第八十話目~居酒屋料理はビールが恋しくなる~
「近頃はめっきり夜も冷え込むようになりましたね」
良二は上着の襟を正しながらポツリと呟く。横を歩くディシディアはわずかながら首を振り、はぁ~っと手に息を吐きかけた。
「流石にもう秋だね。あれだけ煩わしかったセミたちの泣き声が恋しくなるよ」
すでに十月に入っており、セミたちのほとんどはその短い一生を終えている。だが、今は鈴虫やコオロギたちの美しい調べが聞こえてきて、それはそれで風流なものだ。
二人は月明かりが照らす夜道をゆっくりと歩いている。今日は良二の帰りも遅く、料理を作る余裕もなかったため、外食をする予定になっているのだ。もちろん、珠江の店で。
久々に彼女たちの店に行けることが嬉しいのか、ディシディアは上機嫌である。それは良二にとっても同じことだった。
珠江たちとは以前から親交があったし、良二にとって二人は年の近い親戚の兄や姉のような存在だ。困ったときは何かと面倒を見てくれるし、生活に困窮している時はまかないとして出している料理を格安で振舞ってくれた。
そういう経緯もあって、良二は二人のことをかなり慕っている。これまでは旅行やら学校やらで中々訪れる機会がなかったが、こうやって久しぶりに会えることが楽しみらしい。彼は鼻歌まじりに指でリズムを取っていた。
「おっと、今日もやっているね。中々繁盛しているようだ」
やがて見えてきた店を見て、ディシディアが腕組みする。すでに店からは灯りと笑い声、それと焼き鳥の香ばしい匂いが漏れてきていた。
「そういえば、夜に来るのは最初以来じゃないかな?」
ふと、ディシディアが疑念を口にした。
確かに、これまで試食会など行く機会は多々あったが夜に来ることは稀だった。
忘れがちだが、珠江たちの店は居酒屋をメインにしている。昼にも店を開けているのは周辺には住宅街や商店街があって、人が集まりやすいからだ。
ただ、夜には夜の魅力がある。焼き鳥の匂いは空腹の二人にとっては殺人級の威力を持つ。二人は誘蛾灯に誘われる蛾の如くふらふらと店の方に引き寄せられていった。
「……さて、と」
ディシディアは一旦店の前で立ち止まり、扉をゆっくりと開ける。すると、厨房にいた二人とバッチリ目が合った。
「あ、ディシディアちゃん! 良くん! いらっしゃい!」
珠江は持ち前の威勢の良さを早速発揮していた。彼女の明るさはまわりにも伝播する。良二たちもつられて笑いながら、もはや指定席となりつつあるカウンター席に腰掛けた。
「よ! 久しぶりだな、夜に来るのは」
大将も同じことを言っている。彼は額に浮かぶ汗をタオルで拭い、すぐさま調理に戻る。その間にやってきた珠江がそっとテーブルにおしぼりと小皿を置いた。
「良くんはビール。ディシディアちゃんは麦茶でいいかしら?」
「ええ、それで大丈夫ですよ」
良二はそう返し、おしぼりで手を拭う。と、そこでディシディアがわずかに顔を暗くしているのに気が付いた。
「どうかしたんですか?」
「……いや、どうせなら私もビールが飲みたいな、と思ってね」
「あぁ……」
良二は頷き、彼女に対して憐憫のまなざしを向ける。
実際の年齢的に見れば別に合法なのだが、彼女の姿は完全に小学生にしか見えない。その上、今は良二の親戚の子として通している。家ならまだしも、外ではビールなど飲むことはできない。
おそらく、あまり夜外出しないのもそれが原因なのだろう。ディシディアは苦笑しながらテーブルの上にある箸を二膳取って自分と良二の手元に置いた。
「はい、お待たせ……って、どうしたの?」
