第八十五話目~母が作ってくれたハニーホットミルク~
さて、ラーメン屋から帰ってきて数時間後。ディシディアは依然として苦しそうにぽっこりと膨れた腹に手を置いていた。彼女はひどく満足げな表情をしており、頬はわずかに朱を帯びていた。
一方の良二は困り顔のまま、布団を敷いている。彼女は相当食べ過ぎたらしく、動くことすらままならないようだった。
「だから言ったじゃないですか。無理しちゃダメですって」
「はは……面目ない」
良二がジト目で呟くと、ディシディアは心底バツが悪そうに頭を掻いた。
しかし、彼女はとろんと潤んだ瞳で天井を見上げてうっとりと頬に手を当てる。
「それにしても、美味かった……また是非食べたいものだ」
「それは、まぁ……そうですけど、今日みたいなのは勘弁してくださいよ」
紹介した店は気に入ってくれたのは確かに嬉しいことである。が、暴飲暴食を続けていて困るのは彼女の方だ。良二はやや視線を険しいものにしていた。
当のディシディアも反省はしているらしく、ややしょんぼりしている。それを見ていると少しだけ胸がズキリと痛んだが、彼は態度を崩さなかった。
「にしても、今日は静かな夜だね」
ディシディアが無理矢理話題を逸らすように呟く。彼女の視線は空に浮かぶ月へと向いていた。
彼女はこの世界の風景を見るのも好きだ。特に月や星空を眺めるのは格別らしい。彼女はズリズリと這いながらベランダの方に寄り、良二の方に向きなおってちょいちょいと手招きしてみせる。
「リョージ。ここに座りなさい。少し、話をしようじゃないか」
「……えぇ、いいですよ。ただ、ちょっと待っていてください」
良二は一旦厨房の方へといき、冷蔵庫からミルクを取り出して耐熱カップに注いでレンジに投入。数分もしないうちにチーン! という音を鳴らしたレンジの中からそれ等を取り出すなり、彼は小走りでこちらに駆け寄ってきた。
「どうぞ。お腹の調子を整えるなら、これですよ」
そう言って彼が差し出してきたのは、ホットミルクだった。彼なりに、ディシディアの身を案じていたらしい。彼女はふっと微笑みながら、カップを受け取った。
「ありがとう。いただきます」
手に持ったカップはほんのりと温かい。彼女は未だ湯気を上げているミルクをふぅふぅと入念に冷ましてから、ズズッと啜り、
「ほぅ……」
と、ため息をついた。
ホットミルクの優しい甘さが体にじんわりと染みわたっていくような感覚。
大食いによって疲労していた胃にも負担が軽く、何より飲みやすい。
ほんのりとしたミルクの風味は嗅いでいるだけでうっとりとしてしまうほどだ。
ただ、このホットミルクにはまだ何かが隠されているような気がする。
ディシディアは今一度ミルクを啜り、その長いエルフ耳をピコン! と立てた。
「もしかして、蜂蜜が入っているのかい?」
「ご名答。俺が眠れない時はよく母が作ってくれたんです」
「君の母上は料理上手だな。この間の料理といい、素晴らしいものだよ」
ディシディアはキラキラと目を輝かせながら賛辞を贈る。それに対し、良二はまるで自分のことのように嬉しそうに頬を綻ばせ、照れくさそうに頬を掻いた。
彼の中で、母親は大きな存在だ。父親は、ハッキリ言ってほとんど親とも思っていない。いや、親とも思いたくないのだ。思い出すだけで、嫌気がさす。
両親が離婚してからは、ずっと母親と二人暮らしだった。お世辞にも裕福とは言い難い暮らしだったが、充実していた。
(……母さん)
瞼を下ろすと、在りし日の思い出が蘇る。
誰よりもよく笑って、まるで子どもみたいに無邪気だった母親。そんな彼女が、良二は大好きだった。
「にしても、中々いいものだね。月見酒ではないが、月見ミルクか。ふふ」
と、ディシディアの発した言葉に寄って良二は現実に引き戻される。彼はディシディアにばれぬよう目元を拭い、コクリと頷いた。
