第八十三話目~秋のパン祭り!~
来たる休日、ディシディアと良二は二人並んで商店街を歩いていた。やはり休みの日は平日とは段違いに混んでおり、人の流れも活発である。
が、ディシディアはもう人酔いをすることはない。他の場所ならまだしも、この商店街はすでに馴染みの場所だ。彼女はすれ違う老人やら子どもたちやらににこやかにあいさつをしながら進んでいく。
一方、そのやや後ろを歩く良二は少しだけ嬉しそうに目元を下げていた。
「どうしたんだい? 何か気になることでも?」
「いや、ディシディアさんもだいぶこの世界に慣れてきましたね。改めてそう感じますよ」
言いつつ、良二はディシディアに視線を移す。
彼女は栗色のカーディガンと白黒のチェックスカートを身に纏っている。彼女の纏う雰囲気とそれらの色合いは非常にマッチしており、見ているものに安心感を与えてくれた。
最近彼女はこちらの世界の衣装にも注目しており、たまにファッション系の雑誌も購入しているのだ。また、通販なども使って積極的に洋服を買っており、彼女もこの世界の服を着ることを楽しんでいるようだった。
「ふふ、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
良二の視線を受けるディシディアは照れ臭そうに微笑みながら、その場でクルリとターンしてみせる。ブーツの踵が地面にあたるカツンという硬質な音を聞きながら、良二はまた頬を緩めた。
「てか、ディシディアさんって結構何でも似合いますよね」
「褒めても何も出ないよ? まぁ、パンくらいは奢ってあげようか」
その言い分に、良二は苦笑する。
今日は彼女のたっての申し出により、件のパン屋へと赴くことになっていたのだ。
良二もこの商店街には何回も訪れているが、そのパン屋の名前は知らない――つまり、アメリカに行っている間にできたものだろう、とは推測していた。
少しばかりの不安はあるが、ディシディアが非常に楽しそうに話すので、それもどこかに飛んでいって今は期待しかない。
彼女の舌は確かなもので、信頼に値する。良二はそう判断していた。
「さてさて、もうそろそろのはずだが……ほら、見えてきた」
ディシディアはその場でぴょこぴょこと飛び跳ねながら、前方を指さしてみせる。確かにそこにはパン屋があり、今も美味しそうな匂いが風に乗って漂ってきていた。
ちょうど昼時ということもあって、店にはいくつかの人影が見えている。ディシディアはやや思案気に眉を寄せてから、ポンと手を打ちあわせた。
「そう焦ることもない。ゆっくり行こう」
「ですね。そうしましょうか」
流石に売り切れる、ということはないだろう。二人はそう判断し、ゆっくりと店へ向かっていく。
その間にも、良二はディシディアに問う。
「あのパン屋の店員さんとは顔なじみなんですよね?」
「あぁ。少々大人しい子だが、とてもいい子さ。君よりも一つか二つ下だと思うよ」
「へぇ……」
良二は何の気なしにため息を漏らしたが、そこでディシディアがニヤリと口角を吊り上げる。
「ちなみに、とても可愛い子だよ。口説いてみたらどうだい?」
「なっ!? 何言っているんですか!?」
「いや、何。君からは全く色恋の話を聞かないのでね。まぁ、軽い老婆心だと思ってくれ」
「俺は……別に今は彼女とかいりませんから。ディシディアさんがいますし……」
良二は最後の方だけ声を潜めつつ、そんなことを呟く。対するディシディアは妖艶な笑みを浮かべながら彼の顔を見上げていた。
良二の頬は少し赤くなっている。ディシディアほどではないが、良二も態度や顔に心情が現れやすいのだ。
彼は手で顔をパタパタと煽ぎながらジロリとディシディアを見やる。
「て、ていうか、ディシディアさんもあまり恋愛の話しないですよね?」
「ふふ、まぁね。大人の女には秘密が多い方がいいんだよ」
ディシディアはパチリとウインクをしながらそんなことを言ってみせる。良二は不貞腐れたように唇を尖らせたが、
「まぁ、ディシディアさんらしいですね」
とだけ言って視線をパン屋の方に戻す。対するディシディアも「だろう?」とシニカルに答えてみせ、前方を見やった。
すでにパン屋は間近に迫っている。ディシディアは胸から掲げている例のがま口財布をちらつかせながら、
「今日は私の奢りだ。好きなものを頼むといい」
「はい。そうさせてもらいますよ」
良二の言葉を受け、ディシディアはゆっくりとパン屋の扉を開けた。すると、ちょうど中にいた女性店員――玲子がこちらに向きなおり、ハッと口元に手を当てる。
「い、飯塚先輩?」
「あれ? 一乗寺さん? ここでバイトしていたの?」
「なんだ、知り合いかい?」
ディシディアが交互に見渡しながら問いかけると、二人はコクリと首肯を返した。
良二はごほんと咳払いをしつつ、玲子の方を手で示す。
「ゼミの後輩です。今は大学二年生で……外国語学部、だよね?」