ジョッキに入ったビールとお茶を持ってきた珠江が首を傾げる。どうやら、ディシディアが暗い顔をしているのに気が付いたらしい。
だが、ディシディアは咄嗟に平静を装ってフルフルと首を横に振った。
「いや、なに。気にしないでくれ。少し疲れていてね……」
「あら、そう……可愛そうに。じゃあ、せめて美味しいもの食べて元気になっていって。体の元気はお腹から!」
珠江はポンッと自分の腹部を叩いてみせる。その愛嬌のある仕草にディシディアも頬を緩ませながら、店の壁に貼られたホワイトボードに目を移した。
そこにはいつも店のオススメが書かれている。今日は――『揚げ出し豆腐』や『シーザーサラダ』。それから『軟骨の唐揚げ』などがラインナップに載せられていた。
「ディシディアさん。どれ頼みます?」
良二は手元のメニューを指さしながらディシディアに問いかける。彼女はしばしメニューとホワイトボードを交互に見渡した後で、ピッと人差し指を立てた。
「じゃあ、ねぎまを四つ。後、揚げ出し豆腐……それから、おにぎりを頼む」
「あ、後、軟骨の唐揚げもお願いします」
「は~い。じゃあ、ちょっと待っててね。あ、お通し忘れてたわ……」
珠江はカリカリと伝票にメニューを書きこんでからトトト、と冷蔵庫に立ち寄り、そこから小鉢を二つ持ってやってきた。
「はい。なすのおひたしね。召し上がれ」
「ありがとう」
ディシディアは彼女に一礼してから、ポンと手を打ちあわせた。
「……いただきます」
彼女は箸を持ち、なすを見つめる。
皮には格子状に切れ目が入れてあり、食べやすくしてある。さらに、上には生姜と鰹節がたっぷりと乗せられていた。出汁は透き通ったキツネ色で、夏の色との対比がたまらない。
彼女は口の中をお茶で洗い流してから、ようやくなすを一切れ口に運ぶ。
その瞬間、なすの中からじゅわっと出汁が溢れてきた。よく冷やされたなすは舌触りも良く、香りも十分。しょうがのきりりとしたアクセントも、鰹節の濃厚な風味もそれらを楽しむエッセンスとなっている。
「これ、焼酎とも合いそうですね」
「むぅ……確かに。って、言うな。飲みたくなるだろう?」
ビールの泡を口の端につけながらそんなことを言う良二に対し、ディシディアは少しだけ恨みがましい視線を向けながらも、彼の口元の泡を指で拭い、ぺろりと舐めとった。
「ふふ、相変わらず仲がいいわね。はい、ねぎま四本。おまちどお」
楕円形の皿には大盛りのキャベツと四本のねぎまが乗せられている。ディシディアたちはそれぞれ二本ずつねぎま串を取り、キャベツを取り皿に移した。
ねぎまにかかっているたれは実に香ばしい匂いで、これだけでご飯が何倍でも食べられそうだ。が、やはり肉と合わさるとその良さが段違いに上がる。
鶏肉のしっかりとした味わいに負けることもなく、その良さを引き出している。甘辛いたれは鶏肉はもちろんねぎにもバッチリ合う。たれを少しだけキャベツにつけるのもまた乙なものだ。
「プハァ~……ッ! 美味いですね、相変わらず」
良二は焼き鳥とビールを交互に味わっている。ビールのホロ苦さとたれの甘辛さ、そして鶏肉の旨み。これらの組み合わせはもはや反則的といっても差し支えないだろう。
一方のディシディアは不満げに串から鶏肉をむしり取っていた。
が、そんな彼女に天から――もとい、珠江から救いの手が差し伸べられる。
「はい、ディシディアちゃんにはこれね。塩おにぎり」
「おぉ、待ちかねたぞ!」
ディシディアは耳を激しく上下させながらおにぎりを取り、一気にかぶりついた。
その瞬間、彼女は感動に体を震わせた。
