第七十八話目~立ち食いソバと低身長~
今日は珍しく雨だった。しかし、そんな中、ディシディアは傘を差しながらスキップ気味に歩いていく。足元ではぱちゃぱちゃと水が跳ね、チラリと上を見上げれば透明なビニール傘にぽつぽつと雨が落ちてきているのが見てとれた。
「こうやって歩くのも風流だね」
彼女は横にいる良二に語りかける。今日は二限目の授業が休講になったため、早帰りしてきたのだ。
「あっちの世界に傘はあったんですか?」
「このようなものではないが、似たものはあったよ。木の葉を加工して作る大傘は比較的人気だったな。私も愛用していたよ」
良二の脳内に、大きめの葉を傘にして佇むディシディアの姿が浮かぶ。それがあまりにもイメージピッタリだったため、彼はついクスッと笑ってしまった。
それを見たディシディアは不思議そうに首を傾げながらも、上機嫌で先を歩いていく。ダンサーのようにクルクルとその場で舞い、その度に水飛沫が上がった。
良二は微笑ましい光景に目を細めながらも前方を見やる。雨足はそれなりに強いので司会はやや狭まっているが、目的地である駅は見えてきた。流石に今日は人も少なく、空いているようである。
「ところで、リョージ。今日は何をご馳走してくれるんだい?」
と、不意にディシディアが語りかけてきた。
今回外出したのは良二の提案によるものだ。が、どのような目的で駅に向かうのは知らされていなかったのを今さらながら思い出し、ディシディアは目をパチパチと瞬かせる。
良二は含みのある笑みを浮かべつつ、
「立ち食いソバですよ。駅前に新しくできたんです」
「立ち食い……ソバ? テイクアウトかな?」
「はは、違いますよ。まぁ、行けばわかりますって」
良二はあえて核心には触れず、ひらひらと手を振っておどけてみせた。ディシディアはやはり知りたそうにしていたが、もう駅が間近に迫っているのを見て大きく息を吐く。
「して、それはどこにあるんだい?」
「ほら、あそこですよ」
良二が指差す先には、真新しい建物。看板にはデカデカと『立ち食いソバ』の文字がある。どうやら開店セールを行っているらしく、雨だというのに中々賑わっているようだった。
そうして店内に入るなり、ディシディアはポンと手を打ちあわせた。
「なるほど。立ち食いソバとはこういうものなんだね」
店内にはズラリと客たちが並び、彼らはずるずるとソバを啜っていた。腰掛けられる椅子などもあるが、ほとんどの人たちが立っており、回転率はかなり高い。
「ふぅむ……日本式のファーストフードといったところか……」
ディシディアは思案気な顔をしながら傘を閉じ、中へと足を踏み入れる。
すると、濃厚なつゆの匂いが鼻孔を貫いた。それだけで口の中には唾が溢れ、胃の虫も騒ぎ始める。すでに期待値はうなぎのぼりだ。ディシディアは意図せず口の端を歪めながら唇を舐める。
「こっちですよ。まずは食券を買うんです」
一方の良二は手慣れた様子で券売機の前に立ち、ピッとボタンを押して食券を取ってカウンターの方へと向かう。
ディシディアもそれに後れを取るまいとやや背伸びをして硬貨を入れ、ボタンを押した。
「ディシディアさん。俺が渡しておきますから、席取りをお願いします」
「わかった。頼んだよ」
ディシディアは良二に食券を渡し、コップに水を注いでから店の隅にある席へと移動する。カウンターには七味や胡椒、ソースなどが並べられている。案外豊富な調味料に、彼女は目を剥いた。
「お待たせしました……って、どうしたんですか?」
両手に大きめの丼を抱えてやってきた良二は食い入るように調味料を見入っているディシディアに怪訝な眼差しを向けていた。彼女はその時になってようやく良二の存在に気づいたらしく、コホンと咳払いする。
「気にするな。それにしても、ずいぶんと早いな」
「それが立ち食いソバのウリですから。はい、コロッケソバお待ちです」
良二はディシディアの眼前にそっと丼を置いてやる。
濃いめの汁にはたっぷりのソバが沈んでおり、わかめとねぎが少量ながら入れられている。丼の脇には楕円形の茶色い物体――コロッケが浮かんでいた。
