第七十九話目~生姜焼きと思い出話~
トントントン、と小気味よい音がキッチンに響き渡る。良二は非常に慣れた手つきでキャベツを千切りにしており、ディシディアはその横で味噌汁の味を確かめている。
「……よし、中々の出来だ。ほら、飲んでみてくれ」
彼女は小皿に味噌汁の中身を映し、隣にいる良二に差し出す。彼は包丁を動かす手を一旦止めて体をそちらに向け、ズズッと味噌汁を啜った。
「……うん。バッチリです。じゃあ、お椀に注いでください」
「あぁ」
ディシディアはぴょんと台から飛び降りて食器棚からお椀を二つ取り出してそこに味噌汁を注ぐ。今日の味噌汁はもやしとねぎの味噌汁だ。すでに食欲をそそる匂いが立ち上り、ディシディアは調理中もずっと飲みたそうにしていた。
良二はトコトコと居間へと向かっていく彼女の後姿を見送ってから自分もキャベツの千切りを皿の上に盛り付け、続けて生姜焼きの調理に取り掛かる。下ごしらえはディシディアがやってくれていたので後は焼くだけだ。
しょうがのたれと肉が焼けるいい匂いがプ~ンッと漂い、それだけでディシディアはぴくぴくと耳を動かした。
「あぁ……待ち遠しいよ。まだできないのかい?」
「もうすぐですよ。その間に他の料理を並べておいてください」
良二は彼女のを軽くあしらって再び調理に入る。あまり焼きすぎると焦げてしまって美味しくなくなるが、かといって生焼けだと気持ち悪い。この見極めは中々に重要だ。
が、生姜焼きは良二にとって得意料理。彼はあっという間に生姜焼きを仕上げ、キャベツの脇に盛り付けた。
「……はい。もうできましたよ」
「こっちもだ。お疲れさま」
ディシディアはちょうど割烹着を脱ぎかけているところであり、すでに卓袱台の上にはずらりと料理が並んでいた。
今日の献立はもやしとねぎの味噌汁、豚の生姜焼き、きゅうりの漬物とポテトサラダ。そして、忘れてはいけない白米だ。
この完璧とも言える組み合わせを見ているだけで涎が出てくる。良二は口元を手の甲で拭ってから座布団の上に腰掛けた。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
ディシディアも彼に続けて手を合わせ、まずは自分が作った味噌汁を啜る。
キチンと出汁も取られており、中に入っているねぎともやしはシャキシャキとした食感を残している。それらは甘く、白味噌との相性はもちろん、白米とも抜群に合う。
実にホッとする味で、気取った感じがなく食べやすい。ディシディアもその出来栄えに満足がいっているようで、口元を不敵に吊り上げていた。
「ふふ、どうだい? この間のおにぎりは失敗したが、今回は中々だろう?」
「えぇ。とっても美味しいです。というか、あのおにぎりも相当美味しかったですよ。特に最後の一個はほぼ完璧でしたし」
「はは、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
素直に褒められたのがよほど嬉しかったのだろう。ディシディアは照れ臭そうに頬を染めていた。
が、すぐに彼の視線に気づき、ハッとして頬を膨らませる。良二はごまかすように笑ったが、ディシディアはジト目でこちらを睨んだままだった。
「全く……君はたまにすごく意地悪な時があるね」
彼女はぶつくさ言いながらもおかわりを取りに行き、お椀いっぱいにご飯をよそって戻ってくる。
相変わらずの健啖ぶりだ。彼女の食欲は衰えることを知らず、むしろこの世界の味に慣れてきたのか段々と食べるようになってきている。
こっちにいる間に、自分の好きな味というものがわかってきたらしい。ただ、それだけを食べるというのも非常にアンバランスなので、良二が舵取りを行っているのだ。
まぁ、元々彼女は好き嫌いがないので下手に制限をかける方が危険なのだが。
「む? どうした? 私の顔に何かついてるかい?」
ディシディアはハムスターのようにご飯を頬張りつつ問いかけてきた。良二はその愛くるしい姿にまた癒されながら、ひらひらと手を振った。
「いや、別に何でもないですよ」
「……ふむ。そうか。まぁ、いい」
彼女はそう呟き、手近にあったポテトサラダを口に運ぶ。
マッシュされたジャガイモは口触りもよく、アクセントとして入れられた玉ねぎがいい仕事をしている。
マヨネーズによって全体的にマイルドな味になっているが、上に散らされたブラックペッパーがピリッとしたスパイシーさをプラスする。
こちらも至ってオーソドックスな造りだが、だからこそ単純に美味い。
「たまにはこうやって家庭料理を食べるのもいいね。食べ歩きも魅力的だが」
「でしょ? まぁ、食べ歩きもしたいですけどね……」
「学校があるから仕方ないさ。辞めるわけにもいかないだろう」
「それはそうですけど……」
あの夏休みは良二にとってもかけがえのないものだったらしい。彼はとても残念そうに肩をしょぼんと落としていた。
ディシディアはこの世界のことをほとんど知らなかった。だから色んなことに興味を持つし、そんな彼女についていけば必ずといっていいほど新たな経験ができた。
童心に返ったような気持ちが味わえたのは、ずいぶんと久しぶりだったからだろう。良二はあの夏が恋しいようで、ぼんやりと天井を眺めていた。
が、そんな彼の額をディシディアがチョンと指でつつく。見れば、彼女は少しだけ厳しい視線を向けていた。
「いつまでも夏休み気分ではいけないよ。ちゃんと学業をやってこその、学生だ」
