第九十二話目~絶品! サンマのトマトソースパスタ~
ディシディアと良二は銀行へと赴いていた。ちょうどATMから引きおろしができる時刻ギリギリということもあり、かなり空いていたおかげであっという間にお金を引き出し終える。
良二は財布の中身を何度も確認しては千円札を指で弾いていた。
「しかし、いつ見てもこの世界の機械はすごいな」
ディシディアが後方に見えるATMを見ながらポツリと呟く。彼女もこちらの世界に来てもう数か月も経つが、やはりまだまだ慣れないところは多い。
特に機械の類についてはまだまだ知識が浅い。そもそもアルテラにはそのようなものはなかったし、せいぜい魔道具やゴーレムなどが関の山であった。
あの無骨で粗野な物たちと比べれば、機械はずいぶん洗練されて見える。
ディシディアは腕組みしながら何度も頷き、しかし数秒おいてチラリと視界の端に移る洋食店を見て口の端を吊り上げた。
「久々に寄っていかないかい? 今日は夕食も用意してないだろう?」
「ですね。マスターにも帰国以来会っていないですし、ちょうどいいと思います」
二人の意見は一致したようだ。ディシディアはそうと決まれば、と言わんばかりに小走りで洋食店へと向かい、こじゃれたドアをゆっくりと引いた。
「いらっしゃい」
すると、厨房の方からちょび髭を生やしたダンディーな男性――マスターがやってくる。彼女はディシディアの姿を見るなり、パァッと顔を輝かせた。
「これはこれは、いつぞやのお嬢さん。また来てくれたんですね」
「覚えていてくれたのかい?」
マスターは微笑を浮かべながら、落ち着きのある仕草で首肯する。
「えぇ、もちろん。あれほど私の料理を喜んで食べてくれたのですから、忘れるなどあり得ませんよ。ようこそ。私の店へ」
「あぁ、ほら、リョージも早く中に入りたまえ」
言われるまま良二も中に入り、マスターとあいさつを交わす。
「さて、立ち話もなんですから、お二人ともどうぞこちらへ」
マスターは相変わらずの礼節ある仕草で二人を窓際の席へと誘う。ディシディアは席に腰掛けるなり、店内をぐるりと見渡した。
「やはり綺麗な店だ。夜に来るのは初めてだが、こちらも雰囲気があっていいね」
夜には夜の顔がある。店の中にはランタンなどが置かれ、それは微かな明かりをともしている。ハロウィンが近づいているから、それを意識しているのかもしれない。窓にはそれらしき装飾も飾られていた。
「ディシディアさん。何食べます?」
と、良二はメニューを取ろうとする……が、そこでマスターがごほんと咳払いを寄越した。
彼は目尻を下げながら二人を見渡し、ピッと人差し指を立てる。
「実は、新しく考えたメニューがあるのです。できればそれを試食してもらいたいのですが、よろしいですか? もちろん、お代は結構ですから……」
「何? それでは割に合わないのではないか?」
「とんでもない! 貴女がくれた金貨のおかげで経営を立て直すことができたのですよ。妻が愛した店を守ってくれた恩人です。どうぞ、食べていってください」
マスターはいつも通り静かな口調だが、そこに力強さを滲ませていた。
流石にここまで言われては無下に断るわけにもいかない。ディシディアは首肯を返し、
「……わかった。じゃあ、楽しませてもらうよ」
「俺も異論はありませんよ」
「ありがとうございます。では、どうぞごゆるりと」
マスターはにこやかにお辞儀をしてから奥の方へと消えていく。その後で、ディシディアはハッと目を見開いた。
「しまった……新メニューが何なのか聞くのを忘れていた」
「あ……まぁ、でも来たらわかるでしょう。それにマスターのことですから、美味しいはずですよ」
「ふむ、それもそうだね。じゃあ、気長に待つとするか」
彼女はそっと椅子の背に体を預け、良二を見やる。彼は珍しくスマホを弄っている。おそらく、誰かから連絡が来たのだろう。
少なくとも、良二はディシディアと二人きりの時にスマホを弄るような真似はしない。彼女が話し好きなのは知っているし、何より自分も話していると楽しくなるからだ。
「誰かから連絡かい?」
ディシディアが問うと、良二は苦笑気味に肩を竦めた。
「えぇ。文化祭の件でちょっと。もう時間がないんですけど、イマイチ進んでないんですよ……材料調達とか、予算の計算とか」
「君も大変だな……役割は分担しているのかい?」
「してるんですけど、その……その担当が雲隠れしまして」
「あぁ、そういうことか……」
ディシディアは額に手を置きながらやれやれ、と首を振る。
