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第八十六話目~中華そばとヤスと女店主~

 空は快晴、絶好の散歩日和ということもあって、ディシディアは少しばかり遠出していた。すでに辺りには見慣れぬ建物などが立ち並び、どこか異質な感じがする。

 今日は良二が大学に行っているため、一人で昼食を取ることになっている。それならば、といつも行かない場所に来てみたのだが、結果は大成功だった。


「ここもいいところだね。できれば、今度は良二も連れてきたいものだ」


 初めて来る場所というのは中々に心躍るものである。見るもの全てが物珍しく見え、心が躍る。特にディシディアはまだこの世界に来て数か月程度。彼女の目には何もかもが新鮮に映る。

 久々に得るその感覚を楽しみながら、ディシディアは鼻歌まじりに歩いていく。その微笑ましい様子に、すれ違う人々も笑みをこぼした。

 ひくひくと鼻を動かしてみれば、仄かに甘い匂いがする。

 街には、街の匂いがあるものだ。この街の匂いを胸いっぱいに吸い込んだディシディアは満足げに息を吐き、一旦道の脇によって腕時計を見る。

 すでに時刻は十二時半。それを確認するや否や思い出したかのように腹の虫が騒ぎ出し、ディシディアは腹をさすりつつ周囲を確認する。

 幸いにも周辺には料理屋が密集している。それに、彼女はもう日本語をほとんどマスターしている。少なくとも、店の看板を見ればどの店がどのような品を出しているかは判断することができた。


「むぅ……寿司屋に、洋食屋、それからハンバーガーショップ……イマイチピンとこないな」


 どれもこれも美味そうではあった。が、ディシディアの空腹感を満たしてくれるようなそんな感じではなかったのだ。彼女は顎に手を置き、顔をしかめながらてくてくと歩いていき、他の店を探しに行く。

 ファミリーレストラン、牛丼屋、パン屋……中々にいいラインナップだが、ディシディアはどこか満足がいかないようで店の中を覗き込んではため息をついてばかりだった。

 もう、ここには目当てのものがないのではないか――。

 そんなことを思い始めたその時だった。

 ふと、どこからかいい匂いが漂ってきたのは。


「これは……ッ!」


 彼女は耳をピンと立て、レーダーのようにピコピコと動かしながら匂いの方へと駆け寄っていく。すると、その視線の先には一軒の店があった。

 そこの看板には『中華そば』とデカデカと描かれている。それを見たディシディアは一瞬だけ呆けた顔をしたものの、すぐに得心してパンと手を打ちあわせた。


「中華そば……確か、ラーメンのことだったな!」


 以前ラーメン屋に行ってからというもの、彼女の中でラーメンの株はうなぎ上りだ。しかも、中からは絶えず魚介系のいい匂いが漂ってきている。

 これを目の前にして帰るというのは選択肢にないだろう。

 彼女は溢れてきた唾をゴクリと飲みこみ、静かに引き戸を引いた。


「あ、いらっしゃいませ~」


 こじんまりとした店内にいたのは、一人の女性――おそらく店主だろう。オリジナルのシャツを身に纏い、頭にはタオルを巻きつけている。

 彼女は人の好さ気な笑みを浮かべながら、カウンター席を指さした。


「どうぞ、お座りください」


「ありがとう。失礼するよ」


 ディシディアはポシェットを備え付けの籠に入れ、店内をぐるりと見渡す。

 席数は非常に少ない。おそらく、店主だけで店を回しているからだろう。

 カウンター席のみで、席数はわずかに十席程度。しかし、だからこその落ち着いた雰囲気だ。

 観葉植物が店内に彩りを加え、居心地のよい空間を作り出している。薄型テレビには料理番組が映し出され、奥の方からは歌謡曲が流れてきていた。


(ふぅむ……いい店だな。店内の清掃も行き届いているし、期待できそうだ)