「で、ですね。案外イケますよ」
その時、彼の声がわずかに震えているのをディシディアは聞き逃さなかった。そして、すぐに理解する。
良二の中で、母親の死というのはまだ大きな傷として残っているのだ、と。
その感覚にはディシディアも覚えがある。彼女は意図せず師匠や友人たちが死んだときのことを思い出しながら、穏やかな眼差しを持って良二を見やる。
(可哀想に……いくら成人したとはいえ、まだ彼も子どもだ)
体の成長と心の成長は必ずしも比例しない。もちろん良二は肉体的にも精神的にも成熟してきている。だが、まだまだ未発達な部分も多い子どもだ。
特に精神面は体と違ってすぐに成長するわけではない。特に、傷を負った時にはそうそう癒えるものではないのだ。
それがわかっているからこそディシディアは――ただ黙って、彼に寄り添う。
「ディシディアさん……?」
「気にするな。少し、食べ過ぎてしまっただけだ」
言いつつ、ディシディアは良二の肩にトンと頭を置いた。良二は確かな重みと温かさを感じながらも、そこに込められた意図を察する。
「……ありがとうございます、ディシディアさん」
「何がだい? 私はただ眠くなっただけさ」
のらりくらりとあしらってくるディシディアに苦笑しつつも、良二は確かな安心感を得ていた。それは、ここ数年得られることがなかったものだ。
隣に誰かがいる。いてくれる。たったそれだけのことが、これほどまでに満たされるのだとは知らなかった。
思わず目がしらが熱くなって何かがこみ上げてきそうになる。が、良二はホットミルクをグイッと煽り、グッと瞼をきつく閉じる。喉元を熱い液体が下っていく感覚を得ながら、彼はフルフルと首を振った。
すると、ディシディアが上目づかいに見上げてくる。彼女も眠いのだろう。その目はとろんと潤んでおり、頬は上気していた。気のせいか、体温も上がっているように感じる。
良二は一度部屋の時計に目をやり、ちょいちょいと彼女の肩をつついた。
「立てますか? もう寝るでしょう?」
すでに時刻は夜の十二時。良二も明日は一限からの授業で、できれば今日は早めに寝たい気分だった。彼は大きな欠伸をしつつ、目尻に浮かんだ涙を指の腹で拭う。
すでに睡魔は押し寄せてきているのか、彼は何度も目を瞬かせていた。
見かねたディシディアは彼に首肯を返し、彼の首に手を回す。つまり、抱きかかえろ、ということなのだろう。良二は困り顔で妖艶な笑みを浮かべている彼女を見やった。
「頼むよ、リョージ」
「……はい。喜んで」
良二はガバッと立ち上がり、その勢いのまま彼女を抱きかかえる。ディシディアは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに無邪気な笑みを浮かべてクスクスと笑う。
「さぁ、寝ましょう」
良二は彼女の体を労わりつつ、そっと布団に寝かせてやる。
干したての布団はお日様の匂いがして、今にもまどろんでしまいそうなほどだ。ふわふわとしていて、まるで雲に乗っているかのようである。ディシディアもゴシゴシと目を擦りつつ、静かに毛布を体にかけた。
良二も彼女に続いて、横に並べられた布団に潜り込む。と、そこでディシディアがぷにっと自分の頬をつついてきた。
その時の彼女の顔はとても穏やかで、優しげで……どこか見覚えのあるものだった。
「お休み、リョージ」
戸惑っている彼をよそにディシディアは寝返りを打って毛布にくるまる。良二は何かを言いたそうにしていたが、しばらくしてふっと口元を緩めた。
「おやすみなさい、ディシディアさん」
彼女の小さな背中に向かって語りかけ、彼も目を閉じる。
体がポカポカしているように感じるのはホットミルクを飲んだから、というわけでもないだろう。
隣で眠るディシディアの安らかな寝息を聞きながら、良二は微睡に落ちていった。