図を広げながら、良二の顔を見やる。
「目的地は?」
「えっと……武蔵野うどんのお店なんですけど……」
「うん? 病院じゃないのかい?」
彼が見ているのはぐったりとしているディシディアだ。その視線に気づき、二人は同時に苦笑する。
「い、いや、これは、その……ただの空腹というか……」
「すいません……お腹がすくとこうなるんです」
二人の顔は紅葉も真っ青なくらいの赤。警察官の男性はそれを見てクスクスと笑い、地図の一点を指さした。
「ほら、ここがそのお店だよ。大体百メートルくらいいけば附くだろうから」
「あ、ありがとうございます!」
「ありがとう……助かったよ」
「うんうん。早く食べて元気になりな。気をつけてね」
良二たちは彼に会釈を返してその場を後にし、すぐさま大通りに出て店へと急ぐ。
場所さえわかればこっちのものだ。良二はディシディアを背負ったまま道を直進し――やがて眼前に見えてきた看板を見て、満足げに鼻を鳴らした。
今の彼らに、その看板はさながら砂漠の中のオアシスのように映ったことだろう。その証拠に、二人は到着するなり安堵のため息を漏らした。
「よ、よかった……」
「早く食べよう。お腹と背中がくっついてしまいそうだ」
ディシディアは良二の手を引きつつ、入店。すると、店員たちの威勢のいい声が聞こえてきた。
二人はそれを受けつつ、目の前の券売機を見つめる。そうして、二人同時にあるボタンを指さした。
それは『旨辛うどん』。この店のイチオシメニューだ。
良二たちは出てきた食券を取って、席へと腰かける。
「いらっしゃいませ。こちら、いただきますね」
若い女性店員が食券を持っていき、そこでようやく二人は一息ついた。
「つ、疲れた……」
「災難だったね。まさか、スマホの電源が切れるとは」
「今度から、メモとかしておきますよ」
良二は苦笑いしつつ、水を煽る。疲れた体にじぃんと染みわたっていき、意図せず吐息が漏れる。横にいるディシディアもほっと胸を撫で下ろしながら店を見回していた。
「ふぅむ……少し予想と違ったな」
店は案外こぢんまりとしている。だが、壁にはズラリと有名人たちのサインが並べられ、またなぜかアニメのキャラのグッズが神棚に飾られていた。もしかしたら、誰か熱烈なファンがいるのかもしれない。
左の方には厨房があり、数名の店員たちが忙しなく動いている。が、やはり二時を回っているからだろう。ピークは過ぎているらしく余裕が感じられた。
「まだかなぁ……」
我慢できないらしく、良二は唇を尖らせていた。ディシディアもかなりキているらしく、なんとか水で空腹を紛らわせようとしていた。
――だが、やはりうどんは日本のファストフードと言えるものだ。注文してからそう時間も経っていないのに、店員がトレイを持ってやってくる。
「おまたせしました~。旨辛うどんの並、二つお待ちどうです~」
トン、と置かれるトレイ。その上に乗っているのはザルに盛り付けられたうどんと――そばつゆを入れるような器に注がれた真っ赤なスープだった。
唐辛子がふんだんに用いられているのだろう。刺激臭が立ち上り、それを裏付けるように器の端には唐辛子の粉末が浮かんでいる。
一応ネギや豚肉、油揚げなども入っているが、やはりスープの赤さにこそ目を奪われてしまい、ディシディアは反射的に顔を歪めてしまう。が、腹の虫は苦手な辛いものでもいいから早く食べたいらしく、ごうごうと泣き叫ぶ。
「~~~~~~ッ! 仕方あるまい……ッ!」
空腹にはたとえ大賢者の彼女でも勝てない。サッと割り箸を取り、手を合わせる。
「いただきます」
まず、麺を持ち上げ、ゆっくりとスープの中に浸す。ただし、まだこれがどれだけ辛いのかがわからない。ちょっとだけつけて、ゆっくりと啜る。
(あぁ、きっと辛いのだろうな……)
そんなことを思っている間にも徐々に徐々にうどんが口の中へと吸い込まれていき、やがてスープに浸っていた部分までもが口内に納まる。
ディシディアは訪れるであろう辛味に備えて身を固くしたが――それはいつまで経っても訪れず、思わずキョトンと目を丸くした。
「……おや?」
おかしい。辛くない。いや、後からピリリとする辛さは来た。
けれど、今感じたのはスープの芳醇な出汁の風味だ。暴力的で舌の感覚を全て奪っていくような辛さではない。
ディシディアは「まさか」と自分に言い聞かせるようにしながらもう一度うどんを取り、今度はたっぷりスープに浸して勢いよく啜る。
と、来た。
舌がびりびりして、息をするたびに痺れるような辛さが。
だが、なぜだろう?
全く深いじゃない。むしろ、後を引く辛さだ。
「これは……どういうことだ?」
ディシディアは信じられない、といった面持ちになりながら麺を啜る。
もちもちとしていてコシのある麺は噛むとこちらの歯を押し返してくるほどだ。が、噛み切ると得も言われぬ快感がやってきて、しかもこれが辛いスープと合う。
スープに入っている具材たちは辛さを中和してくれる大事な存在だ。
一口大にカットされた豚肉は肉の旨みを有しているし、何より脂の部分がスープや麺と抜群にマッチする。
ゴロッとしたネギはシャキシャキとしていて甘く、辛さを和らげてくれた。
油揚げはたっぷりとスープを吸っていて、噛むとじゅわっと旨みが溢れてくる。
そして、この三つと麺、そしてスープを共に啜れば最高のコンビネーションが生み出されるのだ!
最初は辛さが気になったスープだが、食べている時にならない。むしろこのピリッとした感覚が心地よく、また箸が進む。
ためしにスープだけを飲んでも見たが、やはり辛さはそこまででもない。ちゃんとした出汁が取られているからだろう。辛さの後に深い味わいがやってきて、口の中を満たす。
ただし、やはり辛さは体が感じているので額から汗が噴出し、鼻水も出てくる。良二はさりげなくポケットから出してきたティッシュをディシディアの方に押しやり、自分も鼻を拭った。
一方のディシディアは手で顔をパタパタと煽ぎつつも、また麺を啜っている。
最初こそ辛さに腰が引けていた彼女だったが、どうやらこれは好みだったらしい。
耳をピコピコさせながら顔を綻ばせる彼女は見るからに幸せそうだ。
空腹は最大のスパイス――そんな言葉があるが、まさしくそれだ。
二人はあっという間に麺のみならずスープまでも飲み干し、手を合わせる。
『ご馳走様でした』
「おそまつさまでした~。いや~いい食べっぷりでしたね~」
女性店員が感心したように言う。彼女は照れ笑いする良二たちに微笑みながら、券売機の方を指さした。
「辛いのが好きならチャレンジメニューもありますので、是非どうぞ」
しかし、二人は顔を見合わせてたはは、と力ない笑みを浮かべる。
まぁ、それもそうだろう。
何せ、そのチャレンジメニューとやらが映っている写真の隣には骸骨のマークが描かれていたのだから。