 彼女は内心そんなことを考えながらコップに水を注ぎ、壁にかけられたお品書きを見つめる。

 と、その時、チリンというチャイムの音が鳴り響き、店内に誰かが足を踏み入れてきた。

 ディシディアは何の気なしにそちらを見やって、はて、と首を捻る。

 店の入り口に立っているサングラスをかけたいかにもチンピラ風な男は口をパクパクさせていたかと思うと首をブンブンと振り、ディシディアを指さしてくる。


「あ! て、てめえは飯塚ん所のクソガキ……ッ!」


「あ、君は確か……あの時の」


 そこでディシディアも彼のことを思い出したようで、ポンと手を打ちあわせた。

 その対応が気に食わなかったのだろう。男は顔を真っ赤にしてディシディアの傍に詰め寄ってくる。


「その鼻につく態度も相変わらずだな、おい!」


「君の方こそ、相変わらずのファッションセンスだね。シマウマ柄のシャツなんてどこに売ってるんだい?」


「るせぇ! 気に入ってんだよ! わりぃか、チクショーッ!」


「まぁまぁ、落ち着きたまえ。ほら、水でもどうだい?」


「お、おう……って、んなこたぁ、どうでもいんだよ!」


 彼は水を煽ったかと思うとすぐにコップをドンとカウンターに叩きつける。案外ノリがいい男だ。


「あら? ヤス君、その子と知り合いなの?」


 その時、穏やかな声が二人の耳朶を打つ。ディシディアはキョトンと首を傾げたが、ヤスの方はぎくりと身を強張らせ、わざとらしい笑みを浮かべて頭を掻いた。


「ま、まぁ、そんなとこっすよ、恵さん……な、ガキンチョ!」


 ディシディアは「違う」と言いかけたが、ヤスがパチパチと店主――恵にばれないようにウインクを送ってきていることに気づいて曖昧な首肯を返した。


「まぁ、そうなの。ヤス君、顔が広いのねぇ……」


「そ、そんなことねっすよ……あ、恵さん! 中華そば二つ! ガキンチョ、俺が奢ってるから! な! な!?」


「む、むぅ……ありがたくいただくよ」


 ディシディアは彼の勢いに呑まれつつあったが、恵の方はのほほんとした調子で頷き、厨房に消えていく。

 その後ろ姿を見送った後で、ヤスはガバッとディシディアの方に頭を下げてきた。


「頼む! 俺の仕事の話はしないでくれ!」


「わかっているとも。何か事情があるんだろう?」


 ヤスはそろそろと顔を上げ、静かに頷いた。


「まぁ、実はよ……恵さんは俺の高校の先輩なんだよ。こんな俺にも優しくしてくれて、いろいろ面倒見てくれて……だから、こんな仕事やってるなんて知られたくねえんだ」


「君も色々大変なんだね……まぁ、好きな人に秘密を知られたくないのは誰でも同じか」


「は、はぁ!? すすす、好きとかじゃねえから! あまり舐めたこと言ってるとぶっ飛ばすぞ、ガキ!」


「ほぉ。今、ここで私が大声で泣き喚いたら、彼女はどう思うだろうね?」


「き、汚ねえぞ!」


 ディシディアはいたずらっぽい笑みを浮かべながら水を煽り、ほうっと息を吐いてヤスの顔を見やる。彼はギリギリと心底悔しそうに歯ぎしりしており、ディシディアに恨めし気な視線を寄越していた。