「なんか、母親みたいですね」
「実際そうだろう。年齢的にはな」
「いや、年齢的に見れば母親って言うより……」
「それ以上言ったら、怒るよ?」
ディシディアは彼の言葉をバッサリと切り捨て、生姜焼きを口にした。
その瞬間、眉間にできていたしわが一瞬で消え去り、彼女の顔はこれ以上ないほど蕩けたものになった。
甘辛いしょうがのたれは香ばしく、それが豚肉と合う。脂身も甘く、肉は柔らかい。噛めば噛むほど肉汁が溢れてきて、ご飯と一緒に口に含めば体の力がふっと抜ける。
生姜焼きのたれ自体もしっかりとした味付けで、キャベツと一緒に食べてもイケる。むしろ、このたれだけでご飯が何倍でもイケそうなくらいだ。
脂っこさは生姜によってほとんど中和されており、後を引く味になっている。途中でキャベツや他の副菜を挟むことで口の中がリセットされ、一層鮮明に生姜焼きを味わうことができた。
「おぉ……実に見事な出来栄えだ」
「気に入ってくれたようで何よりです……ちなみに、これは俺の母さんが教えてくれたんですよ」
その言葉に、ディシディアはわずかながら身を固くした。
「……そうか。君の母上は、すでに故人だったね。ということは、これはお袋の味に近いものなのかな?」
「ええ。俺の大好物です。まぁ、母さんが作るものには遠く及びませんけど」
それは謙遜などではなく、事実だ。
一応教えてもらったレシピ通りには作っているのだが、かつて子どものころに食べた味とは違う。火加減やたれの絡み具合なども関係しているのかもしれない。
良二はどこか遠い目になりながら生姜焼きを口にする。
対するディシディアは少しだけ目を伏せながら、コトンと箸を置いた。
「……リョージ。やはり君にとって母上は大事な存在だったんだね」
「……えぇ。とても、とても大事な存在でしたよ。いや、今も大事な存在です」
良二は服の胸辺りをぎゅうっと強く握る。かつてのことを思い出しているのか、やや辛そうな顔をしていた。
だからこそ、ディシディアは優しく声をかける。
「……きっと、母上も喜んでいるさ。君が立派な青年になってね」
「俺なんか、まだまだですよ」
「そう自分を卑下するな。もっと自信を持ちたまえ。少なくとも、私から見た君はとても素晴らしい好青年だ」
年相応の大人らしさを垣間見せながら、ディシディアは優しく微笑む。
良二も俯きかけていた顔を徐々に上げ、グイッとお茶を煽って息を吐いた。
「……やっぱり、ディシディアさんはすごいですね」
「まぁ、大人だからな」
わざとらしくえっへんと胸を張ってみせる彼女。それがどこかおかしくて、良二はクスクスと笑ってしまった。
良二は目尻に浮かんでいた涙をこっそりと指の腹で拭い、彼女に向きなおる。すでに元の調子に戻ったことを確認したディシディアは安堵したように胸を撫で下ろして再び生姜焼きを口に運んだ。
「ふむ、つまりこれは君の家庭の味というわけか……いいものだね」
「そう言ってもらえると嬉しいです。あ、そういえば、ディシディアさんの家庭の味って何ですか?」
「私のか? そうだな……」
彼女はニヤニヤ笑いながら顎に手を置いて考え込む仕草をしていたが……ややあって、その目からハイライトが消える。
そうして、彼女は糸の切れた人形のようにだらんと身体を弛緩させるなり、抑揚のない声で答えた。
「……まぁ、固すぎるパンと味の薄いスープだな。幼いころからよく食べさせられていたし、祭りごとの時以外は毎日食卓に上っていた。私もあちらで旅をして色々なものを食べたが、その中でも断トツにマズイと自信を持って言えるよ」
「そ、そこまでですか……?」
「あぁ。想像できるかい? 食事の後は毎回顎が痛くなるんだ。パンが固すぎてね。スープも酷いものだ。あれは色のついたお湯だよ」
語っているうちに味を思い出してしまったのか、ディシディアは一瞬顔を青くする。が、すぐにご飯を口内に放り込んで回復。
彼女はごほんと咳払いをしてから、今一度良二をじぃっと見つめた。
「リョージ。あれはもはや拷問だよ。たまに集落の外から商人がやってくるんだが、その時こっそりと果物をもらっていたほどだ。あれだけを食べるなど、正気の沙汰ではない」
彼女の目は虚ろだった。いつもはキラキラと輝いているエメラルド色の瞳は濁っており、深い闇を讃えている。
良二はもうすっかり怯えているようだったが、ディシディアはさらに続ける。
「一度私も友人たちにあれを振舞ったのだが、どんな反応をされたと思う? 曖昧な笑みを浮かべつつ『美味しい』と言われたんだぞ? 気を遣われることがどれだけ辛かったか……ッ!」
ディシディアは苦虫を噛み潰したような顔になりながらグッと拳を握っている。普段とはまるで違う様相に、さしもの良二も驚きを隠せないようで、
「ディ、ディシディアさん? ちょ、ちょっと落ち着きましょう?」
と、あわあわしながらも彼女を宥めている。
ディシディアは完全に我を失っていた。いつも食べる時は大抵我を忘れているのだが、今回はベクトルが違う。もっと陰鬱としていて、見ているだけで痛ましくなるほどだ。
良二はわざと明るく振舞いながら、冷蔵庫の方を指さした。
「と、とりあえず、ビール開けますか?」
「頼む……思い出したら泣きたくなってきた」
彼女は机に突っ伏して肩を震わせている。
軟禁生活が軽くトラウマになっているのかもしれない。
良二は先ほどまでとは一転した彼女の態度に苦笑しながら、冷蔵庫からビールを取り出した。