第七話目~胡椒餅と青島ビール。デザートは甘栗で~
昼になり人が増える通りを歩きながら、ディシディアはきょろきょろと辺りを見渡している。すでにほとんどの店が開いており、店頭には見たこともない食材や物産が置いてあった。威勢のいい売り子たちの声や人々の笑い声が反響する。
その賑やかさに戸惑いながらも、ディシディアはふっと口の端を吊り上げた。
「ずいぶん賑やかになってきたね」
「もう十一時ですからね。たぶん、これからもっと混むと思いますからはぐれないようにお願いします」
「わかっているよ。君は相変わらず心配性だね」
一応ディシディアは成人しているのだが、見た目は完全に子どもだ。それに、まだ彼女はこの世界に不慣れである。そこを狙われる可能性がないとは言い切れない。良二が心配するのも無理はないだろう。
しかし、当の彼女はひょいっと肩を竦める。
「まぁ、私にちょっかいを出したら、少しは痛い目を見てもらうがね」
ディシディアの瞳は妖しい光を宿している。その人ならざる様相に、改めて良二は彼女が自分とは異質な存在だと考えさせられる。しかし、ディシディアはすぐにまた子どものように無邪気な表情に戻り、ポンと良二の腰の辺りを叩いた。
「大丈夫。君に迷惑をかけるわけにはいかないからね。あくまで穏便に事を済ませるつもりだよ。まぁ、何もないのが一番だけどね」
そう付け加えてから、彼女はほうっと息を吐いた。まだ舌には先ほどの小龍包の余韻が残っている。アツアツのスープをすすった影響か、呼吸をすると口蓋と舌が少しだけひりひりする。だが、それすらも心地よい。
彼女は小さく目を細めながら鼻をひくひくと動かした。何かを焼く香ばしいにおい、柑橘系の鼻をつんと突くようなにおい、そして脳髄をゆっくり溶かしていくような甘いにおいが入り混じっている。それを嗅いでいるだけで、また彼女の腹の虫が騒ぎ出した。
それは良二も同じだったようで、彼もごくりと生唾を飲んでいた。ディシディアも口の端からこぼれていたよだれをハンカチで拭い、良二の服の裾をちょいちょいと引っ張った。
「また何か食べていかないかい?」
「ですね。じゃあ、あそこにしましょうか」
「……む? あそこかい?」
彼が指差した先にあったのは――長蛇の列だ。その先には、とある中華料理店がある。どうやら、この列はテイクアウトの列らしい。しかし、パッと見ただけでも二十人は並んでいる。あまりに長すぎて、隣の店の前まで列が伸びているほどだ。従業員らしき人が立て看板を持って最後尾を示している。
そのような様を見て、ディシディアは頬をひくひくと蠢かせた。が、良二はピッと人差し指を彼女に突きつける。
「ディシディアさん。これは俺の経験談ですが……行列に並ぶのもまた一興、ですよ」
「……一理ある。せっかくだ。時間もあるし、そうさせてもらおう」
これほどまでに人がいることに驚いているのか、ディシディアはやや及び腰だ。
彼女はチラリと前方を見やって、戦慄する。よくよく見れば、レジはたったの二つしかない。対して、並んでいるのは数十人。しかも、家族連れなどが多くオーダーもバラバラのようだ。当然、時間もそれだけかかってしまうだろう。
一体、自分がたどり着く頃にはどれだけ時間が経つのだろうか……。
そんな考えが彼女の脳裏を渦巻く。
だが、それは杞憂に終わった。
意外にも回転が速く、次々と人が捌けていく。注文をすれば中にいる従業員たちが抜群のチームワークで商品を用意し、素早く渡してくれる。会計はベテランがやっているのか、レジ打ちには一切の淀みがない。
調理場は透明の仕切りで遮られているものの、中を見ることはできる。いくつもの調理器具を巧みに操る料理人たちの手際に、二人も思わず息を呑む。
「いらっしゃいませ。お先にお品書きをどうぞ」
と、そこにふと声がかかる。見れば、店頭で列の整理にあたっていた男性従業員がお品書きを手渡してくれているところだった。
「あ、ありがとうございます」
良二は受け取るなり、グッと身を屈めてディシディアの目線までお品書きを下げる。彼女はそれを見やって、またしても目を剥いた。
「ほぅ。ずいぶんと色んな料理があるんだね」
このお品書きも写真が使われているおかげでだいぶ見やすくなっている。この店は点心を売りにしているのか、焼き小龍包や焼売などが中心だ。しかもそれらのバリエーションが半端ではない。焼売だとしたら数種類は揃っている。それを売りにしたセットもあるくらいだ。
しかし、こうも品目が多くては当然の如く判断に困る。それがこの世界にまだ慣れていないディシディアならなおさらだ。彼女は難しそうな顔のまま、小さく首を傾げる。
「むぅ……どれにしようか?」
「そうですねぇ……普通なら、鉄板メニューを頼むところですけど、せっかくだから珍しい料理も食べてみたいですよねぇ」