こういった物事をやる時には足並みを揃えるのが重要だが、現実はそう簡単ではない。積極的なものもいれば消極的なものもいるし、そもそも参加する意思すらないものだっている。
それはどの世界においても共通であることを再認識しながら、ディシディアは水を煽り、ジト目で良二を睨む。
「あまり、無理をしてはいけないよ? 君の体は君だけのものではないんだ」
「ははは……気をつけます」
ディシディアの苦言に苦笑いしながらポケットにスマホをしまいこむ。
するとそれを待っていたかのように、奥の方からマスターがやってきた。彼は右手に掲げているトレイの上に乗ったスープ皿を持ち、流れるような仕草で配膳し、
「サツマイモの冷製クリームスープでございます。どうぞ、ご賞味あれ」
二人の眼前に置かれたスープ皿には真っ白なスープが注がれている。上にはパセリが散らされ、生クリームが円を描くようにかけられている。
まるで芸術品だ。この段階で二人の期待度はうなぎ上りである。
「じゃあ、早速……いただきます」
ディシディアはスプーンを取り、スープを掬う。スープはややどろりとしている……おそらく、ビシソワーズ風に仕立て上げているのだろう。見れば、サツマイモの皮の破片も浮かんでいた。
ディシディアは目を閉じながらスプーンを口に運び、スープを流し込む。その瞬間、彼女の耳がピンッと跳ねあがった。
冷製スープは舌触りも喉越しも実にすばらしい。サツマイモの甘みがいい方向に作用し、後を引く味になっている。皮を入れているのもただの酔狂ではなく、アクセントとして活用するためだ。
噛むと微かな苦みと風味が口の中に広がる。それがスープの味をさらに高めてくれるのだ。
生クリームやパセリをスープに混ぜこむとまた違った味わいが楽しめる。より濃厚になり、風味がふくよかになる。飲めば飲むほど癖になる味だ。
しかも、サツマイモは今が旬。それをスープという形式に落とし込むのは流石としか言いようがない。
「では、お次はこれをどうぞ」
ちょうど二人の皿が空になろうか、という頃を見計らってマスターがまた別の皿を持ってくる。そこに乗っているのは一切れのガーリックトースト。やや小さめだが、その大きさには似つかわしくないほどの強烈なニンニクの香りを漂わせていた。
オリーブオイルとニンニクが混じり合う独特の芳香はダイレクトに食欲を刺激する。冷製スープによって活性化した腹の虫は早くそれを食べたい、と喚きだす。
マスターは店内に響き渡る落雷のごとき轟音に苦笑しながらパンを二人に差し出す。
よほど腹が減っていたのだろう。ディシディアと良二はテーブルに置かれるのとほぼ同時にパンへと手を伸ばし、大口でかぶりつく。
その瞬間、口の中でザシュッ! という音が響き、続けてニンニクの香ばしい風味が全身を駆け巡った。
ガーリックトーストのよさは何より香ばしさだ。フランスパンに塗られたオリーブオイルとニンニクが互いのよさを何倍――いや、何十倍にも高め合っている。
「うむ……やはり美味いな。パン屋にも負けないくらいだ」
ディシディアはジロジロとガーリックトーストを眺めながら呟く。
玲子が働いているパン屋の品も相当だが、マスターが作るガーリックトーストはそれに比肩する美味さだ。先ほどのスープといい、以前食べたハンバーグといい、この店の品はかなりレベルが高い。
ただ、今はマスター一人で店を回しているからだろう。より回転率を重視する客たちは近くにあるファミリーレストランへと流れてしまっている。
だが、この店の味に惚れこんだリピーターたちがいることは確かだ。無論、ディシディアたちもその中に入っている。
二人は一心不乱にガーリックトーストを貪っていた。そのせいで、大事に食べていたはずがもう半分以上が胃の中に消えてしまっている。良二はそれに気づき、グッと唇を噛み締めた。
それを見たディシディアは不可思議そうに首を傾げる。
「どうしたんだい? 食べたくないのかい?」
良二は首を振りながらガーリックトーストを皿の上に置き、
「いや、違うんです。このままだと全部食べてしまいそうで……」
「その気持ちはわかる。次にくるメインに備えておきたいのだろう?」
その言葉に良二は深く頷く。
おそらく、このガーリックトーストは次にくるメインの布石だ。ここで全部食べてしまっては、少し惜しい気がする。
だが……そのメインがいつ来るかわからない。
マスターはメニューを言わなかった。もしそれを知っていれば、ある程度予想ができたはずなのに、今はそれができない。
それに何より、このトーストは熱いうちに食べた方が絶対に美味い。冷めてしまえば風味も逃げてしまう。
とはいえ、やはりメインと合わせるのも捨てがたい……ッ!