「は、はい。いつも飯塚先輩にはお世話になっております……」
玲子はいつも通りぽつぽつと呟くような独特の喋り口で続ける。
「え、えと、飯塚先輩。そちらの方は、お知り合いですか? も、もしかして、お付き合いされているとか……」
「違う違う! 見てわかるでしょ? 親戚の子だよ」
「……そこまで必死に否定しなくてもいいだろう」
ディシディアはムスッと頬を膨らませながら良二の脇腹を小突く。彼は彼女に対してぺこりと頭を下げつつ、ぐるりと店内を見渡した。
「へぇ……綺麗な店内ですね」
「そうとも。もちろん、味の方も保証するよ」
「あ、ありがとうございます。ディシディアちゃん……」
玲子は顔を真っ赤にしながら頭を下げる。と、そこで良二がトングとトレイを掲げて彼女の方に詰め寄った。
「何かオススメはあるかな?」
「は、はい! えと、えと……あ、そうだ。『チョコデニッシュ』と『カレーパン』は焼き立てですよ。それから……新製品の『ジャーマンポテトパン』も是非」
「ありがとう。ディシディアさんはどれにします?」
「私は……これとこれだね」
彼女が取ったのはチョコデニッシュとカレーパンだ。やはりオススメは押さえておく主義らしい。良二はコクリと頷きつつ、『ジャーマンポテトパン』と一番手近にあった『焼きそばパン』。それから『餡パン』をトレイに乗せた。
「とりあえず、俺はこれくらいで」
「本当にそれだけでいいのかい? 私の奢りだ。遠慮はしなくていいんだよ?」
「いやいや、だって、わけっこするでしょう? なら、これくらいがちょうどいいですよ」
「むぅ、それもそうか。うん。では、これで頼むよ」
「は、はい! ありがとうございます!」
玲子は相変わらずテンパった様子を見せながらレジの作業を開始する。
その様子を見ながら、ディシディアは良二に尋ねた。
「学校でのレーコはどんな感じなんだい?」
「真面目ないい子ですよ。授業も真面目に受けてますし、ゼミでの活動も毎回参加してます。確か、今年は留学に行くんだよね?」
「え、えぇ……で、ですので学校は少しだけお休みする形になります……あ、お会計は七百八十円です」
「うむ。ではこれで」
ディシディアは千円を出し、それからビニール袋とお釣りを受け取る。
玲子はピシッと背筋を伸ばし、恭しく礼をしてきた。
「で、では、ありがとうございました。飯塚先輩。ディシディアちゃん。またいらしてください」
「うん。もちろん。じゃあ、一乗寺さん。また学校で」
良二はすぐにパン屋を出ていってしまう。が、ディシディアだけは玲子の方に歩み寄ってちょいちょいと手招きをしてみせる。
玲子は戸惑いながらも彼女の方に体を寄せた。すると、ディシディアはそっと耳打ちしてくる。
「今度、リョージが学校でどんな様子なのかも教えてくれ。もちろん、彼には内緒で、ね?」
「……はい。わかりました」
玲子は薄桃色の唇を半月の形に歪めながら言ってみせる。ディシディアはそんな彼女に対してひらひらと手を振りつつ店を後にした。
「何の話をしていたんです?」
「女子トークさ」
問いかけてくる良二をのらりくらりとあしらいつつ、ディシディアは袋の中からパンを二つ取り出してみせた。そうして、片方を彼に渡す。
「では、食べながら帰るとしようか」
「えぇ。それがいいですね」
良二は焼きそばパンを受け取り、包装を剥がす。一方のディシディアもチョコデニッシュの袋を取り去り、そっと目を閉じた。
「いただきます」
すれ違う人にぶつからないようにしながら、大口を開けてデニッシュにかぶりつく。
生地はパリパリっとしており、噛むにつれて口の中でシンフォニーを奏でる。濃厚なチョコはトロ~っとしており、生地との相性は最高だ。
パリパリサクサクとした食感は実に心地よく、目が覚めるようである。ディシディアはすっかり気に入ったようで耳を激しく上下させていた。
が、半分ほど食べたところで、良二の方にひょいっと差し出す。
「じゃあ、交代といこうか」
「はい。どうぞ」
良二の持っている焼きそばパンと自分の持っているチョコデニッシュを交換。そうして、彼女は大口を開けて焼きそばパンにかぶりついた。
コッペパンはふんわりとしており、麺はモチモチしている。ソースの香りが絶妙に食欲を刺激し、青のりの風味がたまらない。アクセントとして加えられた紅ショウガもまたいい味を醸し出していた。
「うん。これはイケるね」
「こっちのデニッシュもイケますよ。パリッとしていて……あ、紅茶と合いそうじゃないですか?」
「確かに。ストレートティーと食べたいものだ」
などと言いつつ、ディシディアは焼きそばパンを食らっていく。薄切りの豚肉が味の主軸をなしており、噛み締めるほど肉と脂の旨みが溢れてきた。それがパンと麺に絡む瞬間はまさに極上。
炭水化物の合わせ技――カロリーは絶大だが、美味いのは経験済みだ。
あっという間に食べ終えたディシディアは袋の中からカレーパンを取り出す。
