第八十七話目~一乗寺玲子とかぼちゃおばけパン~
一乗寺玲子は今日もなんとか業務をこなしていた。丁寧な接客とレジ打ち。時折品切れになったパンがあれば逐一報告し、補充していく。時折危なっかしいところもあるが、それは愛嬌。
このパン屋に勤めてしばらく経つが、彼女の上達には目を見張るものがあった。
最初は接客すらまともにこなせず、客相手に委縮してしまうことも多かったが、今は場数を踏んできたおかげで多少余裕が出てきた。
玲子はパンをビニールに入れ終えるや否やレジ打ちに入り、
「えと……五十五円のお釣りです。ありがとうございました」
サラリーマン風の男にお釣りを渡し、ぺこりと恭しく一礼。その時、胸の膨らみもたゆんと揺れ、思わずサラリーマンの目もそこに釘付けになったが、当の彼女は気にしている様子はない。
「ふぅ……」
男が去っていった後で、玲子はほっと胸を撫で下ろす。
多少慣れは出てきたが、まだまだ人目は苦手だ。見つめられると緊張するし、体が強張ってしまう。
彼女は額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。と、左右で色の違う彼女の目が露わになった。
右は藍色。左目は深緑色。どちらも日本人離れしたものである。
元々、彼女の祖父母は移民であり、いわゆるクォーターである彼女はなぜだか誰よりもその血を色濃く受け継ぐことになっていた。
が、当然ながらそれは異質であるということに直結する。事実、彼女は幼少のころその目をからかわれていた時期があった。
――しかし、彼女はその目を疎ましく思ってはいない。彼女にとってそれは大好きな祖父母の面影を宿すものなのだ。
ただ、元々人の注目を集めるのが苦手なため、一応隠している。カラーコンタクトを使うことも一時は考えてもいたが、裸眼の方が何かと気楽なのだ。
と、彼女がぼんやりと考えごとをしていると、ふと扉が開いて小柄な少女が歩み出てきた。その姿を見て、彼女の頬が思わず綻ぶ。
「あ、ディシディアちゃん。いらっしゃい」
「や、レーコ。久しぶりだね」
ドアのところに立つ少女――ディシディアはにこやかに挨拶してきた。玲子はひらひらと手を振った後で、キョトンと目を丸くした。
「あ、あの、そのお洋服はどうしたんですか?」
玲子は珍しく動揺を顔に表していた。だが、それも当然だろう。
普段はオシャレな服ばかりを来ているディシディアが、なぜだかイモ臭い褐色のジャージを身に纏っていたのだから。しかも、胸元には『ディシディア』というワッペンまでしてある。
妖精のような彼女がそのようなものを着ているのは非常にアンバランスに思えた。
が、当の彼女は嬉しそうに服の袖を引っ張りながらその場でクルリと回る。
「あぁ、これかい? 最近通販で買ったんだ。意外に過ごしやすくて気に入っているんだよ」
「そ、そうなんですか……あ、飯塚先輩は一緒じゃないんですね」
「まぁね。大学が忙しいらしいんだ。レーコの方は大丈夫なのかい?」
「は、はい。私は、午後から授業を入れているので、もう少ししたら上がりです」
と、彼女は時計を指さしながら言ってみせる。ディシディアは「あぁ」と頷きつつ、トレイとトングを手に取った。その流れるような仕草はいつ見ても鮮やかで、玲子は内心拍手をしてしまう。
そして、この後の展開はすでに予想済みだ。彼女はピンと背筋を伸ばし、近くにある棚を指さす。
「今日のオススメはこちらですよ」
「流石、話が早くて助かるよ」
ディシディアは鼻歌まじりに棚に寄り、品物を確認。
今日は見たこともないパンがズラリと並べられている。これまで食べたものとは形も色合いも何もかもが違っていた。
「むぅ……どれにしようかな……」
そのあまりに真剣な表情を見て、玲子はクスッと笑ってしまう。ディシディアはそれが少しだけ気になったのか、ぷくっと可愛らしく頬を膨らませながらこちらに歩み寄ってきた。