「まぁ、そんな顔をするな。私だって、わきまえている。君の秘密は守ってみせるよ」


「ほ、本当か……ありがとよ、ガキンチョ! いい奴だな、おめえ!」


「後、私の名はディシディアだ。断じてガキンチョではない」


「おう! ディシディア! ありがとよ!」


 ヤスはニコニコと気持ち悪いぐらいに笑いながら頭を掻いている。やっていることはともかく、根は悪い人間ではないようだ。

 いや、それに関しては彼の上司――アニキと呼ばれていたものに関しても同じことだった。

 ディシディアとて、ただ長生きしているだけではない。その長い生の中で、大勢の者たちと出会ってきた。

 その中には、生まれ持っての悪人と言える者たちも少なくなかった。特に賢者時代に旅をしていた時に出会った者たちは今思い出しても嫌な気分になる。

 それはまだ彼女が未熟だったというのもあったかもしれないが、あの時の衝撃は忘れようもない。

 彼女はこみ上げてきた不快感を押し戻すように水を流し込む。

 そこで、ヤスはようやく良二の姿がないことに気が付いたようできょろきょろと辺りを見渡し始めた。


「ところで、飯塚はどこだ?」


「学校だよ。おかげさまで、今は穏やかに暮らしているようだ」


「ハッ! そりゃよござんした……まぁ、あいつも親父の借金を押し付けられたわけだからな。色々苦労しただろうよ」


「仕事だから容赦しなかったがな」と付け加えつつ、ヤスは箸を二膳取ってその内の一つをディシディアの方に寄越してきた。


「あぁ、ありがとう。ヤス」


「……おめえ、俺の本名がヤスだと思ってねえか?」


「違うのかい?」


「ちげえよ。安田清人やすだきよひとってんだ」


「そうか。わかったよ、ヤス」


「てめえ! わかってねえだろうが!」


 安田清人――もといヤスはガタンと椅子を揺らしながら立ち上がるも、すぐに硬直して厨房の方を見やる。ちょうど恵が器を持ってきているところであり、彼女はこちらをバッチリと見ていたからだ。


「ヤス君? 今、すご~く乱暴な言葉が聞こえてきたような気がしたけど?」


「ち、ちがいますよ! その、このガキ……あ、いやディシディアがからかってきたもんで、その……」


 どうもヤスは恵に頭が上がらないらしく、徐々に尻すぼみになりながら席に腰掛けた。恵は依然としてにこやかに微笑みながら、器を二人の元に置く。


「はい、どうぞ。中華そばね」


「おぉ、実に見事なものだね」


 出された品に、ディシディアは素直に感嘆の声を漏らした。

 透き通った黄金色のスープからは芳醇な香りが漂い、思わず顔がにやけてしまう。

 三枚ほど入れられているチャーシューはどれも分厚く、たっぷりと入れられたネギやメンマも中華そばを華麗に彩っている。

 ノリやナルトも存在感を放ち、器の中で一つの世界が構成されていた。


「いただきます」


 箸を割り、まずは麺を持ち上げる。

 幅平の平打ち麺はピラピラとしていてきし麺のようだ。彼女はそれをよく冷ました後で、一気に啜り、驚いたように目を丸くした。

 麺はモチモチとしていて、それでいてつるんっと喉を下っていく。スープの上品な旨みもあいまって、すさまじい多幸感が押し寄せてきた。


「あぁ……美味い」


 スープは清湯で、サラサラとしているのに力強いコクがある。魚介系の出汁が使われているのだろう。あっさりとしつつも、インパクトのある味わいだ。

 たっぷりと入れられたネギはシャキシャキとしていて、もっちり食感の麺とはツイをなす存在だ。が、だからこその存在感を有している。

 メンマは甘辛く味付けされており、それをスープと共に啜るとまた新たな一面が垣間見える。コリコリとした食感もいいアクセントになっていて、これを食べた後に麺を食べるとよりモチモチを感じることができた。


「ふふ、気に入ってくれたようでよかったわ」


 恵はカウンターに肘をつきながらディシディアに穏やかな視線を向けていた。ディシディアはそれに気づくなり、彼女の方へと体を向ける。


「とても美味しいよ。特にこの麺がいいね。もしかして、手打ちかい?」


「そうよ。自家製麺なの。だから、そこまで美味しそうに食べてもらえると嬉しいわぁ」


 恵は朗らかに微笑みつつ、ゆっくりと席を立って奥の方に消えていった。ヤスは彼女にアピールしようと一心不乱に麺を啜っていたが、その努力が徒労に終わってがっくりと肩を落としている。

