第八十二話目~卵スープと間接キス~
夕方、ようやく学校を終えて自宅に着くなり、良二は困惑していた。台所には山のように積み重なった缶ビールの残骸があり、居間にはすやすやと心地よさ気な寝息を立てているディシディアがいたからだ。
今に布団を敷いて早々に寝ているディシディアは穏やかな顔をしている。が、対する良二は頬をひくつかせつつ、額に手を置いた。
「マズイな……」
ディシディアは自由奔放なところがある。それはある程度容認していたのだが、今回は流石に見過ごせない。
いくらなんでも呑み過ぎだ。それも、おそらくは昼に呑んだのだろう。
良二は深いため息をつきつつ部屋に上り込み、寝ているディシディアの傍に腰掛けた。
「ディシディアさん。ディシディアさん。起きてください」
「ん……むぅ」
彼女の形のよい眉がピクリと動いた。かと思うと、彼女はうっすらと目を開けて、まるで赤子のように無邪気に微笑んでくる。
「やぁ、おはよう。それと、おかえり。リョージ」
甘ったるい声音で言われると、なんだか本当に子どもみたいに思えてしまう。
だが、今回ばかりは心を鬼にしなくてはならない。良二は緩みかけていた顔をシャキッと引き締め、強い語調で告げる。
「ディシディアさん。あのビールはどうしたんですか?」
普段の彼でないことにディシディアもすぐに勘付いたのだろう。彼女は大きな欠伸と共に体を起こし、流れるような仕草で正座をしてぺこりと頭を下げた。
「すまない。昨日居酒屋で飲めなかった反動で、飲み過ぎてしまったようだ」
「確かに、飲みたそうにしてましたもんね……でも、あれは流石にダメですよ。飲み過ぎです」
「ぐうの音も出ないよ。本当にすまなかった」
素直に謝罪を述べる彼女を見ていると邪気を抜かれたのか、良二はバツが悪そうに頭を掻いてため息をついた。
もうちょっと否定したり言い訳をしてくれれば多少きつめに言えたのだが、これでは仕方ない。
「まぁ、今回は大目に見ますけど……あまり飲み過ぎてはダメですよ。体に毒です」
「肝に銘じておくよ。流石に私も呑み過ぎたと……あたたたた」
言葉の途中でディシディアは辛そうに顔を歪めた。
まるで頭の内側からハンマーで殴られているような、そんな感覚に苛まれる。早速飲み過ぎた反動が返ってきているようだ。
「大丈夫ですか? お水、飲みます?」
心底不安そうに問いかけてくる良二を見て、ディシディアはわずかに口元を歪めた。
(やはり、君は優しいね……)
先ほどまでしかめっ面をしていたというのに、自分が辛そうにしていると途端に心配してくれる。その優しさを感じながら、ディシディアはフルフルと手を振った。
「いや、気にしないでくれ。ただの飲み過ぎさ」
「もう……しょうがないですね」
言いつつ、良二は鞄の中からペットボトルのお茶を取り出して差し出してくれる。
すでに温くなっているそれをディシディアはこくこくと喉を鳴らして飲んでいく。多少ではあるが頭痛は引き、目も冴えてきた。
「助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして。すぐに夕食を作りますから、そのまま寝ていてください」
良二はどたばたと厨房に駆けていき、早速湯を沸かす。ディシディアはそんな彼の様子をじぃっと眺めていた。
彼はまだディシディアから見ればまだ子どもだ。が、すでに一人の『男』になりつつある。その後ろ姿は逞しくて、大きかった。
「頼もしいことだ……なぁ、リョージの母上よ。貴女の息子は大きく育っているよ」
彼女はふと窓の外に視線をやり、そんなことを呟く。窓の外には大きく丸い月が上っており、夜空を微かに照らしていた。
「にしても……今回は流石にやりすぎたな」
やはり自覚はあるのか、ディシディアはしょんぼりと肩を落とす。
いくらおあずけを食らっていたからとはいえ、半ダース以上ビールを空にしてしまうのは度が過ぎている。彼女はチラ、と台所にある缶ビールの山を見て瞑目した。
「……リョージ。これからはなるべく酒を控えるよ」
「そうしてください」
「あぁ。ただ、一つわかったことがあるんだ?」
「何ですか? 二日酔いの辛さですか?」
「そう意地悪を言うな……まぁ、一人で酒を飲むのもいいのだがな。どうせなら、君と飲みたい。そっちの方が、美味しく感じるからね」
「……」
良二は答えない。だが、その横顔はどこか嬉しそうで、頬は朱に染まっていた。
ディシディアはそんな彼を一瞥した後で、月を見やりポンと手を打ちあわせた。
「月見酒、というのも中々よさそうだね。よかったら、今度一緒にどうだい?」
