第八十四話目~大食い幼女(ロリババア)伝説!~
秋の夜は中々に冷えるものである。秋風はぴゅうぴゅうと鳴きながら木の枝や葉を揺らしていく。そんな中、良二とディシディアはとある行列の最後尾に並んでいた。かなりの人だかりであり、店の入り口まではまだまだ距離がある。
ディシディアは列の脇からひょっこりと顔を覗かせつつ、感嘆のため息を漏らした。
「にしても、すごい行列だな……」
「それだけ人気のラーメン屋ってことですよ」
そう。二人が並んでいるのはラーメン屋の行列だ。
寒くなってくるとこういった温かいものが美味しくなってくる。たまたまテレビを見ていたディシディアが「ラーメンを食べてみたい」と提案したことにより、良二は彼女をここに招待したのだ。
ただ、この混雑は予想外だったらしい。ディシディアは手を擦りつつ、は~っと息を吐いた。
「大丈夫ですか? 俺の上着着ます?」
見かねて、良二が上着に手をかけるも、ディシディアはひらひらと手を横に振った。
「いや、大丈夫だよ。いつもありがとう」
「あまり無理はしないようにしてくださいよ? 体調を崩すのが一番ダメですから」
「わかっているとも。それに、これから初のラーメンを食べるんだ。体調不良などになっては死んでも死にきれないよ」
彼女の目の奥には光が宿っている。やはり初めてのものを体験する時は心が躍るらしく、彼女は終始落ち着かない様子で今か今かと自分の番を待ちわびていた。
ただ、良二は困り顔で頬を掻く。
「まぁ、今日食べるのは『ラーメン』と言っていいのかわかりませんけど……」
「? どういうことだい? ゲテモノということかな?」
「たぶん見たらわかりますよ。ほら、列が動きましたから」
「っと、すまない」
二人はなるべく間隔を開けないようにして詰める。ディシディアはわずかな息苦しさを感じながら辺りを見渡して、わずかに目を細めた。
「男性客が多いな。女性客は……数えるほどしかいない」
彼女の言う通り、長蛇の列の中には女性はほとんどいない。男性――それも大学生や働き盛りの社会人が多い。しかも体格がよく、がっしりとした人たちばかりだ。
ディシディアはさらに目を凝らし、店の看板を見やる。そこにはデカデカと『ラーメン・オーク』という文字が描かれていた。
それを見たディシディアは合点がいったようにポンと手を打ちあわせる。
「なるほど。おそらく、大盛り系のラーメンじゃないかな?」
「おぉ、流石。どうしてそう思ったんです?」
「理由は三つさ。まず、客層。おそらく部活帰りと思われる子たちがたくさんいたからね。それと、看板の文字。それから、この匂いかな」
ディシディアは自分の小さな鼻をチョンと指でつついてみせる。鼻をひくつかせればニンニクの香りがぷ~んと漂ってくる。それは決して不快なものではなく、こちらの胃袋と脳髄をズシンと響かせる重低音のような力強いものだ。
ディシディアは流し目で横を見やりつつ、腹部にそっと手を置いた。
「正直、今の私にはうってつけだね。あいにく腹ペコなんだ」
「それはよかった。ただ、この店には一つだけ条件があります」
その時、良二の目がキリリと吊りあがった。そのただならぬ様相に、ディシディアも思わず居住まいを正して息を呑む。
良二は神妙そうな顔つきをして、ごくりと息を呑み、静かに口を開く。
「絶対に、食べ残しをしてはいけない、ということです」
それは重苦しく、厳かな口調だった。が、当のディシディアはぽかんと口を開け、カラカラと心底おかしそうに笑う。
「私にそれを言うのかい? 私は食べ残しだけは絶対にしないさ。どんなことがあってもね」
「いや、本当気をつけてくださいよ。噂じゃ、食べ残したらスープの出汁にされるとか……」
「はは、怖い怖い。気をつけなくてはね」
良二は真剣そうな顔つきだったが、ディシディアは冗談半分に聞いているようだ。
そうこうしているうちに二人の番が到来し、券売機の前に立ち並ぶ。
「俺は『ラーメン』を買いますけど、ディシディアさんは?」
「私は『大ラーメン』で頼む」
「……本当に大丈夫ですか?」
「私を信じたまえ。リョージ。頼むよ」
潤んだ瞳で、上目づかいで言われては反論することなどできはしない。良二は唇を尖らせながらも大ラーメンのボタンを押し、出てきた食券を受け取った。
「次の方、どうぞ!」
その直後、店員の野太い声が響き渡り、ディシディアたちは脇の席へと腰かける。と、すぐさま恰幅のいい店員が歩み寄ってきた。彼は良二から食券を受け取るなり、
「トッピングはいかがいたしますか?」