「何か、おかしかったかい?」
「い、いえ! ただ、その……すごく悩んでいるなぁ、と」
ディシディアの食に対する情熱はすさまじいものだ。それこそ、パンを選んでいる時の顔つきは時限爆弾のスイッチを切る主人公のようにも思える。それほどの集中力と気合が体からにじみ出ていた。
ディシディアは少しだけ恥ずかしそうにしながらも、飄々とした調子で肩を竦めてトングをカチカチと鳴らす。
「それは悩むさ。こんなに美味しそうなパンが並べられているんだ。どうせなら、美味しいものが食べたいじゃないか」
それを厨房にいる店主が聞いたら落涙して小躍りすることだろう。玲子は感心したように頷きながら、棚の方に歩み寄って近くにあるパンを指さした。
「なら……これはどうですか? 期間限定のパンで『かぼちゃおばけパン』って言うんです。見た目も可愛いですよ」
「どれどれ……ほぉ。いいじゃないか」
ディシディアは眼下にある小さな丸パンを見て口元を不敵に歪めた。それには顔を象るようにココアパウダーがまぶされており、カボチャのような形に成形されていた。
ディシディアはそれをトレイに乗せ、しばし思案気に眉を寄せた後でレジへと向かった。
「では、これで頼む」
「はい。えと……百四十円です」
「ほら、ちょうどだ。にしても、このパンは可愛らしいな。見ているだけで楽しめそうだ」
ディシディアはコロコロとしたパンを見てニヤニヤと笑っている。玲子はレジ打ちの手を休めることなく、解説を述べた。
「も、もうすぐハロウィンですから、やっぱり季節ものを取り入れた方がいいと思って……気に入ってくれたなら幸いです」
「? ハロウィン? なんだい、それは?」
「……え?」
思わぬ返答に、玲子の口から素っ頓狂な声が漏れ出る。当のディシディアも目を丸くして口をポカンと開けていた。
「あの……ハロウィンって、聞いたことありませんか?」
「……すまない。私はまだこちらに来て日が浅いものでね。あまり知らないんだ」
「あ、そうなんですか」
(あれ? でも、ハロウィンって元は外国の行事じゃ……)
彼女は戸惑いつつ、ディシディアに視線を落とす。
明らかに外国人風の養子をした彼女がハロウィンを知らないのは多少違和感があった――が、ひょっとしてハロウィンの風習がない地方から来たのだろう、と自己解釈。彼女はビニール袋を渡しながら、窓に掲げられたポスターを指さした。
そこには可愛らしいモンスターたちの絵と共に『商店街ハロウィンフェスタ』という文字が描かれている。それを見たディシディアは首を傾げつつ、顎に手を置いて瞑目した。
「むぅ……つまり、ハロウィンというのは行事なんだね?」
「は、はい。で、ハロウィンの時にはかぼちゃをくりぬくんですけど、このパンはそれをモチーフにしているんです」
言われてみれば、ポスターに描かれているかぼちゃとパンは非常に酷似していた。
「ほぉ……面白いな。全く知らなかった」
ディシディアはビニール袋から取り出したパンと壁にかかっているポスターを交互に見て感心したようにため息を漏らした。
「しかし、興味深いな。ハロウィンか。調べてみる価値はありそうだ」
この時、彼女の横顔が少しだけ大人びたものに見えてしまい、玲子は身を強張らせてしまう。彼女はたまにスイッチが切り替わった様になる時があるのだ。
しかし、それも彼女の魅力の一つ。玲子もそれはよく知っていた。
当のディシディアは彼女のことなど眼中になく、目の前にあるパンを凝視している。
が、その時不幸にも彼女の腹の虫が喚きだし、店内を騒音が満たす。
「す、すまない……ッ!」
ディシディアは先ほどまでの真剣そうな表情はどこへやら、顔を熟れたリンゴのように真っ赤にして照れている。玲子はフルフルと首を振り、パンを手で示した。