 ディシディアも奥の方に視線をやっていたが、麺が伸びてはせっかくのラーメンが台無しだ。彼女はすぐさま麺を啜り始め、今度はチャーシューと絡めて頂く。

 分厚いチャーシューはジューシーで、けれどスープや麺の味を邪魔しない控えめな味付けだ。物足りないということは全くなく、全体のいいバランサーとなっている。

 しかも、それが三枚だ。ディシディアは早速一枚を平らげ、次の一枚に箸を伸ばして、ムッと唇を尖らせた。

 チャーシューは三枚もある。が、ナルトと海苔はそれぞれ一枚ずつだ。どのタイミングで食べるべきか……そこが悩みどころである。


「は~い。よかったら、これもどうぞ」


 そんな時、ふと恵が厨房から茶碗を持って帰ってきた。彼女はそれをディシディアの傍に置き、ニコッと笑いかける。


「サービスの『肉飯』よ。召し上がれ」


「おぉ、ありがとう」


「あ、てめえ! ずりぃ!」


「はいはい。ヤス君のもあるから、喧嘩しないの」


 恵は飄々とした調子でヤスを宥め、奥の方へと消えていく。

 ディシディアは彼女の後姿を見送るなり、肉飯に目を移した。

 どうやら、チャーシューの煮汁と炊き込んであるらしい。ゴロゴロとチャーシューも入っており、中々にボリューミーな品だ。


「これはどんな味なのだろうか?」


 おそるおそる口に入れる。と、甘辛いたれの味わいと共に山椒のピリリとした風味が口の中に広がった。

 おそらく、たれだけで炊き込んだならばそれはくどくて胃がもたれてしまうだろう。だが、そこで山椒がいい仕事をしている。

 清涼感のある山椒によって後味がスッキリとしたものになり、後を引く味となっている。

 この品もそうだが、中華そばもかなり完成度が高い。ディシディアはうんうんと頷きながら、再びスープを口にして口の中を洗い流した。

 こってりした味わいの肉飯とあっさりとした中華そばの相性は絶妙で、互いが互いを引き立てあい、高め合っている。

 肉飯を食べることで中華そばの丁寧な炊き出しをより繊細に感じることができ、その後でまた肉飯を食べることで濃厚なたれとチャーシューの力強さが一層際立つ。

 気づけばあっという間に麺は残り一口程度になっていた。そこで、ディシディアは口元を歪めつつ、残った具材たちを集めてレンゲに載せる。

 麺、スープ、ねぎ、チャーシュー、めんま、ナルト、そして海苔――ッ!

 このラーメンのオールスターたちを乗せたレンゲはゆっくりとディシディアの口に運ばれていく。

 彼女はゆっくりと目を閉じ、味覚に全神経を注ぎ一気にレンゲにかぶりついた。

 その瞬間、押し寄せてきた味の奔流にブルリと身を震わせつつ、彼女はゴクリとそれらを飲みこむ。

 それぞれ違った味わいを持つ食材たちは一切喧嘩することなく、うまみ成分の塊となって喉を下っていった。

 その時の満足感といったら、まるで天にも昇る心地であった。

 ディシディアは夢見心地のまま残った肉飯を一気に掻きこみ、続けて中華そばの器を持ち上げてごくごくと喉を鳴らしつつスープを流し込む。

 そのあまりの食べっぷりに恵のみならず、ヤスも目を向いていたが、それに気づくことなくディシディアはプハッと満足げに息を吐き、器を置いて手を合わせる。


「ご馳走様。本当に美味しかった。また来るよ」


「ふふふ、そう言ってもらえると作り甲斐があるわ。また是非来てちょうだい」


「あぁ、また来るよ。ありがとう。じゃあ、ヤス。また会おう」


「てめえ! ヤスって呼ぶんじゃ……」


「ヤス君?」


 その時、恵がぞっとするほど低い声音で告げた。

 彼女は依然として微笑んでいるが、目が全く笑っていない。ヤスはガクガクと震えつつ、彼女の顔を見上げた。


「あのね、さっきからずぅっと厨房の方にも怒鳴り声が聞こえてきたの。あんな小さな子に、それは酷いんじゃないかなぁ?」


「あ、いや、それは、その……あのガキンチョが俺のことを……」


「ガキンチョ?」


「ひぃっ!」


 ヤスは完全に委縮していた。ガクガクと震えあがり、普段見せている態度はどこへやらすっかり縮み上がっている。

 恵はそこでチラ、とディシディアを見やりひらひらと手を振る。


「じゃあね、えっと……」


「ディシディアだ」


「じゃあ、また来てね。ディシディアちゃん。後、ヤス君は食べ終わったらすぐにお説教だからね?」


「う、うす……」


 ディシディアは二人を交互に見渡したのち、その場を後にする。なぜだか、あの二人はまるで年の離れた姉弟のようにも思えた。


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