と、二人が葛藤していると、それを見越したかのようにマスターがやってきて、テーブルの上に皿を置いてくれた。それを見た二人は同時に「おおっ!」と驚嘆の声を上げる。
「さんまのトマトソースパスタです。どうぞ、ご賞味あれ」
「これは……すごいな」
ディシディアは素直に感嘆の声を漏らす。
パスタの上には六枚のサンマの切り身が花びらのように並べられている。トマトソースパスタとの対比も美しく、見ているだけで飽きない。
無論、香りの面においても抜かりはない。オリーブオイルの豊かな風味とトマトの酸味のある匂いが混じり合って鼻孔をくすぐる。
すでにウォーミングアップを終えている二人はすぐさまフォークを取り、クルクルとパスタを巻き取って口に運び――同時に顔を綻ばせた。
「あぁ……これは美味いな。今日一番だ」
「やっぱりマスターのご飯は美味しいですね」
トマトソースの絡んだ麺はアルデンテにしてあり、弾力がある。
自家製と思わしきトマトソースは仄かな酸味と甘みがあり、隠し味として用いられた鷹の爪によって味が多層化している。
ただ、やはりこの品でメインとなりうるのはサンマ。しかも、これはポワレしてある。
ポワレとは具材の表面をカリッと焼き上げる技法である。
サンマの皮はパリパリに仕上げられており、それが口の中に入れると得も言われぬ快楽を持たしてくれる。パリッという食感は実に爽快で、自然と咀嚼回数が増えた。
「よろしければ、サンマとトマトソースをガーリックトーストの上に乗せてくださいませ」
マスターからの提案が入る。当然、それを否定する理由はない。
「そんな組み合わせ……美味いに決まっているじゃないか!」
ディシディアは目をキラキラと輝かせながらトーストの上にトマトソースをたっぷりと乗せ、続けてサンマを一切れ上乗せしてごくりと生唾を飲みこんだ。
「いざ……実食」
彼女は神妙な面持ちでトーストを口に運び、もぐもぐと咀嚼。その間、彼女の耳は絶えずピコピコと動き、ゴクリと咀嚼すると同時ピンッと張りつめた。
「はぁ……」
彼女はひどく満足げな吐息を漏らし、体を弛緩させる。
ガーリックトーストとトマトソース、そしてサンマ。それぞれが絶大な破壊力を持った品だが、一切喧嘩することなく旨みを炸裂させた。
ポワレされたサンマの皮はパリパリ。身はふっくらとしていて、生臭さはこれっぽっちも感じられない。血合いの部分はあるが、スパイスの風味が野性味あるものへと変貌している。
トマトソースはフレッシュな味わいで、強烈な個性を持つサンマとトーストの懸け橋となっている。これがあることで味がまろやかになり、より奥深いものになるのだ。
もちろん、その二つを支えるトーストも忘れてはいけない。二つが加わったことによりニンニクの風味は損なわれたどころかさらに高次元のものへと昇華されている。
「やっぱり残しておいて正解でしたね。これは食べないと損ですよ」
いち早く余韻から回復した良二がパスタを啜りながら言う。と、マスターはちょんちょんと彼の肩を叩き、
「よろしければ、トーストのおかわりをお持ちしましょうか?」
「お願いします!」
「わ、私もだ!」
回答に至った時間、わずか一秒。二人は超反応を見せ、空になったパンの皿をマスターへと突き出す。
「ふふ、やはりいい食べっぷりだ。見ていて気持ちがいいものですな」
マスターは微笑を浮かべながら奥の方へと消えていく。その間にもディシディアたちはパスタを堪能していた。
トーストに乗せた時もよかったが、パスタと一緒に食べた時も中々イケる。それに、トマトソースに浸して皮を少ししんなりとさせてもまた違った食感と旨みが生まれた。
ちなみに良二はトマトソースをたっぷり絡めるのが好きらしく、対するディシディアは食感が気に入ったのかなるべくソースは付けない派だ。
まぁ、それはトーストが来た時になるべく多くのソースを残しておきたいからかもしれない。
そうこうしているうちにマスターがトーストを抱えて戻ってくる。二人はそれを見るなり、ガタッと椅子を揺らした。が、それを見たマスターは少しだけ目を細めながら口元に人差し指を当てる。
「お二人とも。慌てなくてもパンは逃げませんよ。さぁ、ゆっくりと、しっかりと味わってくださいな」
「むぅ……すまん」
「気をつけます……」
マスターに諌められた二人は肩を竦めつつもトーストを手に取る。
よほど気に入ったのだろう。二人は無我夢中でトーストを食べていた。
「それにしても、まさかサンマにこんな食べ方があったなんて……」
良二がサンマをフォークに突き刺しながら難しそうに眉根を寄せる。
だが、サンマは意外と応用が利く魚だ。
あまり癖もないし、何より入手しやすい。特に旬の時期などは他の魚を圧倒するほどの脂が乗る。その美味さたるや、歴史上の歌人や著名人も愛し詩や俳句を残したほどである。
マスターは驚きを隠せない良二に対し、優しく語りかける。
「塩焼きやかば焼きも美味しいですが、それだけでは芸がありません。こうやって新たな可能性に挑戦するのも、中々面白いものでしょう?」
彼の言葉には確固とした自信と根拠がある。
ディシディアも良二もその言葉に同意しながら、最後に残った一切れを口に放り込んだ。