と、問う。それを受け、ディシディアはキョトンと目を丸くした。
「トッピング?」
「はい。この店では『野菜』・『ニンニク』・『アブラ』がトッピングで追加できます。野菜は元々少し入っていますが、どうしますか?」
「ふぅむ……なら、とりあえず全部大盛りで頼む」
何気ないその一言に、店内がざわつく。なぜそんな反応をされたのかわからないのか、ディシディアはきょろきょろと辺りを見渡していた。
「嬢ちゃん。やめときな。素人にゃ荷が重すぎる」
ディシディアの隣に座っているガタイのいい男性が諭すように告げる。だが、それが返ってディシディアの反抗心を煽ることになったのだろう。彼女はニィッと口元を吊り上げて、グッと親指を突き上げた。
「心配ご無用。こう見えても私はかなりの大喰らいだ。たかだかラーメンくらい、ぺろりと平らげてみせるさ」
「……後悔するぜ」
とは言いつつも、これ以上は言っても無駄であることを悟ったのであろう。男性は自前と思われるペットボトルのお茶をグビッと煽る。
店員はやや戸惑っているようだったが、やがてカリカリと伝票に彼女の注文を書きこみ、今度は良二に同じ質問を寄越す。
「俺はニンニクマシで」
「はい! かしこまりました!」
店員はそれだけ言ってそそくさと店の中へと戻っていく。その後ろ姿を見送るディシディアはニコニコとしながら足をプラプラさせていた。
「ふふふ、早く食べたいよ。この匂いを嗅いでいるだけでお腹が空いてきた」
店内を満たすのは濃厚なスープの匂い。耳朶を打つのは麺を啜る音だけ。
なんと素晴らしいことか。この空間だけ、現実世界から切り離されたかのようだ。
卓上には追加のタレと黒こしょう、そしてお酢が置かれている。ディシディアは物珍しそうにそれらを眺めながらも割り箸を二膳取り、良二に手渡した。
「ありがとうございます。あの、ディシディアさん。本当に無理しないでくださいね……?」
「大丈夫だとも。リョージは心配性なところがあるね。まぁ、それが君のいい点でもあるのだけど」
良二は正直気が気でなかった。彼はこの店がどのような場所であるのかを知っているからだ。
本当はサプライズでディシディアを驚かせようとしていたのだが……まさかこんなことになるとは露ほども思っていなかった。しかし、いまさら悔やんでも後の祭り。彼にできるのは彼女が料理を完食できるよう祈ることだけだった。
そんな彼の心情など露知らず、ディシディアはぐうぐうと唸りを上げる腹の虫を宥めていた。彼女の方も臨戦態勢は整っているようである。
そうして、渇いた喉を潤すために水を煽った直後だった。
「お待たせしました! 大ラーメン全マシマシお待ちです!」
店員の大きな声が響き渡ったのは。
「おぉ! 待ちわび……た……よ」
彼女の声は尻すぼみにしぼんでいった。彼女の視線にあるのは――ラーメンの器に盛られたもやしの山。しかも、その器もあり得ないくらい大きい。少なくとも、ソバなどを入れる器の倍近いように思えた。
「りょ、リョージ。これは……」
「すいません、ディシディアさん。もったいぶらないで初めに言っておけばよかったです……ここはこういうお店なんですよ」
良二も自分の元にやってきたラーメンを見やりつつ、そんなことを呟いた。ディシディアは最初の勢いはどこへやら、眼前にある巨大な物体に恐れおののいている。
「だから言ったんだ。やめとけ、と」
隣に座る男性の言葉に、店内にいた常連たちがうんうんと頷く。
ディシディアは愕然としていたが、彼らの様子を見てムッと唇を尖らせ、箸を取る。
「い、行く気ですか?」
「もちろん。いただきます」
ディシディアはこれまでで一番気合を込めたようにその言葉を告げ、まずはもやしの山に箸を突っ込む。麺どころかスープすら見えないのだ。まずはこれから片づけねばなるまい。
彼女はもやしを取れるだけ取って口に運ぶ。
「ふむ……まぁ、不味くはないな」
もやしはシャキシャキとしていて甘く、茹で加減も抜群だ。が、少し物足りないように思われる。
「もやしはスープに浸して食べてみな」
またしても横から男性の言葉が入る。ディシディアはぺこりと会釈しながらもやしの束をスープに浸し、パクッと頬張った。
刹那、彼女の顔が歓喜に彩られる。
「これは……ッ! 先ほどまでとは段違いの美味さだ……ッ!」
濃厚な豚骨醤油のスープにもやしが絶妙にマッチする。スープはその匂いに違わずかなり濃厚でクリーミーだ。しかし、くどさはなく癖になる味である。