「あ、俺もおかわり」
良二もジャーマンポテトパンを取り出し、満足げに息を吐いた。
対するディシディアも期待に胸を膨らませながらカレーパンを頬張る。
カリッと揚げられたパンはほのかに甘く、それがカレールゥの辛さと絶妙なバランスを保っているおかげで辛いものが苦手なディシディアでも十分食べやすい。
角切りにされたジャガイモやニンジンなども入っており、食べごたえは抜群だ。
出来立ての名に恥じぬアツアツのカレーパンは実に見事な出来栄えで、スパイシーな味が癖になる。気づけば半分以上食べそうになっていたディシディアはハッとして口元に手をやった。
「危ない危ない……さぁ、リョージ。交換だ。早く取ってくれ。私が食べないうちに……」
「そんな暴走寸前みたいな……」
嘆息しつつも、良二は自分のパンとカレーパンを交換。ディシディアはほっと息を吐き、ジャーマンポテトパンにかぶりついた。
生地のベースはエピと同じもの。だが、パン全体を見ればあれとはまた違うベクトルのものだ。
あちらはチーズの香ばしさを前面に押し出したものだったが、こちらはポテトとベーコン、そしてブラックペッパー。この三つが味の主体だ。
ポテトはホクホクとしており、ベーコンから出た肉汁をすべて吸収している。ベーコンの脂は甘く、しかしブラックペッパーのピリリとした刺激が味に変化をもたらしていた。
見た目はこってりしているように見えるが、その実あっさりとしていていくらでも食べられそうだ。しかし、それは物足りないという意味ではない。むしろ、食べごたえは十分である。
咀嚼するうちに三つの具材と生地が混じり合い、口の中で秩序を織りなす。
ディシディアはニコニコと微笑みながら嬉しそうに頷いていた。
「気に入りましたか?」
「あぁ。君の方こそ、ずいぶん気に入ったみたいじゃないか」
指についた油まで舐めている良二をジト目で見つつ、ディシディアは告げた。彼はたはは、と苦笑しつつ肩を竦めた。
「いや、だって美味しいんですもん。このパン」
「だろう? 私の舌には狂いはないさ」
自分が作ったわけではないのに、ディシディアはえっへんと胸を張ってみせる。その姿がとてもひょうきんに見えてしまい、良二はぷっと吹き出してしまう。
ディシディアもつられて笑いながら、最後の一つを袋から取り出した。
「さて、最後に残ったのは餡パンか……」
「もう割っちゃいましょうよ」
「それもそうだね」
ディシディアはパンを両手で掴み、グッと力を込めてみせる。
なるべく均等になるように――。
そんなことを考えながら彼女は手を引いていき――やがてパンを二つに割る。が、すぐにその口からため息が漏れた。
「しまった……すまない、リョージ」
なるべく均等になるようにしたのだが、結果は……失敗だった。
右手に持つパンはほぼ原形を保っているのに対し、左手に持つパンは欠片程度しかない。
ディシディアはガックリと肩を落としながら右手のパンを良二に差し出した。
「……さぁ、リョージ。これは君のだ。食べたまえ」
が、良二はフルフルと首を振って彼女の手を押し返す。
「いや、それはディシディアさんが食べていいですよ」
「しかし、これは……」
ディシディアはまだ何かを言いたそうだ。が、それを見かねた良二は咄嗟にディシディアが左手で持っているパンを手に取り、口に放り込む。
彼はあんぐりと口を開けているディシディアに対し、グッとサムズアップしてみせる。
「もう俺はこっちを食べてしまいましたから、ディシディアさんはそっちをどうぞ」
「……全く、君はズルいな。ズルいくらい、優しいよ」
ディシディアはジト目で彼を睨みつけつつ、餡パンを口に入れる。
ふわりとした生地からは微かに酒の風味が感じられる。それがあんこといい具合に絡み合うのだ。粒あんは小豆の食感を残しつつも、舌触りも滑らかだ。
「うむ……優しい味だね。ほっとする、懐かしい味だ」
素材に関しては吟味されている。焼き方も絶妙だ。が、気取った感じはしない。
食べていると懐かしさを覚えるような、そんな味だ。
あんこの優しい甘さが体の疲れをじんわりとほぐしてくれるようである。ディシディアはぱくぱくとパンを食べながら、ふと空を見上げた。
「たまには、こうやってのんびりするのもいいね」
「えぇ。今度、また散歩にでも行きませんか?」
「いいね。君となら楽しそうだ」
「それはどうも。ありがとうございます」
良二はそう答えつつ、ちらとディシディアの方を見た。
(それはこっちのセリフですよ、ディシディアさん……)
彼女といると退屈することがない。それに、彼女が何かを食べている時に見せる幸せそうな表情は見ているだけでこちらも嬉しくなるほどだ。
良二は満足感を覚えながら静かにディシディアの方に手を伸ばす。彼女は目をパチクリさせていたが、ややあってその手をキュッと握ってくる。
二人は互いの温度を感じながら、ゆっくりと家へと歩いていった。