ディシディアは良二に割り箸を渡すなり、そっと両手を合わせた。
「では、いただきます」
パチンッと割り箸を割り、早速ソバを持ち上げる。彼女は髪にかかる髪を手で払ってからフーフーとソバに息を吹きかけ、一気に啜る。
鰹節と濃い口しょうゆがよく効いたつゆだ。特に鰹節の芳醇な香りは嗅いでいると蕩けそうなほどであり、同じ海産物であるわかめとの相性もよい。
ソバ自体も粗挽きのためそば粉の風味を十二分に感じることができる。
関東のつゆはやや濃いめの味付けだが、ソバ自体の味がしっかりしているためキチンとした軸ができている。それに、箸休めのネギがまたいい仕事をしている。口に含むとシャクシャクとした食感と共に微かな甘みを寄越してくれた。
ディシディアはひとしきりそれらを堪能した後で、ようやくコロッケを持ち上げる。どうやら揚げたてらしく、箸で掴むとカシュッという音がした。それだけでまた胸が高鳴る。
ディシディアは大口を開けてコロッケにかぶりつき、もぐもぐと咀嚼する。
やや甘めの味付けに仕上げられたコロッケの衣はサクサク。しかし、つゆに面していた部分はしんなりとしていて、つゆがよく染みている。この食感の二重構造すらも魅力的だ。
その余韻が抜けぬうちにソバを啜れば、未知の扉が開かれる。
ホクホクのじゃがいもがソバによく絡み、つゆの味をまろやかにしてくれるのだ。中に入れられているコーンもプチプチとしていて心地よく、飽きることがない。
「にしても、よくコロッケソバなんて注文しましたね」
そう告げる良二が食べているのは至って普通のわかめソバ。大盛りのためディシディアのものよりもやや大きめの丼に入っている程度で、特に目新しいところはない。
ディシディアは口の中に入っていたものを全て嚥下してから、コクリと頷いた。
「まぁ、天ぷらソバは聞いたことがあったがコロッケソバは知らなかったからね。いい機会だったから、頼んでみたよ」
「本当、チャレンジャーですよね……尊敬しますよ」
「ふふ、褒めても何も出ないよ」
ディシディアは愛嬌のあるウインクを返すなり、今度はコロッケをつゆの中にダイブさせた。そうして、箸でいくつかの塊に分け、ソバと共に掻きこむ。
最初食べた時とはまた違った味わいに、ディシディアはブルリと身震いした。
衣の脂が徐々にしみだしていくにつれ奥深さは増し、じゃがいもが溶けていくうちに味はだんだんまろやかになっていく。しかも、時間が経つにつれて味は徐々に変化していくのも楽しい点だ。
天ぷらではこうはいかない。確かに味を変化させることは可能だが、コロッケソバとはまた違うベクトルだろう。
コロッケとソバが織りなすハーモニーにディシディアが舌鼓を打っていると、ふと良二がちょいちょいと肩を叩いてきた。
彼は不安げに眉根を寄せながら、
「ディシディアさん、きつくないですか?」
と、語りかけてくる。
実際、ディシディアは終始つま先立ちであり、少々窮屈そうだった。
今まではスルーしていた良二も、流石に放っておけなくなったらしい。彼は近くにあるテーブル席を指さした。
「そのままじゃ大変でしょう? あっちが空いてるんで移動しませんか?」
しかし、ディシディアは躊躇いがちに首を振る。
「気持ちはありがたいが……せっかくの立ち食いソバだ。どうせなら、このままがいい」
「でも……」
「なぁ、いいだろう?」
良二はまだ何か言いたそうだったが、潤んだディシディアの瞳を見てグッと体を強張らせる。伊達に数か月一緒に暮らしているわけではない。
ディシディアはどうすれば彼がこちらの提案を受け入れてくれるのか知っているのだ。
(卑怯だ……)
内心そんなことを思いつつも、結局は言いなりになってしまう。良二は諦観を含めたため息をつき、ひょいと肩を竦めた。
「ありがとう、リョージ」
「どういたしまして」
良二はややふてくされたように答え、ズズーッとソバを啜る。ディシディアもそんな彼を一瞥してからソバを口いっぱいに頬張るのだった。