ビールも米も、焼き鳥との相性は抜群だ。しかも、このおにぎりは少々塩が強めにしてある。そのため、麦茶もぐびぐび進むのだ。
「珠江。もう一杯頼む」
「はい。ちょっと待っててね。後『軟骨の唐揚げ』もどうぞ」
珠江はディシディアが抱えていたジョッキを受け取る代わりに、軟骨の唐揚げをテーブルに置く。まだじゅうじゅうと音がしており、それはさながら食材が奏でる歌だ。
その甘美な音に耳を済ませつつ、ディシディアはレモンを手に取って――良二に問う。
「レモンはかけていいかな?」
「俺は構いませんよ」
「なら、遠慮なく」
ディシディアはぎゅうっとレモンを絞り、汁を振りかける。ただし、半分だけ。やはり、オーソドックスなものも味わいたいようだ。
彼女はしぼんだレモンをそっと皿の脇に置き、レモン汁のついた指を舌で舐めながら唐揚げを取る。そうしてちょうど半分こした形になったところで、まずは何も付けていない方を口に放り込んだ。
「あぁ……これは美味い!」
コリコリとした絶妙な歯ごたえとスパイスの効いた衣がたまらない。噛めば噛むほど味が出てきて、おにぎりと食べるとさらに美味さの次元が跳ね上がった。
軟骨自体もいいものを厳選しているのだろう。大ぶりだが、雑味が一切ない。だからこそ、ここまでの美味さが引き出せているのだ。
ただ、一つ難点を上げるならば――ビールと合いすぎるところだ。
おにぎりとも確かに合う。これだけで無限ループに入れそうなほどだ。
が、やはりこれは酒の肴だ。特にビール。ビールと共に食べることでこそ、その真価を発揮する。
その恩恵を受けられている良二は満面の笑みを浮かべて軟骨を食み、ビールをぐびぐびと煽っていた。
絶妙な塩加減の唐揚げは一度食べだすと止まらない。レモン汁がかかっているものは清涼感と心地よい酸味がプラスされ、ますますビールが進む。
「くぅ……羨ましい」
ディシディアは口元を尖らせながら軟骨を口に放り込む。確かに美味いのだが、若干の物足りなさは否めなかった。
が、そんな彼女の元に新たな料理がやってくる。
「おまたせ。揚げ出し豆腐よ」
届いたのは、深めの皿に入れられた揚げ出し豆腐だった。
たっぷりの大根おろしととろみのついた餡がかけられている。薄い衣を纏った豆腐はその形を崩すことなく保たれている。ここだけでも、料理人の技量を伺うことができた。
「……」
ディシディアは無言でそれを取り皿に移し、よく冷ましてから口に入れる。
刹那、じゅわ……っと濃厚な出汁が豆腐から染み出てきて口内を満たす。サッパリとした大根おろしのおかげでしつこさはなくなり、純粋な旨みのみがダイレクトに伝わってきた。
揚げていることで風味がギュッと閉じ込められ、噛んだ瞬間それが爆発する。とろみのある餡は分散することなく豆腐に絡み、とてつもない満足感を与えてくれた。
おひたしはサッパリとしたものだったが、こちらは脳を揺らすほどズシンとした力強い味だ。が、しつこくなく、食べやすい。
たまに顔を出してくる豆腐の甘さも実にいい――が、これまた問題が一つ。
この品も酒に合うのだ。
「むぅ……ダメだ。ビールが欲しくなってしまう……」
ディシディアは心底辛そうに顔を歪めていた。
彼女は酒を何より好んでいるわけではない。だが、このビールと共に食べるのにふさわしいラインナップを前にすれば、その反応も当然だろう。
「……帰り、ビール買いますか?」
「いや、気持ちはありがたいが……私は今食べたいんだ」
そう告げる彼女の顔があまりに悲痛だったので良二はそっと自分のねぎま串を与えたのだが、むしろ逆効果だったのは言うまでもない。