「いいですね。でも、どうせお月見するなら団子の方がよくないですか?」
「団子か。いいね」
(まぁ、君となら何でもいいさ)
内心そんなことを考えていると、良二がトレイを抱えてやってきた。そこには一杯の椀が乗っている。良二は微笑みながらその場に腰を下ろし、トレイをディシディアにそっと手渡した。
受け取った彼女は椀を見て「あぁ」と頷く。
「なるほど。卵スープか」
「えぇ。酔った時にはこれが一番ですから。はい、冷めないうちにどうぞ」
良二はレンゲを差し出しつつ、そう告げる。ディシディアは急かされつつも静かに手を合わせ、
「いただきます」
レンゲを使ってスープを口に含み、ほぅっと息を吐いた。
「あぁ、実に優しい味だ……身体が喜んでいるよ」
ディシディアは目を細めながら自分の腹部を撫でさする。
鳥ガラベースの中華風卵スープはとてもあっさりしていて、飲みやすい。
卵はふわふわのトロトロで、ツルンと喉を下っていく。
水溶き片栗粉で微かにとろみをつけているのもまたいい。それによって満足感がプラスされていた。
食べているとほっこりするような味だ。どこか懐かしく、温かい。食べていると体の内から温まっていくようだ。
一方、良二は美味しそうに食べているディシディアを見て微笑みつつも、ピッと人差し指を立てる。
「今日はこれだけです。飲み過ぎてお腹が弱っていると思いますから、重いものは無理だと思いますし、何より最近は食べ過ぎです。たまには胃を休めることも覚えましょう」
「むぅ……今日はやけに言うね」
「流石に今回のは見過ごせませんから。無理をして困るのは自分なんですよ? それに、ディシディアさんの体は自分だけのものじゃないんです。病気になったら、俺も他の人たちも心配しますよ」
「……そうだね。今回の件はいい機会になったよ。自分を省みる、ね」
ディシディアは耳と肩をしょんぼりと縮ませている。良二はまだ何か言いたそうにしていたが、彼女の様相を見て言葉を飲みこみ、ガシガシと髪を掻き毟った。
「……わかってくれたなら結構です。まぁ、誘ってくれれば俺も飲みに付き合いますから、一人でがぶ飲みするのは避けてください」
「あぁ。そうするよ」
と、彼女が答えた直後だった。
ぐごごごご……地の底から響くような重苦しい音が部屋に響き渡ったのは。
これまでの経験から、ディシディアは真っ先に自分の腹に手を当てたが――すぐにその発信源が誰であるのか気づく。
「リョージ?」
彼女はニヤニヤと意地悪そうな笑みを湛えながら顔を真っ赤にして腹を抑えている良二を見やる。良二はやや涙目になってディシディアをジト目で睨んでいた。
先ほどまでとは一変した態度を見せる良二を見ていると、もっと意地悪がしたくなってしまうが、そこは大人の意地で我慢。ディシディアは慈母のような笑みを浮かべつつ、スープを掬ったレンゲをそっと良二の方に差し出した。
「君も学校で疲れただろう? ほら、飲みたまえ」
「い、いや、俺は……」
良二は顔を背けるが、スープから漂ってくる芳しい香りには逆らえない。
空腹の胃に染みこむような、優しい匂い。チラリと見ればふわふわのかき玉がまるで黄金のベールのように広がっていて、見ているだけで唾が溢れてくる。
ディシディアはあえて焦らすようにレンゲを揺らしながら、
「ほらほら、早くしないと私が飲んでしまうよ? こんなに美味しいのに、いいのかい?」
「~~~~~~っ!」
良二は顔を真っ赤にしながらもパクッとレンゲにかぶりつく。その瞬間鶏がらの含みのある風味が口の中いっぱいに広がり、ふわふわのかき玉とスープが口の中で一体になって喉を下っていった。
良二はゴクリと喉を鳴らした後で、へにゃっと顔を緩めた。
「やっぱり、美味しいですね」
「あぁ。美味しいとも。にしても、どうして食べるのを拒んだんだい?」
その言葉に良二はまた赤面して、唇を尖らせながらそっぽを向き頬を掻く。
「それは、その……か、間接キスになるじゃないですか」
存外可愛らしい理由に、ディシディアはぽかんと口を開けてしまう。が、次の瞬間にはまた意地の悪そうな笑みを浮かべ、
「さっき、私にペットボトルをくれただろう? あの時点で、間接キスは成立しているんじゃないかな?」
「え? ……あ」
良二はそこでようやく気付いたらしく、もはや顔から湯気が出らんばかりに赤面している。ディシディアは心底面白そうにコロコロと笑い、目尻に浮かんだ涙を指の腹で拭った。
「ふ、風呂入ってきます!」
この場にいることが耐えられなくなったのか、良二はそそくさと風呂に行ってしまう。一方のディシディアは少しだけ寂しそうな視線を彼の背中に向けながら、スープを口に含んだ。