「気になさらず。どうぞ、食べてください」
「うむ。じゃあ、いただきます」
ディシディアは律儀に手を合わせてパンにかぶりついた。が、次の瞬間モチモチの生地によって歯が押し返され、思わず目を剥いた。
が、それに負けじとグッと力を込めてパンを噛み切る。すると中からとろ~りとしたかぼちゃのペーストが顔を出してきた。
おそらく、ただペーストにしているだけではなくミルクやカボチャの皮なども混ぜ込んであるのだろう。まろやかさの中に皮の渋みが感じられるが、それは蒸しパン特有のほのかな甘みによって中和されている。
まぶされているココアパウダーはビターテイストで、味わいに彩りを加えてくれる。
気づけば、ディシディアはうっとりと目を細めて頬に手を置いていた。
その顔を見ているだけで、なぜだか玲子も胸が温かくなってしまう。
ディシディアの食べ方は周りの人も幸せにするような食べ方だ。彼女がどれほど食事を楽しんでいるかが見ているだけで伝わってくる。
ニコニコとしている玲子のことはすでに眼中にないらしく、ディシディアは一心不乱にパンを頬張っている。このパンは見た目の可愛さだけではなく、キチンと味の方も調えられていた。
かぼちゃペーストの中には大ぶりのクルミが隠されており、噛めばゴリュゴリュという快音を口内で響かせる。それにふわふわの生地とねっとり濃厚なかぼちゃペーストが絡めば極上の食感が生まれた。
見た目のインパクトはもちろん大事だ。が、やはり大事なのは味である。
どちらかがおろそかになってもいけないが、このパンに関しては問題ない。どころか、基準を大幅に上回る出来栄えだ。
おそらく、このパンのターゲットはハロウィンが好きな子どもたちのためのものだ。
だからこそ、かぼちゃという野菜ベースのペーストを喜んでもらえるようにしている工夫が見てとれる。かぼちゃ本来の甘みを活かしつつ、さらに上質なものに仕立て上げるのは並大抵の技術では不可能だ。
ディシディアはもぐもぐとパンを咀嚼しつつ、顎に手を置いて感が混む仕草をしていたが、そこでようやく玲子の視線に気づき、慌ててゴクンと口の中のものを飲みこむ。
「……っと、すまない。考えごとをしていた。悪いね」
「い、いえいえ、大丈夫ですよ。気にしないでください。それより、美味しかったですか?」
自分で言ってなんだが、これは愚問だ、と玲子は思う。
あれほど嬉しそうに食べる人を、玲子は見たことがない。食べている時にコロコロ表情が変わるし、見ていて飽きなかった。
(本当に、食べるのが好きなんだなぁ……)
この間良二と話した時のことが脳裏によみがえる。彼も、ディシディアがどれほど職を愛しているかを熱弁していたのだ。
玲子はその時のことも思い出してまた笑いそうになるが、グッと堪える。
一方ディシディアは最後の一口をゴクリと飲みこみ、それから扉に手をかけた。
「気を遣わせて悪いね。ありがとう。それじゃあ、私はこの辺で。では、またな、レーコ」
「は、はい! またいらしてください!」
去っていくディシディアの横顔は来た時よりもずっと晴れやかなものだった。玲子は彼女の後姿を見送った後で、グッと握り拳を作る。
「わ、私ももっと喜んでもらえるように頑張らなくちゃ……」
彼女の瞳には炎が宿っている。気合は十分。彼女は体に満ちるエネルギーを感じながら厨房へと――
「一乗寺さん! もう上がりだよ!」
「ふぇっ!?」
したところで、店主から終了の合図が告げられる。
彼女はまだやりたそうだったが……学生の本分はやはり勉強。大学をさぼってまでバイトをするのは本来の姿からは遠い。
結局、彼女は不完全燃焼のままバイトを終え、大学へと向かうことになったのだが……そのきっかけを作ったディシディアはそんなことなぞ知る由もなく、帰り道立ち寄ったたい焼き屋で袋いっぱいのたい焼きを購入していた。