脇に添えられたニンニクや背脂を溶かしこむとまた一層深みとコクが増し、新鮮な風味を楽しむことができる。卓上にあるブラックペッパーなどを散らしても楽しむことができた。
「どうだい? いけるだろう?」
男性はニヒルに口元を歪めていた。ディシディアはもやしを口いっぱいに頬張りながらコクコクと赤べこ顔負けの首肯を返す。男性は満足げな笑みを浮かべながら割り箸を割り、自分のラーメンに戻る。
ディシディアはもやしを嚥下するなり、今度は顔を出してきた麺を無理矢理もやしの下から引きずり出して勢いよく啜る。
太めの縮れ麺にはスープがよく絡んでいる。モチモチの麺とシャキシャキのもやしとの食感の対比も実にすばらしく、その外見からは想像もできないほど繊細な造りになっていた。
「さて、お次は……」
彼女は大ぶりのチャーシューに箸を伸ばす。普通では考えられないくらいの厚さで数センチはある。が、噛むと口の中でほろりとほぐれていき、たっぷり吸っていたスープの旨みを解放する。トロトロの脂身は甘く、思わず蕩けてしまいそうなほどだ。
「ほぅ……」
「気に入ってくれたようで何よりです。でも、本当に食べられますか? 俺は少な目にしたので、よかったら食べますよ?」
確かに、良二はこうなることを見越していたのかほとんどトッピングを入れていない。麺の量もディシディアの半分以下だ。
彼女は一瞬だけ思案気に眉を寄せたものの、やがてコトリと箸を置いた。
「気持ちだけ受け取っておくよ。こんなに美味しいんだ。食べられるさ」
彼女は堂々と、大賢者の風格を醸し出しつつ告げる。
が、その十分後。
「……うぷっ」
そこには、青ざめた顔でラーメンと向き合っているディシディアがいた。
「こ、これはきついな……」
もやしと麺はようやく半分減ったくらいだ。チャーシューに至ってはまだ一枚残っている。ディシディアは震える箸でもやしの束――といっても数本程度を取り、口に運んだ。
「ディシディアさん。無理しないでください。俺は大丈夫ですから」
「そうだぜ、嬢ちゃん。兄ちゃんに食べてもらった方が賢明だ」
良二と隣の男性がそんな言葉をかけてくるが、ディシディアはフルフルと首を振ってわしっ! と麺を取り、ズゾゾゾ……と啜る。
彼女は額に脂汗を浮かべつつも、不敵に口元を歪めてみせる。
「ま、まだまだ……」
その言葉通り、彼女は勢いを盛り返し、もやしをあっという間に感触。そうして口の中を水で煽るなり、麺を持ち上げた。
すでに麺はスープを吸ってふやふやになっている。固めにしてはいたが、それでもスープの水気は吸ってしまうのが麺の常だ。より重量感を増した麺はまるで鉛のようにも感じる。
が、ディシディアは大口を開けてずるずると麺を啜り、チャーシューにがぶりと噛みつく。
「無茶だ……終盤にチャーシューがほとんど残ってるなんて」
そんな言葉が店内のどこかで上がる。見れば、店内にいる全員の視線は小さな体の彼女へと向いていた。
傍から見たら、幼女が大食いチャレンジをしているように見えるのかもしれない。中には応援してくれている者たちの姿もあった。
ディシディアはそれが聞こえているのかいないのか、口元を緩ませながらチャーシューを頬張っていき、よく咀嚼した後で静かに目を閉じて箸を置く。
――すでに、器の中にはわずかな麺ともやしの残滓があるだけだ。彼女はカッと目を見開き、それをレンゲで掬いスープとともに一気に口内へと流し込み――達成感のある顔で手を打ちあわせる。
「ご馳走、さまでした」
直後、店内では拍手喝さいが巻き起こる。誰もが彼女の健闘を讃えてくれていた。
ディシディアは苦しげにしながらもそれに手を振り返す。と、そこで隣にいた男性がポケットティッシュを差し出してきた。
「そらよ。口元が汚れてちゃかっこつかねえぜ」
「……ありがとう。色々と忠告助かったよ」
「どういたしまして。しかし、中々やるな、嬢ちゃん。いい喰いっぷりだったぜ」
男性は目尻に浮かぶ涙を親指の腹で拭い、拳を突き出してきた。ディシディアも彼に笑みを返しながら拳を付き合わせ、最後に握手を交わす。
「お疲れ様でした。ディシディアさん。それじゃ、帰りましょうか」
「あぁ。と、言いたいところだが……」
そこで、ディシディアは困ったような笑みを浮かべる。良二はこの後の展開を予測し、額に手を置いた。
彼女はポリポリと頬を掻きつつ、
「……すまない。満腹で動けないんだ」
この後、ディシディアは良二におんぶされて家まで帰ったのは言うまでもない。
そして、しばらくこの店ではディシディアの名が『大食いの幼女』の名で語り継がれることになるのだが……それはまた別のお話。