この店で一番人気の料理は焼き小龍包らしい。だが……種類は違うとはいえ、先ほど小龍包は食べたばかりだ。二人は同時に顔を見合わせて、唸る。
「リョージは何が食べたい?」
「いや、ここはディシディアさんに任せますよ」
「いやいや、私は先ほどまでわがままを言っていたのだから、今回は君に任せるよ」
「いやいやいや、今日はディシディアさんがゲストなんですから」
「あの~……もしもし? お次のお客様……」
と、二人が言い合っていると、不意に誰かが声をかけてきた。ハッと顔を上げて前を見てみれば、レジに立っている女性が手を上げている。
二人はようやく自分たちの番が来ていたことに気づいたようで、顔を真っ赤にしながら彼女の方に歩み寄り、お品書きを見やる。だが、結果は同じだ。どれにするか決めあぐねて、二人して悩ましげに眉根を寄せる。
しかし、そうこうしている間も後ろからのプレッシャーは放たれ続けている。それに耐えきれず、良二は咄嗟にメニューの一点を指さした。
「こ、これを二つ下さい!」
「はい。胡椒餅ですね。合わせて八百円いただきます」
良二が会計を済ませている間に、ディシディアはお品書きに乗っている写真を見やる。そこにあったのは、こんがり狐色に焼けた肉まんのような何かだった。中に何が入っているかはわからない。全く持って、謎の料理だ。
「なぁ、リョージ。これはどういう食べ物なんだい?」
「いや、実は俺もよくわからなくて……」
その答えに、彼女はついぷっと吹き出してしまう。
「……なるほど。これもまた醍醐味だな。互いに知らないものを食べるとは」
「はい。胡椒餅二つ、お待たせしました。お熱くなっておりますので、お気をつけて」
ディシディアがクスクスと含み笑いをしていると、レジの女性が二つの紙袋を渡してきた。良二はそれらを受け取りレジの前から移動しつつ、ディシディアに渡す。
彼女はそれを受け取るなり、包装をほどいて中を見やる。そこにあるのは、お品書きにあった写真と寸分たがわぬ代物だ。が、想像の上を行くものでもあった。
どうやら出来立てなのだろう。紙袋に入れているというのに、とても熱い。ともすれば、落としてしまいそうなほどだ。さらにきつね色に焼かれた生地の表面にはゴマがふんだんに散らされている。焼けたゴマの匂いが鼻をくすぐり、食欲を刺激する。
気づけば、ディシディアの口内は溢れんばかりのよだれで満たされていた。
彼女は意を決したようにグッと唇を噛み締め、小さく頭を下げた。
「では、いただきます」
小さな口を開け、カプッとかぶりついた。直後、ゴマの香りとよく焼けた生地の風味が口内を満たしていく。カリッという快音が鳴り響き、続けてじゅわっと熱い肉汁が飛び出してきた。さらにゴロゴロとした肉塊が躍り出てきて、口内で踊る。香草も入っているのだろう。やや癖のある風味が鼻を突きぬけていく。
「おぉ……ッ!」
先ほどの小龍包と方向性は違うが、よく似ている。どちらもアツアツで火傷してしまいそうなのに、だからこそ美味い。先ほどの小龍包がスープの美味さを軸にしているならば、こちらは肉だ。
ゴロゴロと細切れにされた肉塊は噛みごたえがあり、香草とよく合う。噛むたびに肉汁が溢れ、それを吸った生地は絶品だ。肉の臭みは香草によって消されているので、純粋な旨みを楽しむことができる。
もぎゅもぎゅと咀嚼しながら、ディシディアは満足げに鼻を鳴らした。
普通なら、こんな暑い日にこれほど熱い食べ物を食べなくてもいい、と思うかもしれない。だが、これが意外にも心地よい。汗を流しながら、熱いものを目いっぱい頬張る。今、彼女は至福に包まれていた。
……しかし、このような時には必然的に水分が欲しくなるものである。それを察知していたのか、良二はサッと近くの出店によってあるものを買ってきた。
彼が持っているのは二つの瓶である。すでに蓋は開けられており、いつでも飲める体勢になっている。ディシディアはそれを受け取るなり、匂いを嗅いで――すぐに目を見開いた。
「これは、お酒かい?」
「はい。青島ビールって言うらしいです。これと合うかなって」
「さて、それはどうだろうか?」
彼女は嬉しそうに言って、グイッと瓶を煽った。
それと同時――清涼感のある液体がするりと喉を過ぎていく。アルコール分はそれなりに高いのだろう。だが、口当たりが爽やかでまるで水のようだ。なのに、しっかりとした風味が備わっている。
ディシディアはすぐに先ほどの胡椒餅にかぶりつき、続けてビールを煽る。
すると、彼女の表情筋が一斉に緩んだ。
味の濃い胡椒餅と、さわやかな味のビールは相性抜群だ。ビールを飲むごとに口の中がリセットされ、また胡椒餅の風味を楽しむことができる。
アツアツの胡椒餅を頬張った直後にキンキンに冷えたビールを煽ると、歓喜に体が震えた。
熱いものを食べた直後に、冷たい飲み物を煽る。これ以上の至福があるだろうか?
気づけば二人はあっという間に胡椒餅もビールも平らげていた。彼女たちは自分でも何が起こったのかわかっていないようで顔を見合わせている。人は美味しいものを食べた時は我を忘れてしまうのだ。
彼女たちはぽかんと口を開けていたが――やがてふっと笑みを浮かべる。
「美味しかったですか?」
「あぁ、とても。本当によかったよ」
「それを聞けてうれしいです。じゃあ、行きましょうか」
――と、二人が足を踏み出した直後だった。
「あ、お兄さんお嬢ちゃん! ちょっと寄っていってよ!」
そんな威勢のいい声が響いてきたのは。
二人が声のした方向に視線を移すと、そこにいたのは二人の女性だった。どちらも若く、活発そうな印象を受ける。そんな彼女たちの前には、大量の甘栗とよくわからない機械。どうやら、甘栗の露店販売をしているらしい。彼女たちは出来立てと思われるそれをグィッと突き出してきた。
「食べて行ってよ! 美味しいよ!」
「ほぅ。行ってみようじゃないか、リョージ」
返答を待たず、ディシディアは彼女たちの元に駆け寄り、その甘栗を受け取った。
殻をむかれた甘栗はつやつやとしていて、甘く芳しい匂いを漂わせている。
ディシディアはそれをよく冷ましてから口に放り込んだ。
「――ッ!?」
途端、ズシンとした甘みが口内を席巻する。その感覚に、彼女は目を丸くした。
「……美味い」
「でしょ? ウチのは特別性だからさ! 美味しくないわけがないよ!」
言いつつ、もう一つ差し出してくる。ディシディアはすぐにそれも口内に放り込んで、よく咀嚼した。
砂糖などは使われていない。ここにあるのは、素材本来が持つ甘みだ。焼かれていることでそれがギュッと凝縮されている。優しい甘さで、食後にはうってつけだ。焼き立てはほくほくとしていて、舌触りも良い。
これまで食べたのは、全て制作者の創意工夫が凝らされたものばかりだった。無論、それにはそれの良さがあり、素材を活かした上で味に深みを加えている。
だが、これは――素材が持つ力を限界まで引き延ばしたものだ。特に手を加えたものではない。それは確かだ。だが、既製品とは比べることすらできはしない。ゴテゴテした味がない分、素材の味を十二分に味わうことができている。
これにはディシディアも度肝を抜かれたようで、呆然としていた。
「……驚いたな。故郷にも似たものはあったが、それとは段違いの美味さだ」
「なんたって中国四千年の歴史だからね! それで、買う? 買わない?」
「いや、買った!」
即答だった。ディシディアは財布から千円札を取り出し『小』と描かれた甘栗の入れ物を指さす。
「はい、ありがとね! お嬢さん、気前がいいからサービスしておくよ!」
女性のうち一人がそう言い、もう一人が甘栗を袋いっぱいに詰めた。だが、それだけではない。持ちやすいようビニール袋に入れた後も、焼き立ての甘栗をどさどさと入れ始めたのだ。
慌てて、ディシディアは制止に入る。
「ま、待ってくれ! そんなにもらっては悪い」
今、彼女たちが入れた分を合わせると『大』と書かれた袋に入っているものよりも多い計算になる。ちなみに『大』の料金は二千円。どう考えても、割に合わない。
だが、千円札を持った女性は含み笑いを浮かべて人差し指をピトッと唇に当てた。
「大丈夫。今社長さんがいないから、サービスするよ。どうせ余ったら捨てちゃうんだしね」
「し、しかし……」
「いいのいいの! ね? チャン!」
「そうそう、リンの言う通りよ! はい、これどうぞ!」
「わ、とと……ッ!」
持たされたビニール袋はパンパンで思わず取りこぼしそうになってしまった。ディシディアは戸惑っていたようだったが、やがてニコリと笑みを浮かべて彼女たちに頭を下げる。
「どうもありがとう。ありがたくいただくよ」
「どういたしまして! それじゃ、よい一日を!」
「あ、その前に。これって日持ちしますか?」
去ろうとしていたディシディアを引き留めて良二が問いかけると、女性たちはコクリと頷いた。
「うん。大体一週間は持つから、そう焦らなくていいよ。ゆっくり味わって食べてね?」
「それはまぁ……そうですね。流石にこの量は一日じゃ無理ですよ」
良二はディシディアが抱えているビニール袋を見て呟く。それを聞いたディシディアはぷっと吹き出し、それにつられて女性たちも豪快に笑い声をあげた。